48 / 98

狼は瞳を開く(1)

 メリーの目を見ていた。  暖かい水のような瞳が俺の目を覗き込んで、うっとりと微笑んだ。きらきら光る愛しい人の瞳、それはなんて綺麗なんだろう。それから透明な瞳に膜がかかった。薄く閉じた瞳が動かなくなる。  すうっと目じりから涙が零れた。 「メリー?」  力なく俺の上に乗っている体に悪い予感がした。  上半身を起こすと、軽い体がぐるりとひっくり返りとなりの地面に仰向けに倒れた。  少しだけ開いた瞳から涙が流れ続けている。生き生きとしていた瞳は虚ろで、開いているのに何も見ていなかった。  乱れた銀の髪、力なく投げ出された細く白い腕。  どくどくと心臓が激しくなる。体中に虫が這っている様だ。 「メリー?」  もう一度、恋人の名前を呼んだ。メリーはぴくりとも動かない。  嘲笑う声が聞こえた。 「やってやったぞ!器が壊れた!魔力を使いすぎたんだ!」  聞き覚えのある声に目を上げる。アーシュだ。顔が金属の仮面に覆われているが、この匂いはアーシュのものだ。  どうしてここに?  器が壊れた?誰の? 「さあ、ロー!絶望しなよ!」 「生きているか?」  嘲る声をかき消すように冷静な声が聞こえて、王を胸に抱いたパトリック先輩が屈みこんでメリーの首に触れる。 「生きています」 「降ろせ」  地面に降り立った王が苦痛の表情を浮かべながら腹を押さえた。あちこち破れた服の下から覗いた皮膚が、青白い電気を帯びたようにぱりぱりと音を立てて、時折光る。  王は思い切り息を吐き、決然と頭を上げた。 「私はあいつと戦う」  地面から剣を拾い上げると真っ直ぐにアーシュに向かって走り出した。 「お前はオオカミを救え」  オレを救う?何故?オレは生きている。  そうだ、メリーだって。  虚ろなメリーの目がオレを見るのを待った。『愛しているよ、ロー』その瞳はいつだってそう言っている。そしてその肌が微かに香るのを感じたかった。  また一筋、涙がその目じりを流れて行く。  器が壊れたなんて嘘だ。 「メリー?」  震える声でメリーを呼んだ。メリーは答えない。  どうして答えてくれないんだ?  ぐいっと肩を捕まれてふりかえる。パトリック先輩に顔を覗きこまれた。  冴え冴えとした青い瞳が苦痛を浮かべている。  どうして? 「メリーが生きている間……お前には生きていて貰わねばならない。  もし、お前が戦えないのなら……狂うならば、意識を奪わせてくれ」 「どうして……ですか?何が……」 「メリドウェンは救えるものをすべて救おうとした。お前と、王の両方の命を。そうしなければ、お前は幸せにはなれないと言っていた」  そして、その代わりに器を失ったのだ。  頭の中を苦痛が埋め尽くしていく。  器を失った魔法使いは発狂して、二度と元には戻らない。  衰弱して、死ぬ、だけだ。  メリーが俺に愛していると囁きかけることはもうない。  なぜ?どうして?  どす黒い怒りがわきあがって手を震わせる。  心の片隅で寝ていた獣が頭をもたげた。  瞬間、頬にパトリック先輩の拳が頬に食いこんだ。  口の中に血の味がする。 「聞け!オオカミ!」  馬乗りになった先輩が俺を見おろした。胸をその拳が強く押す。  苦渋に満ちた先輩の声と眼差しが頭の中をかき回す。 「メリドウェンは、生きている。例え狂っていたとしても。  生きているならば正気に戻す方法があるかもしれない。おれはなんとしてもその方法を探す。それだけの借りがある。  だが、正気に戻ったメリドウェンの幸せにはお前が必要だ。  お前の死も、闇に堕ちアーシュの傍らにあることも、メリドウェンを悲嘆させるだろう。  心底お前を愛しているあいつを、その命の為に己のすべてを投げうったあいつを、二度地獄へ送るようなことは出来ない。  だから、おれはお前を生かし、奴の手から救わねばならない」 『救え』  王の言葉が蘇る。  苦しみの叫びが喉を焼いていく。 「今、この地の封印が解かれ、オーク達がグールとして地中から這い出している。ワイバーンもまだすべてが駆逐されたわけではない。指揮するアーシュもいる。  この状態でお前が正気を失うことはもちろん、敵の手に落ちることにでもなれば戦況は絶望的に悪化する。  一刻も早く闇の軍勢を殲滅しなければならない。  戦えないならば、狂うならば、意識を失いそこに転がれ!」  おれの邪魔をするな。強い瞳が俺を睨みつける。  