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第2話

 小雪の降る中、マンションの入り口に立っていた人影に僕は眉をひそめた。 「……」  僕は大学の帰りだった。いつもなら遅くとも18時には家に帰るのだが、今日は課題をしていたのでもう時計は20時を回って、すっかり日が暮れている。  マンションのエントランスから漏れる光と声だけで、僕は人影が知り合いであることを把握した。 「僕に用事?」  尋ねると、人影——和也はへらりと笑った。吐息が白い。 「これ、母さんからです」  和也が右手に持っていた紙袋を差し出す。中を覗くと、大ぶりのじゃがいもがごろごろと入っていた。 「……連絡してくれればよかったのに」  なにもこんな雪のなかで待っていなくとも。  和也は首を傾げた。 「俺って、諒さんの連絡先持ってるんですかね? スマホのデータを探したんですけど、それらしいのがなくて」  和也の言葉に僕は目を見開いて、それから、嘘を吐いた。 「こないだ、スマホを落としてね。それで、全部アカウントから新しいのにしたところだ」  和也が差し出している紙袋を受け取ろうとして、和也の手が冷えて赤くなっていることに気が付いた。 「あがっていくといい」  紙袋を受け取らず、そのままマンションのオートロックを解除する。和也はしばしためらったあと、僕のうしろについてきた。  部屋に入り、エアコンをつける。マフラーを椅子の背もたれにかけて、コートをソファに放り投げた。家の鍵を置くと、つけているチャームがじゃらりと音を立てた。  後ろを見ると、和也が玄関で靴を脱いでいるところだった。彼は几帳面に靴を並べて、それから「おじゃまします」と声をかけて入ってきた。  僕はゆっくりと息を吐いた。  和也はいつも何も言わずに入って来ていた。靴も散らかして、どたどたと階下に配慮しない足音を立てて、それから——比べるな。やめろ。  自分に言い聞かせて、つとめて冷静を装った。それでも自分の感情は抑えきれない。 「ホットコーヒーでいいかい」  尋ねると、和也がおずおずと頷いた。  コーヒーメーカーが控えめな音を立てながら動き出す。途端に香ばしい匂いが部屋に立ち込める。 「じゃがいも、貰おうか」 「あ、はい、どうぞ」  少女趣味な彼の母親が選んだのであろう、白とピンクの紙袋。その中に鎮座する無骨なじゃがいもたち。僕は不似合いなふたつに苦笑して、ゆっくりとひとづずつ丁寧に取り出していった。  その間、目だけは彼を追っていた。この部屋を見て、彼が何か思い出すのではないか、と淡い期待がそこにあった。  しかし、和也は目だけでダイニングとリビングを一瞥したあと、行儀正しく椅子に座っただけだった。  僕は出来上がったコーヒーを片手に和也に尋ねた。 「砂糖とミルクはいるかい?」 「あ、いらないです」  彼はそう答えた。僕はまた息を吐いた。まただ。また僕は和也を見失った。  カップを彼の前に置くと、彼はそれを両手で包んで、ゆっくりと息を吹きかけた。湯気が彼の呼気に合わせてゆらゆらと立ち上がって消えていく。 「大学、どうですか?」  和也の問いに、僕は首を振った。 「別にふつうかな。……退学するんだって?」 「ええ、まあ。勉強、わからないし」 「絵は?」 「絵?」 「君は絵が好きだったと思うけど」 「うーん……高校の頃に美術部に入ってたっていうのは母から聞いたんですけど、あんまり、覚えてないです」 「そう」  和也はゆっくりと唇をカップにつけた。黒い液体はぐるぐると彼の唇に吸い寄せられていく。  重苦しい空気がダイニングに流れる。  ふいに、スマホが鳴った。ポケットからそれを取り出すと、画面に父の名前が表示されている。 「ちょっと、ごめん」 「いえ、どうぞ」  リビングを出て、廊下で父と電話をした。用件は限定の雑誌を買っておいてほしいという内容だった。  僕が了承すると、すぐに電話は切れた。  しかし、僕はリビングに戻る気になれなかった。 廊下には和也の絵が飾ってある。きっと、和也は覚えていないのだろう。  部屋にあれこれと飾るのが苦手だった僕の目を盗んで、和也が次々と飾っていったのだ。彼はこの廊下を自分の作品の展示場にするのだと息巻いていた。  絵に手を伸ばす。ガラスの額縁に入れられたその美術品たちは、いまも僕には理解できない。  地震が起きた時に危ないと何度言っても、和也はガラスの額縁にこだわっていた。  そのこだわりも、彼は覚えていない。  僕たちはこれから、別の道を歩くのかもしれない。  あの日の和也の別れ話が、いよいよ身に迫って感じられた。僕はどこかで彼の記憶が戻ってハッピーエンドを迎えるのだと信じていた。しかし。  あんなに好きだった絵画の描き方を忘れて、自分が描いた作品も忘れて、苦手だと言っていたコーヒーをブラックで飲んで。  和也は変わっていく。  僕はそのことに、引き裂かれそうだ。和也が別れを切り出した理由も、いまとなっては誰も知ることができない。  つらい。しかし、それ以上に、安堵があった。彼の人生を壊してしまったという罪を、いまようやく彼の記憶とともに闇に葬ることができるのだ。

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