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狼は白薔薇を愛でる(3)
「メリー……兄上に頭を撫でていただきましょう」
「それは」
指を立てて唇に当てるとフロドウェン殿を黙らせた。
メリーの気分はとても変わりやすいから。
俺の肩にメリーの頭を乗せると、ゆっくりと髪を撫でた。メリーはいつものように気持ちよさそうに喉を鳴らした。
それにつられるように、フロドウェン殿がメリーの頭に手を伸ばす。
メリーは近づいてくる手を黙って見ていた。
フロドウェン殿がそっと頭を撫でると、一瞬メリーがびくっとする。フロドウェン殿の指が離れて、メリーが俺を見あげた。
「怖く無いでしょう?」
俺が微笑むとメリーも微笑んだ。機嫌が良くなったのか、俺の肩に顔をくつけて、鼻歌を歌いはじめる。戸惑うように、フロドウェン殿が俺の顔を見る。だいじょうぶと、口で言うと、その顔が明るくなった。
フロドウェン殿が指をメリーの髪にそっと通して梳いて行く。
その終わりの一房をにぎると持ち上げてキスをした。
その気配に、メリーが、んあ?っと顔を上げて、持ち上げられた髪を頭を持ち上げて引っぱる。さらさらと零れる髪に、フロドウェン殿はほおとため息をついた。
「モリオウ殿……ありがとう」
言葉に詰まったフロドウェン殿が涙を目に浮かべた。
そして、胸に手を当てると長い衣を優雅に開いて礼をした。
こんなことは何でもないことだ。
オレは首を振って言った。
「俺のことはローと呼んで下さい」
「ろー!」
メリーが得意げに言う。
そんなメリーを見てフロドウェン殿がくったくなく微笑んだ。
「では、私のことはフロドと」
「しかし……貴方は王子なのですから……」
俺が遠慮がちに言うと、フロドウェン殿が声を立てて笑う。
「私達は義兄弟なのだし。私は六人兄弟の下から二番目の王子で、権威とか威厳とかそんなものはないしね……そう呼んでくれたら嬉しいよ。ロー」
「……貴方がそれで良いと言うのなら。フロド」
軽やかにフロドが笑った。その笑顔はやはりどこかメリーに似ている。
フロドが拳を俺に向かって突き出す。俺は拳をそれに触れさせて微笑んだ。それは故郷のオオカミの国の懐かしい挨拶だった。
それをこの人が知っていることが、もしくは調べてくれたことが嬉しかった。
「兄上や父上に自慢しなくちゃ!メリーを撫でたなんて、すごいよね!」
胸を押えると彼はその場で歓喜のため息をついた。
ちょいちょいとメリーの気を引くように手を振ったのだが、メリーはしゃっと俺の肩に顔を伏せるとその手を無視した。顔を覗くとむうっとした顔をしている。
手を触れ合わせたのを怒っているのかもしれない。
俺はフロドに頭を振ってみせた。
それでも彼の笑顔は薄れなかった。今日はこれでおしまいなのだと見て取ると、兄弟達に自慢して来ようと彼は上機嫌で塔を去って行った。
むうっとした顔をしたままのメリーに微笑みかけると、その唇にそっとキスした。へにゃりとメリーが微笑む。
ああ、俺は幸せだ。
次の日から塔の外に順繰りにメリーの兄達が立つようになった。
来客が苦手なメリーを宥めたりすかしたりして、兄達にメリーの頭を撫でさせた。皆一様に自分を愛称で呼ぶように言い残して去っていく。全員の兄と名前で呼び会うようになった頃に、妖精王その人が塔の外に立って度肝を抜かれた。
特にその日はメリーの機嫌が悪く、妖精王は威厳のある容貌をしていたから事はなかなかに難航して。メリーが笑顔を見せて頭を王が撫でる頃には日が暮れてしまった。
上機嫌で歌を歌い始めたメリーに、王は厳しい顔を緩ませて豊かなひげを撫でつけた。
コンコンと木の扉が鳴る。
立ち上がろうとした俺を妖精王が手で押し留めた。
「私が出よう」
扉を開けると、そこに立っていたのはメリーの母だった。
「公務を投げ出して何をしているのですか?」
ひらりと部屋の中に入って来たメリーの母は美しく、明らかに怒っていた。動揺した王がおどおどと視線を泳がせる。
「誰にも何も言わず、王が姿を消すとは何事ですか?
