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第5話

 ルディは部屋に戻ると、荷物を作りはじめた。  明日までに、とはなんと容赦ないことだろう。住む場所も働く場所もないのに、出ていかなければならないなんて。  しかし、ここでめそめそ泣いていてもはじまらない。明日には望むと望まざるとにかかわらずここを追い出されてしまうのだ。だったら、潔くしていたほうがいい。 「……けど、荷物っていっても……」  はあ、とルディは大きく溜息をついた。  グレゴールがこの屋敷にやってきて以来、ルディのものはすべて取り上げられていた。ルディが使っていたきれいな石のついた銀製のペーパーナイフも、ガラス細工のペントレイも、今はサビーネのものになっている。 「これは見つからずにすんでよかったけど……」  グレゴールがルディの部屋に乗り込んであれもこれもと没収していったとき、ルディは本当に大事なものはそっと隠しておいた。  ベッドの下から、革製の巾着袋を取り出すと、ルディはそれを開けて中身を出した。  巾着袋の中には、生前の父親から「いざというときに備えておきなさい」と渡されていた十枚ほどの金貨と、母親の形見の指輪、そして父親の形見の懐中時計。 「父様からいただいた懐中時計も母様の指輪も……見つかったらきっと取り上げられていたよね」  金の懐中時計は、十五歳の誕生祝いに父親からもらったものだ。  ルディの誕生日からまもなく父親が亡くなったこともあって、なにより大切にしているものである。だから、毎日きちんとネジを巻いて時計が狂わないようにするなど、手入れを欠かしたことはない。  とはいえ、ルディの持ち物といえば、この時計くらいなもので、他はなにもない。あとは貯めていた小遣いの銀貨と銅貨が少し。着替えといっても当て布とつぎをしているものくらいしかないが、ないよりはましか、と鞄に入れた。それでも小さな鞄はいっぱいにならず、スカスカなままでルディは苦笑する。  荷造りを終えると、ルディは天井を仰いだ。  天窓から見える星空はいつもと変わらない。  ルディはベッドの上にごろりと横たわった。 「ここで見る星も最後か……」  毎晩空を眺めながら、明日はきっといいことがある、と自分を鼓舞してきたが、さすがに今夜はへこたれてしまいそうだ。 「あー、やめやめ。しょげていたら、幸運が逃げていっちゃう」  ルディはそう声を出す。  ――ルディ、俯いてばっかりいたら、目の前にある幸運に気づかないわよ。  生前、母がそんなふうにルディに言っていた。  オメガであることを一時期とても悩んでいたときに、母がこの言葉をルディに向かってよく口にしていたのだ。 「いつかきっといいことがあるよね」  こんなことでもなければ、ルディ自身この屋敷から一歩も出ずに一生を終えただろう。きっとこれは自分の目で広い世界を見なさいということなのかもしれない。 「父様、母様、おやすみなさい」  明日から、自分一人の力で生きていかなければ。  ルディはそう自分に言い聞かせながら、そっと瞼を閉じた。  あくる日の朝、ルディはグレゴールの言うとおり、フラウミュラーの屋敷を後にした。  ルディが去った後、屋敷の門はぴったりと閉められて、けっして戻ってくるなといわんばかりに思える。 (本当に、これで……)  振り返って一瞬立ち止まる。  フラウミュラーの屋敷にはルディのすべてといっていいくらいの思い出が詰まっている。うれしい時間も悲しい時間もあの屋敷で過ごしてきた。  それに生まれてから今まで、門の外には一人で出たことがなかったから、これから先が不安でないといえば嘘になる。  けれどもう屋敷を出てしまったのだ。これからはどうにかするしかない。 (マリアたちに心配かけないように頑張らなくちゃ)  ルディの出立をマリアだけでなく、他の使用人も見送ってくれた。  今朝早く、ルディが屋敷を出ると聞いたマリアは、今までに見たことがないくらい顔を青くし、そしてボロボロと涙をこぼした。 「寝耳に水ですよ! 