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第6話

 そうしてまっすぐ歩いたが、老婦人は角を曲がって少し歩くとある、と言っていたのに公園らしきものは見えなかった。 「まだかな…………うわっ」  きょろきょろとあたりを見回しながら歩いていたせいで、水たまりに足を踏み入れてしまった。幸い水たまりに水はさほどなかったせいでさして濡れることもなかったが、まだゆうべの雨の影響は残っているようだ。  気をつけなくちゃ、と思ったそのすぐ後のことだ。  ルディの横を豪華な馬車が通り過ぎていき、同時にバシャン、と水音がしたかと思うと馬車の車輪が大きな水たまりの汚泥を勢いよくはねた。 「わっ!」  泥水はルディの身体にかかり、服を盛大に濡らして汚す。 「……どうしよう」  ルディは己の姿の惨憺たる有様を見て、がっくりと肩を落とした。着替えようにも、替えの服は一着しかなく、また泥だらけのこの服をどこで洗おうかと考えるだけで頭が痛い。  やはり多少無理をしてでも宿に泊まったほうがよかっただろうか、と深く溜息をついた。  そのときだった。  ルディに泥水をはねた馬車が、少し先で止まり、二人の迫力のある美青年が降りてきた。  二人とも遠目に見ても、はっとするほどの美形である。  一人は黒髪が特徴の、とても背が高くしっかりした身体つきの端整な青年、もう一人は黒髪の青年よりはやや背が低いが、金髪でとても華やかな雰囲気を持った青年だ。 「きみ!」  一瞬誰のことを呼んでいるのかルディにはわからなかった。だが、今、この通りを歩いているのはルディしかおらず、美青年たちが呼んでいるのが自分であることを理解する。 「あっ、あの……僕のことでしょうか」  顔を上げて返事をすると、金髪のほうの青年が「そう、きみ」と早足で駆けてくる。もう一人の青年もゆっくりと後を追ってルディのほうへやってきた。 「大変申し訳ないことをしたね」  金髪の青年は心底申し訳ないという顔をしてルディへ謝罪する。 「え……?」  いきなり謝られてルディは困惑した。  すると金髪の青年はさっとハンカチを取り出して、ルディにかかった泥を拭おうとする。 「我々の馬車がとんでもないことを。大きな水たまりに気づかずにきみの服を汚してしまった。本当にすまない」  その言葉でようやくルディは、馬車がしでかしたことをわざわざルディに謝るために馬車を止めたのだとわかった。  馬車も豪華だが、この青年らの身なりも実に立派なものである。  これでも男爵家の生まれである。彼らが身につけているものの価値がどれほどのものかルディはわかるつもりだ。  フロックコートの仕立てのよさや、上質なシルクのタイ。ブローチはサファイアだろうか。ポケットからは金鎖が覗いている。また手にしているステッキには象牙の細工があしらわれていて、かなりの値打ちものだ。これだけでも彼らの身分は随分と高いのだろうということが推察できた。 「いっ、いえっ。あのっ、僕の服なんて……そのきれいなハンカチが汚れますから」  ルディはそう言って金髪の青年の手を止めようとする。 「そんなわけにはいかないな」  横から割って入るように、黒髪の青年が声をかけた。 「ああ、そうだよ。悪路だったとはいえ、こんなに汚してしまったのだからね。きみ、よければその服を弁償させてくれないか」  謝ってくれただけでも、十分だと思っているのに、その上弁償という言葉が出てきてルディは目を白黒とさせた。 「そんな……! 弁償していただくほどの服ではありません。僕は大丈夫ですから。その……お気持ちだけで十分です」  恐縮するルディに黒髪の青年は「いや、馬車の不始末は主人の不始末だ」と言いながら、ルディをじっと見る。  見つめられ、ルディはこの青年の鳶色の瞳に吸い込まれそうになる。それほど彼はひどく魅力的な男だった。 「こんなにびしょ濡れにさせた挙げ句に泥だらけのままきみを帰すわけにもいかないだろう」 「本当に大丈夫ですから……ックシュ」  さすがにびしょ濡れのまま突っ立っていたせいか身体が冷えてきたらしい。