「……リッ……ク」 　指の力が微かに弱くなる。 　何故悪魔は泣くのか。 　ばあんと大きな音がした。うつろな目で反射的にそちらを見る。 　そこは丁度闇の矢が刺さった場所だった。 　銀色の髪のエルフが立っている。 　そして隣には金の髪の騎士が。 　ぐるぐると混乱しきった頭がそれを処理しようとする。 　メリーだ。 　弱い俺が歓喜の声を上げる。 　メリーがゆらりと動くと隣の男にキスをした。 　キスを？ 　呆然として力が抜ける。 　足元でどさりと音がした。 　自分の叫ぶ声を聞いた。 　舞い上がった身体が観客席にまっすぐに舞い降りる。 　低い地面から狂った瞳で敵を探す。 　騎士はどこだ。 　まっすぐに駆け下りた先、闘技場に金髪の髪が揺れる。剣を構えた騎士が悪魔の前に立っている。 　気弾を放つ。 　騎士が剣を立てるとじりじりと押されながら気弾を弾いている。 「ロー」 　声が聞こえて振り向いた。 　気弾を放っていたから、気がつかなかった。自分の周りに魔方陣が出ている。 　ぱちんと指が鳴った。 　無数の薔薇のいばらが俺に巻きつく。痛みと痺れを伴った毒がその先から入ってくるのがわかった。 　どうシてだ。ドうして俺を縛る？ 　俺を裏切るのか。どうしてだ。 　メリーが俺を裏切るのか。 　渾身の力でいばらをむしり取る。 「こロシてやる」 　痛みに喘ぎながら、手を伸ばして白い首をつかんだ。 　やめろ。やめろ。 　弱い自分が叫ぶ。ダマれ。だマれ。 「ねえ、ロー。約束を覚えている？」 　水色の目が挑むように俺を見た。 「やくソく」 「そうだよ」 　ぐるぐると混乱した頭の中で、柔らかな声が響く。 『わたしを信じて欲しい』 『信じられないと思うような時でも』 「しンじる」 　かちかちと歯を鳴らしながら、回らぬ舌で声を絞り出した。 「そうだ、ロー。わたしを信じると言ったね」 　水色の目に涙が盛り上がる。 「パトリックなんかとキスしなくちゃいけなくてすっごく気持ち悪いんだ」 「ろ、ロバ」 「本当にロバとキスしたほうがましだったって証明されたよ」 　メリーの口から嗚咽が漏れる。 「ローがキスしてくれなきゃ吐くからね」 　涙が零れ落ちた。指がぶるぶると震えて力が抜ける。 　愛に満ちた水色の目を覗きこむと、狂気が身体から抜けて行く。 　強くて黒い俺がふらふらと心の片隅に歩いて行くところりと転がって赤ん坊のように丸まった。 　めリー…… 　しわがれた声が囁いた。 　この黒い獣もメリーを愛している。どの俺もメリーに溺れている。 　逆立っていた体中の毛が凪いで、ぱらぱらと抜け始めた。 「メリー」 　力なく囁いて、震える手を差し伸べる。大量の気を流したせいでぼろぼろになった腕に細い身体が飛び込んできた。 　重なる唇は熱くて甘かった。 　涙目でメリーの目を覗きこむ。俺が元に戻ったと知って安心したメリーの瞳に涙がいくつも盛り上がる。 「あなたが死んだと思って」 「死んでないよ。ちゃんと防御した。何かあった時の為に注意はしていて、攻撃に反応して立ち上がる防御魔法をかけておいたんだ」 　ぐすぐすと泣きながらメリーが囁く。 「威力が強すぎて吹っ飛ばされて、立ち上がってローの様子がおかしくなったのに気付いたんだ。叫んだけど、聞こえてないみたいで。王から引き離す為にああするしかないって思ったんだ」 　メリーの手があちこちを撫でる。 「ローはとても強くなっていたから、手加減が出来なかった。一番強い、モンスター用の捕縛の魔法を使ったんだ。すごく痛かっただろう？」 「いいんです。そんな痛みはどうでも。あなたは？怪我は？」 　腹から流れる血を見てメリーが息を飲む。 「わたしは大丈夫だ。それより、この傷は」 「剣を砕いたときにかけらが刺さった。抜けたと思うんですが」 　メリーが背中を見る。 「抜けている。でもひどい出血だ」 　狂気が抜けて、強化されていた体が元に戻ったのだろう。腹から流れた血で血溜りが出来ていく。 　ふわりとターゲットを感じた。 　メリーが唱え始めた呪文には聞き覚えがあった。 　最初にメリーに会ったとき、死にたがった俺にメリーが使った呪文だ。 　メリーにキスをした。 　舌をゆっくりと絡めて、言葉を吸い取る。 「ロー！」 　なじるメリーに微笑みかける。 「それを使ってはダメだ」 　いろんな影響が体に出ているようだ。立っているのが難しい。 「一度なら使える！」 　言葉を荒げるメリーに俺は頭を振った。振ったらふらついて、座りこんでしまう。慌てたメリーが俺に取りすがった。銀色の髪が川の流れのように俺を包む。それはとても美しかった。心が安らぐのを感じる。 「さっき大きな魔法をつかった。昨日の夜は沢山。完全に魔力が回復していないでしょう？」 「でも……」 「俺はあなたがいないと狂ってしまうようだ。あの獣はあなたがいないと生きていけないから、死ぬまで暴れ続けることになる」 　けほっと咳をすると、口の中に血の味がする。 　寒い。 　気の減少がひどすぎるし、出血も止まらない。どうにも分が悪い。 　溜息をついた。 　メリーの涙が顔に落ちる。 　いやいやをして逃れようとする顔を力を振り絞って止める。 　手を離したらまた詠唱を始めるだろう。 「メリー。俺が助かってもあなたが死ぬんじゃ意味がない。俺はどうも死にかけているみたいだし。あなたがいなくなった俺はとても危険だ。このままにしておいてくれませんか？」 「いやだ」 　呟いた口から嗚咽が漏れる。悲しい声が俺の胸を引き裂いた。どうにか出来ればいいのだが。鈍くなった頭で考えるが、やはり無理だと結論した。 　いつになく凪いだ心でメリーを見あげた。 　涙に濡れた水色の瞳は本当に美しい。真っ赤に染まった頬も、震える唇も。 「愛しています」 「助けさせてくれ」 　俺は首を振った。 　俺の中の獣はまだ完全に眠っていない。 　たやすく起き上がるだろうあの獣を世に放ってはいけないのだ。 「だめです」 「いやだ。いやだよ、ロー」 　メリーは微かに身じろぎしただけなのに、手を離さないでいるのはとても難しかった。 　メリーの父が止めてくれればいいのだが。 　兄君たちはどうしているのだろう。 　この人のしようとしている事を知らせて、止めて貰わなければ。 　ぼんやりし始めた視界の隅に赤い髪が揺れる。 　王か。 「メリーを止めてください」 　そう言うと、俺はゆっくりと意識を手放した。