坊ちゃん!」  そう責めるように言ったマリアにルディは「急に決まったことだから」と説明したが、出立の寸前まで納得していないようだった。  けれど、泣いてはルディを困らせてしまうと思ったのか、見送るときには涙を堪えていたけれども。  コックがこっそりパンやドライフルーツ、また焼き菓子を持たせてくれ、スカスカだった鞄があっという間にいっぱいになった。 「また絶対戻ってきてください」  そんなふうに声をかけられたが、それは叶わないことだとルディはわかっている。けれど、そう言ってくれる気持ちがうれしくて否定できず、ただ小さく笑っただけだった。  だが、後ろ髪を引かれる思いで遠ざかり、屋敷が見えなくなったところでルディは少しだけ泣いた。 「泣くのはこれでおしまい」  そう言いながらルディは袖口でぐいと涙を拭うと、前を向いて歩きはじめた。      Ⅱ        オメガであり、多少は雑用をこなしていたとはいえ、これまでかごの鳥よろしく屋敷の中でしか生活していなかったルディは、辛く当たられるのは覚悟していた。  だが――。  昨日は屋敷を出てから日が暮れるまで、今日も朝早くから足を棒にして、住み込みで働けるところを探し回ったが、力もなく取り立てて特技もないようなルディに与えられる仕事はないと断られ続けた。  宿屋や食堂はオメガというだけで、けんもほろろに追い返され、力仕事はルディの華奢な身体を見ただけで門前払いである。 「簡単に見つかるわけがないと思ってたけど、こんなに厳しいなんて……」  試しに働かせてもらうこともできず、途方に暮れながらとぼとぼと歩いていた。  住むところも決まらず、また手持ちの金子も限りがある。  ゆうべは夕方から大雨になり、仕方なく宿屋に泊まったものの、食事なしの一番狭い部屋でさえ、銀貨三枚だ。屋敷のコックが持たせてくれたパンがありがたく、それで空腹をしのいだが、宿屋に泊まればそれだけで持ち金が消えていく。 「今日も宿……ってわけにはいかないな」  宿代を払うのと、食事とどちらかにしないと、この先仕事が見つかるまで金が保たないかもしれない。となると、まずは食事を優先にしたほうがいいだろう。  幸い雨は上がっているし、暑くもなく寒くもないため野宿でも平気そうだ。 「雨よけになるようなところ……でもまだ地面は濡れているかな」  ゆうべの雨がひどかったせいで、まだ地面はところどころぬかるみがあった。  そろそろ日が暮れる時間だが、まだ明るいうちに、どこか野宿できそうな場所を探したほうがいいかもしれない。まだこの辺の地理には疎いし、暗くなるとよけいにわからなくなる。下手なところで寝転がって泥だらけになるのは避けたい。 「そうだ、公園!」  ハッとルディは思いついた。この街には広い公園があると聞いたことがある。ルディは行ったことはないが、きっと公園なら四阿もあるだろう。そうすれば夜露に濡れるのも避けられるかもしれない。  とはいえ、公園の場所などわからないルディは道行く老婦人に声をかけた。 「あの、すみません。この辺に公園ってありますか」  人の好さそうな老婦人はルディに「そこのパン屋さんがある角を右に曲がって少し歩くとあるわよ」と親切に教えてくれた。 「ありがとうございます」 「どういたしまして。でも、もう日が暮れるわ。こんな時間から公園なんて行かないほうがいいんじゃないかしら。なんでも最近あまり治安がよくないと聞いたわ」   心配そうな老婦人にルディは笑顔で「ご心配ありがとうございます」と返事をする。  彼女の心配も確かにもっともだが、背に腹はかえられない。 「大丈夫です。ちょっと用をすませてくるだけなので」  嘘をついた後ろめたさに少し胸は痛んだが、そんなふうにごまかすと、老婦人はいくらかホッとしたように「そう? それじゃあ、気をつけて」とルディを送り出してくれた。  老婦人の言うとおり、パン屋の看板を横目に角を右に折れる。

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