子供たちに行き先を聞けば、皆一様に押し黙ってにやにやと笑うばかりで……」
メリーがぴょこんと立ち上がって俺の後ろに隠れる。俺の服を握る手が震えていた。
「大丈夫」
囁きかけると、細くしなやかな身体が腕の中に飛び込んでくる。腕の中で隠すように抱きしめると、ほっとしたように小さな吐息が聞こえた。
「モリオウ殿はメリーの世話だけで手が一杯。なるべく煩わせずに過ごしていただこうとおっしゃったのは他ならぬ貴方ではありませんか?
なのに聞けば、フロドウェンを頭に兄弟がぞろぞろと……挙句の果てには言い出した貴方までモリオウ殿を悩ませて……」
「悩ませてなどおらんぞ!ほんの少しメリドウェンの姿を見に立ち寄っただけのこと」
必死で言い訳をする王にその妻が舌打ちをする。
「お昼をお召し上がりの後辺りから、雲隠れしたと伺っておりますが?」
薄い緑色の目が細くなって、冷たい光を放つ。
「そ、それは……」
「お昼をお召し上がりの後、すぐにこちらに伺ったわけではないのですか?」
妖精王が困り果てた様子でオレの方を見た。
「おいでになったのはお茶の時間の少し前だったと思いますが」
それは嘘で、王は昼過ぎにはやって来ていた。だが、ここでそれを正直に言うのは野暮というものだろう。片付けずに乗りっぱなしになったカップの数を見て、メリーの母の顔が怒りに赤くなる。
「お茶までいただいて!どれだけ……」
「メリーと2人でいつもいただいていますので。ここのお茶は絶品で、とても楽しみです。メリーは蜂蜜を垂らしたのが好きなようです。ミルクもいれて」
メリーの頭の上でくるりと指先を回すと、メリーがその指先に飛びついた。はくりと指先に齧りつかれて蜂蜜がついていると勘違いしたのだと気がついた。口から指を引き抜きながら、なんでもない事なんです。と微笑むと、王が感謝に耐えないという表情を浮かべる。
ね?とメリーに微笑みかけると、メリーがふにゃりと笑う。それを見たメリーの母が涙を目に浮かべた。
「親が子供に会いに来て、いけないなんてことはない。
メリーはご両親や兄上達のことは忘れてしまっていますが……。
もし……メリーを見ることが貴方達の喜びならば、いつでも来てくださって構わないんです」
目をあげて、淡い緑色の目を見る。
「……もちろん、お母様である、レアナウィン陛下も」
淡い緑の瞳に涙が盛り上がって、白い頬を涙が転がり落ちていく。ああ、この二人はなんてよく似ているんだろう。その様は本当にメリーにそっくりで、胸が痛くなった。
妖精王が立ち上がると、妻の細い肩を抱き寄せる。俺はメリーの手を引くと二人に歩み寄った。
メリーと一緒に練習していたことがあった。
次に兄達が訪れたらやろうと思っていたのだが、うまく出来るだろうか。
「メリー。ほら、握手ですよ」
俺が手を差し出すと、メリーがそれをつかんで振り回す。
にこりと笑うとメリーが明るく声を出して笑う。
俺は手を義母に差し出した。
「握手をしましょう」
おずおずと手が握られて、俺はそれを軽く握り返した。
「メリーも、ほら」
義母の手をメリーの前で放すと、メリーが次に握ってぶんぶんと振る。得意げな笑い声が辺りに響いた。
「メリドウェン」
掠れた母の声がメリーを呼ぶ。泣いている母を見て、メリーは首を傾げた。無邪気な瞳がその姿を眺めている。そのまましばらくじっと見ていたメリーが、母の首に手を回して抱き締める。そして、ゆっくりと体を揺らした。とんとんとその手が背中を叩き、小さな鼻歌が唇から漏れる。
それは、俺が泣いているメリーを慰める為によくしていた事だった。
器を失い、赤子のようになっても、やはりメリーは賢い。
メリーの母がその腕の中で俺を見あげる。
涙の浮かんだその顔にゆっくりと微笑が浮かぶ。
微笑した母にメリーはにこっと笑いかけると、くるりと身を翻して俺に抱きついた。くーんと子犬のように鼻を鳴らすと俺の喉もとに鼻をこすりつけた。
