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第5話

『諒視点』  何もする気が起きなくて、ソファにだらしなく横たわっていた。ダイニングにはまだ和也が飲んだカップが置かれたままだ。  美術館巡りをしたときに和也が気に入って買ってきたカップは、久しぶりの主人との再会を楽しんだのだろう、心なしか色が鮮やさを取り戻したように見えた。  僕の心も、少しだけ憂鬱で、少しだけ晴れやかだった。ひとつは孤独になった自分に対して、そしてもうひとつはもとの正しい人生を歩むであろう和也に対しての感情だ。 「……引っ越そうかな」  この家はひとりで暮らすには広すぎて、そして和也との思い出が多すぎる。  そんな感傷に浸っていると、インターホンが鳴った。 「はい……和也?」  カメラに映し出された見知った顔に驚いていると、和也は申し訳なさそうに言った。 「諒さん、ごめんなさい、ちょっとお家に入れてもらっていいですか?」 「……あがってきて」  オートロックを解除して、それから部屋を見回した。特に彼の忘れ物といったものはないようだ。では、一体何の用事で?  戸惑ううちに、家のチャイムが鳴った。僕が玄関を開けるより早く、施錠したはずのドアががちゃりと音を立てて開いた。 「……和也?」 「ああ、やっぱり、これ、ここの鍵だったんだ」  和也の手には、この家の鍵が握られていた。キーホルダーは2人で選んだナポレオンの絵画チャームだ。 「……」  僕は言葉が出なかった。和也がこの家の鍵を開けて入って来るのを見るのが久しぶりすぎた。ほんの少し前まで日常風景だったそれが、いやに胸にささった。 「諒さん」  和也は僕を見据えた。 「俺と、どんな関係でしたか?」  僕は返答に窮した。 「……」 「何で答えてくれないんですか?」 「なんと、答えたらいいか……」  僕は躊躇い、それから尋ねた。 「なぜ、そんな質問をするんだ?」 「これ、俺が描いた絵ですよね?」  彼は玄関からリビングへ続く廊下に飾られた絵の一枚を指さした。先ほど、僕が彼を試すのに使った絵だ。  僕は驚愕する。 「和也、記憶が……?」 「いえ、そういうわけではありません。ただ、俺と諒さんは、ただの友達じゃなかったんだって思うんです。特別な、関係でした。そうでしょう?」  僕は顔を覆った。小さく息を吐く。  僕はぽつりぽつりと僕たちの過去を話した。  17歳で交際をはじめたこと、18歳で体をつなげたこと、——そして、三カ月前のあの事故の直前に別れ話を切り出されていたこと。 「なんで、別れ話になったんですか?」 「……その答えは、君しか知らない」  和也は顔を顰めた。そして、唇を震わせた。 「俺は、いまも、諒さんのことが好きです。この感情だけは、ちゃんと思い出せました」 「……簡単に言わないでくれ!」  それから、僕の中の感情が堰を切ったように流れ出した。 「ずっと後悔していた。君をまともな生き方から遠ざけてしまったことを……! ふつうに生きて、彼女をつくって、やがて結婚するような、そういう生活を君にしてほしいんだ! でも、君を愛する気持ちも止められなくて、どうしたらいいかわからなくて……君の記憶がなくなったと聞いて、僕は少しほっとしたんだ! ほっとしてしまったんだよ! 最低だろう? 笑ってくれ。でも、君もわかるだろう? ほんとうに、愛だけでは乗り越えられないものが山ほどあるんだ……。どうかもう僕のことを好きだとか、その気持ちは忘れてくれ。記憶を無くす前の君は、間違いなく、僕に言ったんだ、別れてくれ、と」 「わかりません」  和也は僕の肩に手を置いた。そして、強い瞳で僕を見る。僕が愛した、あの瞳だ。 「なぜ俺が諒にそんなことを言ったのか、いまの俺にはわかりません。でも、いま、俺の中に諒を愛する気持ちがあることは間違いありません。俺にはそれしか残っていません。他のことは全部忘れてしまいました。きっと、俺にはどうでもいいことだから、忘れたんですよ」

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