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第1話
小学生のころ、三年ほど絵画教室に通った。僕は絵を描くのは得意ではない。しかし、絵を習わせると子どもの集中力が鍛えられるという噂を聞いた母がやる気になってしまったのだ。
老夫婦が営んでいたその教室のことを、僕は好きにはなれなかったが、苦というほどでもなかった。筆がキャンバスの上を走る音はむしろ好きな方だ。しかし、その音だけを目的に飽き性な僕が三年も興味のない教室に通ったのではない。
窓辺の一番日光の入る席。そこが彼の指定席だった。彼は誰よりも早く来て、誰よりも真剣にキャンバスと向かい合っていた。
白い教室のカーテンと、茶色い壁。彼の黒髪、窓向こうの緑。
彼の瞳は真剣で、横顔は涼やかだった。そしてそのまま、彼の真剣な黒い澄んだ瞳は幼い僕の心に住み着いた。
——僕は絵画教室で初恋をしたのだ。
そして幸運なことに、僕は17歳でこの初恋を実らせた。
「好きだ」
そう告げた時、彼——和也は目を丸くして、それから顔を真っ赤にして頷いてくれた。僕たちは絵画教室で出会って、僕が中学になって絵画教室を辞めたあとも、中学高校の美術部員として隣で筆をとり続けていた。
それなりに長く美術というのに触れたが、まだ僕は美術というものがよくわからないし、まともに絵も描けない。しかし、僕は筆が走る音が好きだ。絵の具の匂いが好きだ。和也がキャンバスの前でいきいきを筆を動かすのが大好きだ。そして何より、和也のきれいな瞳を愛している。
もともと、和也は女性が好きだった。その事実は僕をたびたび苦しめた。和也がかわいい同級生に目をやったり、女友達ができたと聞いたりしたら気が気でなかった。
僕は何度も和也に愛を囁いた。
「君が好きだ」「君の絵が好きだ」「愛してる」
ずっと僕のものであってほしかった。
初体験は18歳のときだ。
夕焼けよりも赤くなった和也と、和也の部屋でつながった。その日のために僕はたくさん調べた。和也も勇気をもって僕を受け入れてくれた。
和也のお尻から僕が放った精がたらりと垂れて、シーツに落ちる。
和也は恥ずかしそうにそれを隠して、それから枕に顔をうずめた。
かわいいなぁ、と思って、そのまま二回してしまった。初めてで苦しかっただろうに、和也は文句を言わなかった。いじらしい和也のことがもっと好きになった。
そこまで和也が僕に赦してくれてもなお、僕の不安は消えることはなかった。脳の中にこびりついたそれはいつも僕に囁き続けていた。
「和也の人生を壊したのはお前だ」「和也は女が好きなのに」「お前のせいで」
僕は気が狂いそうだった。
不安はやがて罪の意識に変わった。
なぜ、和也を愛してしまったのか、なぜ和也に愛を伝えてしまったのか、なぜここまで思ってもなお和也を手放さないのか。
不安定になって底知れない恐怖の沼にずぶずぶと落ちていくと、いつも和也が手を差し伸べてくれた。
「諒、大好きだ」
彼の涼やかな笑顔が唯一の僕の救いだ。彼の笑顔がこちらに向く間だけ、僕は正気を保っていられた。
僕たちはそのまま同じ大学に進学した。
そのとき、僕の両親は父方の田舎に引っ込み、一人暮らしを始めた。
和也は僕のマンションに入り浸るようになっていった。僕が住んでいるマンションは1人で住むには広すぎる。このまま、なし崩し的に和也と幸せな同棲生活でも始めようか、と思っていた矢先に、悲劇が起きた。
その日、和也は僕の部屋にやってくると、急に僕を責め立てた。
「諒のバーカ!」
「な、なんだ急に?」
「ばか! あほ!」
単調な悪口はやがて涙を含み、そしてついにその言葉が出た。
「……もっ、ぅ……、もう別れる!」
そしてそのままくるりと背を向けると、和也は部屋を飛び出していった。
僕は何が何だか分からないまま、和也を見送った。
その帰り道で、和也は信号を無視してきた車に跳ね飛ばされて頭を強く打ち、記憶を失ってしまった。そして、それ以来彼は別人になってしまったのだ。
それから三カ月の月日が流れた。
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