「上手に出来ましたね」
そう言うと腕の中のメリーがへにょりと笑った。
唇が喉に触れて、軽く吸われる。
「んー」
メリーが背伸びして求めているものに気づいて、ちらりと両親を見る。
「お邪魔のようですわ。旦那様」
「そのようだな、妻よ」
二人は連れ立って扉を開けた。振り返った二人がこちらを見て言う。
「私は母上と呼んでほしいと思うのですが」
「私は父上と呼んで貰うつもりだ」
「俺のことはローと呼んでください」
俺がそう言うと、二人は微笑んで扉を閉めながら言った。
「また参るぞ。ロー」
「また来ます。ロー」
メリーが不満そうに足を踏み鳴らしてぐいぐいと抱きついて来る。
扉が閉まる音と同時に、その柔らかい唇を奪った。美しい髪に指を埋めると、メリーが声をあげるまで何度も唇を合わせる。
メリーが吐息を吐いて俺を見上げた。
密着した身体の間が熱くなっているのを感じた。咲いたばかりの薔薇の匂いが漂い、メリーがもじもじと身体を動かす。
精神が子供になってしまっても、メリーの身体はもう大人で、刺激を受ければ快楽を感じる。
「さあ……飯にしましょう」
俺はその熱さに気づかぬふりをして、微笑んでメリーから離れた。
調理をする為の暖炉に薪を並べて小さくなってしまった火種に乾かした木の葉を乗せた。これは葉に油分が多くて、簡単に火をおこせるのだと城のエルフが置いて行ったのだ。
ぱちぱちとはぜる火を見ていると、後ろで泣き声がする。
振り返るとメリーが足の間に手を入れてもじもじと身体を揺らしていた。とろりとして涙を浮かべた水色の瞳。赤くなった頬。濃く漂う薔薇の香りに思わず鼻が動く。
同じ男だから、そこがどうなっているのかは理解出来た。
俺を求めるその姿に、どうしようもない愛しさと、それから複雑な気持ちを感じる。
成熟した美しい身体に幼い精神を抱えたメリー。俺はこのメリーも愛している。
抱くことは出来るだろう。快楽だけを与えることも。
だが俺は戸惑っていた。
それがメリーの為だけならば、俺は迷わなかっただろう。
喜んでそうしただろう。
だが、俺は……
このメリーの中に、もう一人のメリーを見ていた。
美しい身体に賢さと勇気を咲かせた白い薔薇。俺が熱愛し、そして失われてしまったメリーを。
賢いメリーが快楽に溺れ、潤んだ瞳で言葉にならない言葉を叫ぶ。俺はその様を見ていた。知っていた。打ち震える身体を何度も貫き、俺を求める声を聞いたのだ。
理性を無くし欲望に忠実になった様は……幼いメリーに似ているのではないか。
その考えが俺を怯えさせていた。
俺がこのメリーに触れるのは、あの時の恋人の面影を見たいからではないのか。一時でもいいから、幻影でもいいから、あのメリーをこの腕に抱き、取り戻そうとしているのではないのか。
もしそうであるならば、俺は……。
メリーを使ってメリーを裏切る……そんなことが許されるわけがない。
泣き声をあげるメリーの手をつかむと、俺の肩に乗せる。
軽く触れるだけのキスをふざけた様子で交わすと、メリーの涙がひくっと止まった。
その存在に随分慣れて来た尻尾を、ゆっくりと揺らす。そしてその尻尾でメリーの身体を撫でた。
幼いメリーは俺の尻尾が大好きだ。
途端に自分の欲望のことは忘れて、俺の尻尾を追いかけ始める。
素早くゆれる尻尾にけたたましく笑いながらメリーが飛びつく。怪我をしないように気をつけながら、尻尾を振りながら部屋の中を歩き回っていると、なかなか捕まらない尻尾に疲れたメリーがいらだちの声をあげた。
尻尾を止めるとメリーが飛びついた。すりすりと尻尾に頬を埋めるメリーにはもう欲望の影はない。
俺は安堵の吐息を吐いた。
そして、残念に思う気持ちを心の隅に押し込めて台所に立つと、メリーの為にりんごを切りはじめた。
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