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第3話

『和也視点』  俺は記憶を失っているらしい。  たまに、そのことが無性に怖くなる。自分の根っこがちぎれてしまって、どこかに吹き飛ばされるんじゃあないかという恐怖だ。  俺は記憶を取り戻そうと、怪しげな民間療法を含めて必死にいろいろなことをしたが、どれも効果はなかった。記憶を失う前の俺が快活な性格で、美術が好きで、勉強はそこそこ、ということは友達や家族から聞いてわかったが、その情報が俺の記憶を呼び覚ますことはなかった。  ただ、ナポレオンの絵画のキーホルダーなど身の回りに美術に関連したものが多く残っていて、それらを見て絵の名前を言い当てることはできた。  部屋を整理していたら、昔俺が描いたのだという絵がいっぱい出てきた。スケッチブックだけで段ボールひと箱分もあるそれを、俺は一枚一枚ゆっくりと眺めた。 「あれ、これ」  途中、俺はあることに気が付いた。 「諒さん?」  昔の俺は特定の人物——諒さんばかり描いていた。  諒さんは病院に一度お見舞いに来てくれた人だ。中学、高校、大学と同じの同級生なのだと家族から聞いた。  高校生時代のアルバムをめくると、いつも彼が隣にいた。そうであるなら、俺が友達を描いていても不思議ではない。しかし。 「きれいだな」  友達に頼んでデッサンをしたというには、あまりにも、その絵は美しかった。諒さんを美しく描く、という強い意志を持って描いたように見えた。  まつ毛、首の角度、それから髪の毛。  他のデッサンにはない、匂い立つような、魅力のある絵だった。  俺はすとん、と理解した。 「ああ、俺、諒さんのこと好きだったのかも」  それなら、この絵も納得だ。俺は諒さんを描いたスケッチブックを段ボールから出して、毎晩眺めた。  彼への気持ちを思い出せたことがうれしかった。スケッチブックの裏には『竹中教室』と書かれていた。  諒さんはどんな人なんだろうか。  俺はスマホのデータを探した。諒さんの写真はたくさん保存されていた。一番古いものは中学生らしい制服を着た諒さんで、最新の写真は隠し撮りのような諒さんだ。しかし、2人のメッセージはなかった。母親に聞いてみると、毎日電話していたはずだと言われた。しかし、電話番号は登録されていない。  今度諒さんに聞いてみたいと思ったが、何を理由に訪ねていけばいいのかわからない。  母親は親友なんだから、理由なんていらないでしょ、と無責任なことを言うが、諒さんは病院で一度会っただけで、いまの俺からしたら知り合い以下といってもいいくらいだ。  悩む俺に、母親は少女趣味な紙袋にじゃがいもを詰めて、もっていけ、と命令した。 *  諒さんが電話をするためにリビングを出たあと、俺はぼんやりと諒さんの部屋を眺めた。生活感のない部屋で、さっき諒さんが脱ぎ捨てたコートとマフラー、それからダッシュボードの上に置かれた鍵だけが唯一人の住んでいる気配を感じさせた。  鍵にはナポレオン絵画を模したキーホルダーのようなものが付いている。廊下にも絵が飾られていた。諒さんが中学高校と俺と同じ美術部に入っていたというから、彼もやはり絵が好きなんだろうか。  そんなことも、俺は知らない。  母親が言うには、ここに俺は入り浸っていたそうだが、なにを見ても、記憶が戻ることはない。それに、諒さんの対応も不思議だ。  親友だった、とまわりの人間は言うが、諒さんの反応は「知り合い」といったところだろうか。  俺はまわりから聞く「諒さんと俺」と、俺が見た「諒さんと俺」のあまりの違いに戸惑う。  何か、何かあるのだろう。  記憶がなくなる前の俺と、諒さんには、ふたりにしかわからない何かがあったんだ。  そして、それを知るのが怖い。  「俺、諒さんのストーカーだったのかなぁ」  俺の気持ちが一方通行で、諒さんは迷惑に思っていたのかもしれない。  それを思い出してしまうのが怖い。  俺はぐっとコーヒーを飲みほした。苦いその飲み物のことは好きではない。しかし、諒さんが勧めてくるのだから、記憶を無くす前の俺は好きだったのかもしれない。  なにもかも憶測だ。俺は憶測でしか俺がわからない。  ゆっくりと立ち上がった。この部屋にもういてはいけないと思った。 「諒さん、ごめんなさい、帰ります。コーヒーごちそうさまでした」  リビングのドアをあけると、廊下で立ち尽くしている諒さんと目が合った。 「どうしました?」  諒さんはこちらを見て、それから廊下に飾ってある絵を一枚指さした。 「この絵、どう思う?」 「……」  それは、大胆な緑を配色した絵だった。緑と、茶色、あとは白。ガラスの額縁に入れられている。 「木の抽象画ですか?」  俺の答えに、諒さんは苦笑した。 「はずれ」  諒さんは僕の肩を叩いた。 「和也」  初めて名前を呼ばれて、俺はどきりとした。 「バイバイ。気を付けて帰るんだよ」  諒さんは、そう言ってなにか吹っ切れたような笑顔で僕を見送ってくれた。

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