くしゃみをしてしまう。  それを聞いた黒髪の青年が「強がりを言うものではないよ」とルディの手を取った。 「おいで。うちの屋敷がすぐそこにある。せめてうちで暖まって、服を乾かしてから帰りなさい。それならいいだろう?」 「でも……」  遠慮していると、金髪のほうの青年が「風邪をひくよりはいいでしょう。さあさあ、遠慮しないで乗った乗った」とルディを強引に馬車に乗せた。  馬車の内装にルディは目を瞠る。フラウミュラーの家の馬車よりも格段に豪華であり、乗っていても揺れをそれほど感じない。クッションがきいた座面はとても乗り心地がよく、おそらくフラウミュラーの家よりも格が随分と上なのかもしれないと感じた。 「改めて詫びを言うよ。申し訳なかったね」  金髪の青年が言う。 「いえ……かえって僕のほうこそお気遣いいただいて……申し訳なかったです」 「いやいや。ゆうべの雨がひどかったとはいえ、通行人に注意を払えなかったのはこちらの落ち度だからね。ところで、きみの名前は?」 「ルディ……です」  姓まで言おうかどうしようかと迷って、結局名前だけを告げた。もうフラウミュラーの家は追い出されたのだから、家名を名乗ることはできない。 「ルディくんか。いい名前だね」 「……ありがとうございます」  そう返事をすると、金髪の青年は「しまった」と大きな声を上げた。  ルディがきょとんとした顔をしていると、青年は天を仰いで大きな溜息をついた。 「まったく! 私ときたら! なんてこった」  そうしてルディに向き直る。 「きみの名前を先に尋ねてしまったが、こちらから名乗らず失礼したね。いやあ、今日の私たちはきみに失礼なことばかりしている。申し訳ない」 「あ……いえ……」  そんなことくらい、どうということもない。身分が下の者に自分からわざわざ名乗ることもないだろう。なのにきちんと謝ってくれるその真摯な態度にルディは好感を持った。 「きみがとても可愛いから、すっかり見惚れてしまって――」  軽快に面と向かって赤面するような台詞を金髪の青年が言いはじめると、隣に座っていた黒髪の青年が「おい」と金髪の青年を肘で小突いた。 「いいから、名乗るならさっさと名乗れ。失礼だと思うなら、すぐに名乗るのが礼儀だろうが」  はあ、と大きく溜息をついてそう言った後で、黒髪の青年はルディに向き直った。 「きみにはいろいろと迷惑をかけた。俺はラフェド・クラウゼという者だ。そしてこいつがシモン・フォン・ヘルフルト。はじめに名乗っておくべきだった。屋敷に戻る途中で馬車を急がせたせいできみには迷惑をかけた。許してくれるとありがたい」 「そんな……! 許すも許さないも、僕は本当に気にしていませんから」 「そうか。そう言ってもらえるとうれしいが」  ラフェドと名乗った黒髪の青年はルディへ微笑みかけた。その笑顔がとてもきれいで、ルディは思わず見惚れてしまう。  ラフェドの隣にいるシモンもたいそう美しい青年だが、ルディはなぜかラフェドに目を奪われていた。  なんてきれいな人なんだろう。  ルディはそう思いながらラフェドを見、そして彼の名前を胸の中で繰り返した。 (ラフェド……ラフェド・クラウゼ……)  ラフェド・クラウゼ……そしてシモン・フォン・ヘルフルト――。  ルディはその名前を聞いて、どこかで聞いた名前だと思った。だが思い出せないままいるうちに、馬車が止まる。 「着いたようだな」  ラフェドが窓から外を覗く。  そういえばラフェドが「うちの屋敷がすぐそこにある」と言っていたが、走り出してから十分とかかっていない。本当に近い場所だったらしい。  門が開く音がして、その後いったん止まった馬車は再び走り出す。そこからさらに少し進む。馬車は屋敷の正面玄関につけられたようで、それ以上動くことはなかった。

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