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第4話

『和也視点』 何か、俺は大きな間違いをしたのかもしれない。俺は帰り道、諒さんのことばかり考えていた。  脳裏には諒さんの別れ際の笑顔がこびりついていた。たぶん、これはやはり推測なのだが、おそらく、諒さんはああいう風に笑う人ではないのだと思う。  スケッチブックの中の諒さんは、もっと憂いを帯びた、それでいて慈愛に満ちた笑みを浮かべている。  彼に何かあったのだろうが、それが何なのか、俺にはわからない。  わからないなら、もう諒さんの人生から、俺は退場した方がいいのかもしれない。  俺はふらふらと歩いた。この町の道はもうある程度覚えていた。通った小学校、中学校、高校。俺の記憶のピースが落ちているんではないかと、家族が俺を連れ歩いてくれたからだ。  俺は最初は家に戻るつもりだったのだが、なんとなく、そんな気になれなくて、頭の中の諒さんの笑顔を忘れるためにめちゃくちゃに歩いた。闇雲に、そのうち意識的に歩いて歩いて、俺は俺の面影を探した。  ねえ、本当の俺がここにいたとしたら、あんな笑顔を浮かべる諒さんになんて声をかけた?  もちろん、返答はない。  雪はどんどん大粒になっていく。  白く町が覆われて、まるで俺の頭の中みたいだと思った。何もない、真っ白な頭。  ふと、足が止まった。交差点の雑居ビルの2階の看板に目が留まる。『竹中教室』とあった。あのスケッチブックの裏に書いてあった四文字に、俺は吸い寄せられた。  時刻はすでに21時になろうとしている。それでも、その教室からは蛍光灯の光が漏れていた。2階へ続く階段は薄暗い。  ドアノブにゆっくりと手をかけて、ドアを開けると、そこにはモデルを中心にずらりと生徒が円形に並び、絵を描いていた。狭い教室に、イーゼルとキャンパスと彫刻と絵画と生徒が詰め込まれている。俺はその光景に圧倒されて、そして中心に一心不乱に動く筆の音に飲まれた。生徒は誰一人こちらを振りむかない。誰もがキャンパスの中の世界に没頭していた。   「どうしました?」  声を掛けてきてくれたのは高齢の男性だった。年季の入った前掛けは絵の具で汚れている。この教室の先生だと思った。 「あ、あの、俺」  何か言わなければ、と思ったが、不審すぎる自分の状況にふさわしい説明が出てこない。 「あれ、和也くん」 「え……」 「記憶喪失になったって聞いたけど、もうよくなったのかね?」  老人は低く、生徒たちの集中を乱さないように、小さな声で話した。 「あ……えっと、あの……」  老人は俺の戸惑い、驚いている顔を見ると、ふむ、と顎を一度掻いて、それから俺の背中を押した。 「おいで。君の特等席が空いているよ」  老人は俺を窓辺の席に座らせて、説明した。 「君はここの生徒だったんだよ。ずっとね。そしてここは君の特等席だ。……おかえり、和也くん」 「……」  その席は、驚くほど自分に馴染んだ。 「親は、ここには連れてきてくれませんでした」  俺が言うと、老人は笑った。 「はは、内緒で通っていたんだよ。高校一年生の時かな? 絵を描く暇があるなら勉強しろと言われて辞めたのさ。それでも納得できない君はこっそりバイトをして、それでこっそり通ってくれていた。私と、君と、諒くんだけの秘密さ」 「……俺、悪い奴だったんですね」 「芸術を愛する、素晴らしい青年だ。どうだ、描いてみるかね? 好きなものをモチーフにして」 「でも……」 「教室の中に、好きなものはないかな?」  言われて、思わず教室を見渡す。そして、俺ははたと気が付いた。白いカーテンと、茶色い壁、窓向こうの緑。  喉が渇く。目がぐるぐるして、汗が噴き出た。 「俺、この教室の風景を抽象画にしたことありますか……」 「ああ、何度もね」  俺は顔を覆った。

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