嘲笑う声が辺りに響く。 「そんな身体で何が出来る?」  アーシュの声だ。泳いだ視線の先で身体を二つに折った王が地面に血を吐く。パトリック先輩がうなる様に言う。 「メリドウェンがおれの光の力を増幅して注ぎ込んだ。光の力が陛下の中に蓄積された闇を食い荒らし、焼いている。  激痛があるはずだ……まだ戦える状態ではない。だが、ああやって時間を稼いでいる。あの人の命もまたメリドウェンが救ったものだ。 ……失うわけには行かない」  俺の胸を押していた拳が離れて、強く握られた。 「おれは戦う。メリドウェンが救ったものを守ってみせる」  立ち上がった先輩が俺を見下ろした。 「決めろ」  冷たく硬い瞳が俺を見る。  短い息を吐いた。メリーは生きている。生きているんだ。……生きているメリーは決して諦めなかったはずだ。  一瞬たりとも迷わなかったはずだ。  俺の傍らにあることを、オレの命を救うことを。  その俺が命を失うことも、狂うことも、操られることも。  ──許されない。絶対に、許しはしない。  ゆらりと、心の中に火が灯る。 「戦います」  冴え冴えとした青い瞳にも火が灯っていた。  パトリック先輩が手を差し出す。その手に捕まると引き上げられるままに高く跳躍する。宙で身体をひねりながら、メリーの姿を見る。  乱れた髪、投げ出された腕、ぼろぼろになり破れた衣装の生気のない姿。  踏み潰された薔薇のような姿に心が引きちぎれるようだ。  それでも、あの人は俺のものだ。 ──必ず。必ず助けてみせる。  見下ろす下には醜いグールとワイバーンの群れ。  その真ん中にいるアーシュと赤い髪の王。  黒騎士達やエルフや学園の生徒で優れた者が応戦しているが、押されているようだ。  どうしてこうなったのか、俺にはわからない。けれど、打ち倒すべき敵が誰であるかは明白だ。  ふさふさの尻尾に丸い目をした、俺の幼馴染。俺を裏切った、俺を騙した。そして、メリーをあんな風にした。  矢のように真っ直ぐにアーシュに打ちかかった。  防御の魔法が立ち上がってバチバチと音を立てる。弾かれるままに地面に降り立ち、地面をえぐるように防御の魔法の下を狙って足払いを繰り出す。  地面までしかかかっていない防御の下を足が通ったが、一瞬早くかわされた。  ゆらりと立ち上がって視線をアーシュに向けたまま、王に声をかける。 「後は俺が戦う。メリーをお願いします」 「承知」  身体の脇の地面をパトリック先輩のライトニングが通って行く。髪が後ろからの風に煽られて頭の周りを乱した。  真っ直ぐにアーシュのいる場所を狙って放たれた一撃は防御されたが、何体かのグールが消し飛んだ。出来たであろう道を通って王が遠ざかって行くのを感じた。 「邪魔しないで欲しかったんだけどな」  アーシュが妖艶にそして邪悪に微笑んだ。 「もう少しであの薔薇も散らすことが出来たのに」  何故だ。どうしてだ。  いつもの俺ならば叫んでいただろう。そして、安易にアーシュに踏みにじられていただろう。俺達はいつもそんな風だった。  俺が差し出し、アーシュがそれを投げ捨て、俺は悲しみ、アーシュが嘲笑う。  だが──もう俺はどうして?と聞こうとは思わなかった。どんな理由があろうとも、もう、するべきことは決まっている。  警告を表して尻尾が柔らかく揺れるのを感じた。 「兵を引け」 「ローが僕のものになってくれるならいいよ?」  仮面をつけた顔が艶やかに微笑む。 「断る」    オレはメリーのものだ。他の誰かに触れられるつもりも、触れるつもりもない。 「こんなにあっさり気持ちって変わってしまうものなのかな。あんなに僕が好きだったじゃないか」 「そうらしい」  こんなにも短い間に、俺の心はしっかりとメリーに繋がれてしまった。失えば頭がおかしくなるほどに。 「僕がメリドウェン先輩を元に戻してあげるよ」  甘い毒のような言葉が唇から漏れる。  ああ、どれほどそれを望むだろう。  後ろを振り返りたくなる気持ちを押さえつけた。  目の前の、あれは敵だ。戦場で敵から目を逸らすことは死を意味している。  ふわっと軽い身体が俺に近づいて、目を覗き込んだ。薄い茶色の丸い瞳が柔らかく微笑む。 「僕なら出来る。愛するローの為なら願いをかなえてあげるよ?」  愛──その言葉に耳がぴくりと動く。薄い茶色の目を探るように見た。 「ローが僕のものになれば、メリドウェン先輩は助かる」

ともだちにシェアしよう!