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17.「初めて」*俊輔

 まだ眠っている真奈の隣から抜け出してシャワーを浴び、再び部屋に戻る。  多少音を立てたくらいでは目を覚まさない事はもう分かっている。  クローゼットから服を取り出して、着替えてから、カーテンを少し開けて外をのぞき込むと、真っ青な晴天。  少し眩しくて目を細める。 「……ん……」  小さく真奈が呻く。  そっとカーテンを閉め、光を遮ってやると、また安心したように眠り込む。 「――――……」  ベッドの端に腰掛け、ぐっすり眠っている真奈を見つめる。  いつもよく寝てる。……こいつ、朝はいつも何時まで眠ってるんだ?  思わず笑みが浮かんでしまう。それに自分で気付いて、何となく、ため息。  コン、と小さく一回ノックが鳴った。  ゆっくりと立ち上がり寝室のドアを閉めると、部屋のドアがそっと開いた。 「おはようございます、若……朝食の準備が出来ています」  和義も真奈が眠っている事は知っているので、小さな声でそう言う。これももう、いつもの事。 「ああ。すぐに行く」 「はい」  和義が出て行ったところで腕時計をつけ忘れたことに気づいて、今一度クローゼットに戻る。時計をつけながら、ベットに近づいて真奈を見下ろした。 「――――……」  自然と手が伸びて柔らかい髪の毛に触れ、そのまま親指で頬に触れる。嫌そうに少し眉を顰めた真奈に、ふ、と笑ってしまう。そんな自分の行動に気づくと、すぐに手を離して部屋を後にした。  いつも食事をとる部屋には和義が待っていた。食事が準備されたテーブルに着くと、コーヒーが置かれる。   「若、今日のパーティーですが……」 「……パーティー?……ああ、あの爺さんのか……」  どっかのお偉方の、七十だか八十の誕生パーティ。……どうでも良いので、すっかり忘れていた。  うんざりしながら答えると、和義は、ふ、と苦笑い。 「親父が出ればいいのにな?」  言いながらも、あの父がそんなものに出る筈もないという事は分かっている。  昔はそれでも嫌々出ていたらしいが、オレがその類の集まりにデビューしてからは、大事なもの以外はほとんどオレ任せだ。 「……ゼミが長引いたら出ねえから、親父にそう言っといて」 「お伝えします」  穏やかに微笑まれると、どうも居心地が悪く。結局出る事になるだろうと分かっているので、なおさら複雑だった。  昔から知ってるのに、こいつほどよく分からない奴は居ない。  こびるでもなく、へつらうでもなく。  ただ、オレの世話をする。身の回りの世話から始まり、スケジュールの管理から、親父との連絡係りまで。  いつも感心するほどに、身だしなみも整えていて、一体いつ眠ってるんだか。オレが呼ぶと必ずすぐ出てくる。  仕事と思っていたらこうは出来ないだろうと、心底思う。一度理由を尋ねた事があった。「何でオレにそんなに仕える訳?」と。すると、「私の主人は若ですから。あなたに仕える為に今生きているのだと、思っています」が返答だった。  ……冗談なんだか、本気なんだか。  どこで修羅場をくぐってきたんだかは知らないが、こいつはオレが凄んでもびびらないし、平気で意見を述べてくる。その意見は正論過ぎて、分かるからこそ気に入らなくて、反発する事も昔はあったが、最近では、何だかそんな気も起こらない。  ……あぁ。……でも、んな事も無いか。  最近一個……真奈のことで、でかい言い合い、したっけな……。 「……和義」 「はい」 「……」  ……真奈の事、どうして反対しなくなった? 「若?」 「……何でもない」 「……そうですか?」  少し不思議そうにしながらも、詮索はしてこない。  そういう所は、何だか気持ちが良くて。信頼できる。  ――――……真奈をここに置く事を伝えた時。  たぶん今までに決めたことすべての中で一番、反対された。  基本的に、何でも経験すべきという信念をもっているらしい和義が、真奈のことだけは、最初認めなかった。  どこの誰とも分からない、見知らぬ男である事。そして、強制的にその類の関係を持つ事。自分の部屋に連れ込んだ事。それら全ての点において。和義は反対した。 『恋人だと若が言うなら、父君がどうおっしゃっても、私は若の味方になります』  あの言葉が、一番驚いた。  恋人だというなら、男でも認めると。親父に逆らっても、味方になると。  結局の所、親父の依頼でオレに仕えてるのだと思っていたから、その言葉には心底驚いて。  和義への信頼は、そこでまた、高まった。  ――――……それでも。  和義の意見を、聞く事は出来なかった。  和義が言っている事は、正しい。自分の立場を考えたら。絶対に正解ではない、自分の行動。  分かっていた。けれど、聞けなかった。 「和義」 「はい」 「……パーティーは何時からだ? 一度帰ってから、着替えて出かける」 「十八時半から、赤坂のホテルになります」 「……間に合うように、帰る」 「はい」  穏やかな、返事。  いつからだったか。  ……真奈の事を、一言も、諫めなくなったのは。  どうしてなんだか、いまだに分からない。  何かきっかけがあったのか、それすらも、分からない。 「大学まで車で行かれますか?」 「……電車で行く。その方が早い」 「はい。駅までお送りいたしますか?」 「……いい」  頷くと、和義は軽く礼をして部屋を出ていった。   朝食をすませて、部屋に戻る。  寝室を覗くと、先ほど出た時のままの、真奈の姿。  静かに支度を整え、部屋を出る。  ――――……こんな、誰かが自分の部屋に居る生活。  あり得なかった。  自分の部屋に誰かを入れるなんて、我慢ならなかったのに。  一人でいる時間が好きというよりは、誰かが側に居るのが鬱陶しくてならないという気持ちが強い。  和義はそんな部分をよく分かっているので、邪魔にならないように適度に側に居る。  ――――……朝出る時も、夜帰った時も。真奈が部屋に居ること。  確かめてしまうのは、一体何故なのか。  ――――……ぐっすり気持ちよさそうに眠っている姿を見ていると、何だかむず痒いような、妙な気持ちが沸き起こる。柄にもない優しい仕草で、そっと触れてしまう気持ちは、一体なんなのか。  真奈の友達が薬なんてやらなければ、あいつはオレとは会わなかった。そもそも、凌馬が早く来ていれば、凌馬が真奈と会ったはず。  オレは、会うことも、触れる事も、真奈の姿を見る事すらなく、一生を過ごした筈。  男なんか抱く事になんか絶対ならなかった筈。 「――――…………」  思わず舌打ち。  自分の行動の意味が分からないなんて、初めてで。  ……本当に、すっきりしない。    ベランダに出て、くわえたタバコに火を付けて。  思い切り、吸い込んだ。  

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