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狼は白薔薇を愛でる(4)

 穏やかに秋は過ぎて行く。  秋の終わる頃には、俺は幼いメリーを理解するようになっていた。そして、育つ事のないメリーもまた、俺を理解し、より深く信頼するようになった。  メリーを溺愛する両親と兄弟達。美しいエルフの国と人々。  俺達はそこに紛れ込んだ悲しみの種ではあったが、その暮らしは案外幸せなものだった。  決して育たぬ幼いメリーは確かに目の離せない存在だったが、愛らしく、たとえわがままを言ったりぐずったりしていても、俺をいらだたせることはなかった。いや、むしろ、そうして手のかかるメリーを世話することで、俺は自分の抱える痛みや不安から目を逸らしていたのだろう。  秋が深まって行き、段々に俺達がお互いに慣れ、生活が一定のパターンを保つようになると、その痛みは次第に俺を悩ませるようになった。  頻繁に訪れていた使者が少なくなっていく。  もたらされる知らせは予想通り、芳しいものではなくて。  訪れぬ使者も、訪れた使者も、ただただ俺の胸を焼いて苦しみだけを植えつけていく。どんどん大きくなる不安を打ち消すことは難しかった。  その頃から、俺は体術の鍛錬をするようになった。  最初はメリーが昼寝をしている間のほんの短い時間だった。だが、次第にメリーが寝てしまった夜の間にも床を抜け出し、身体を動かすようになった。  秋の深まっていく妖精の国の月は本当に美しい。  その下で俺はもくもくと身体を動かし続けた。  突きを撃ち、蹴りを放つ。体術の型に従って、それが完璧になるまで研ぎ澄まされるまで何度も何度も同じ事を繰り返す。それをするには身体の隅々に意識を集中しなければならない。  その間だけは忘れることが出来た。  いや、忘れたわけではない。気がつかずに居られるというだけだ。  それはいつでもそこにあった。凍てついた湖の上、薄氷を踏めば割れて暗い水の中に落ちるように、俺の立つ地面の下には不安という名の穴があいていた。  一連の型を終えて脇に拳を構えて息を吐く。夜も更けて山の側に寄り添うように輝く月を見た。夜気に当てられて冷たくなった汗が身体を流れ落ちる。  月の光は銀色でメリーの髪のようだ。  それが俺の身体の上に流れていた日を鮮やかに思いだす。  俺の上に覆いかぶさっていたメリーがずるりと身体からずれて、ぐるりとひっくり返ると生気のない目で宙を見た。  薄く開いた瞳から、流れる涙。  まるで……  癒えぬ傷に触れられた時のようにびくりと身体が震えて、断ち切るように考えを止めた。それでも止らぬ痛みが溢れだして体中をぶるぶると震えさせる。  ふらふらと家の裏手に回り、そこにある水汲み場に手をつくと常に水の流れるそこに頭を突っ込んだ。山から流れる川から引いた刺すように冷たい水で、あの時のメリーの姿を洗い流そうとする。  大丈夫。メリーは生きている。賢いメリーではなくとも、俺の傍にいる。  俺は独りではない。  だが────永遠にではないだろう?  踏み躙るような自分自身の冷たい声に声が漏れる。 「っ………あっ……」  冷たい水の中で、目だけが熱い。歪む視界を瞬きで断ち切ろうとする。  怖い。──メリーを失うのが怖い。  独りでこの地に残り、生きて行かねばならない日が怖い。  他の者は気づいていないだろう。  一番側にいる俺だけが気づいているに違いない。  メリーの寝ている時間が増えている。昼寝の時間が伸び、夕方も早い時間から眠そうにしている。  飯である果物を食べる量も減っている……  器を失った魔法使いは発狂し、衰弱してやがて死ぬ。  ……メリーは弱くなっている。  狂う度合いも、衰弱も人それぞれなのだと聞いた。  メリーが幼児のようになっただけで済んだのは幸いなことだったと。  人によってはその場で憔悴して昏倒し、そのままというようなこともあるのだと。  メリーは運がいいのだ。  そう自分に言い聞かせていた。  幼児にはなっていても、そしてそのまま決して育つことがなくても。  それでもメリーが生きてさえいてくれたら、それでいいと思っていた。悲しみが俺達をこの国に居られなくしたとしても、どこででも、2人ならば生きていけると。そうしたいと願っていたのだ。  絶望の声が漏れる。  全部ここに置いていけ。メリーにそれを見せてはいけない。  俺の悲しみも、絶望も。幼いメリーを不安にさせるものはすべて。  道着の打ち合わせの間から腕を抜き出すと上服を剥がした。手桶で水をかぶる。身を切るような冷たい水を何度もかぶり、その度に震える息を吐く。だが、身体の中に残った濁りは流れることはなかった。  冷たさに手がしびれるまで水を浴びた。はあと息を吐いて空を仰ぐ。ぽたぽたと水を滴らせながら、濡れた上衣を羽織り、もう少し鍛錬を続けるべきかと思った時、物音が聞こえた。  ガタガタと木の扉の鉄の輪が鳴っている。ドンドンと叩く音、くぐもった泣き声。  ぐっと歯を食いしばった。水を浴びていて気づかなかった。  足早に塔へ向かい、外側の鍵を外して扉を開けると、メリーが暖かい空気と共に抱きついて来た。  部屋の中は暖かい。  秋の深まる寒い部屋の中でひんやりと冷たくなるメリーの肌が恐ろしくて、俺は暖炉に火を絶やすことが出来なくなっていた。 「メリー。濡れてしまう」  部屋の中にメリーを引き込むと扉を閉めた。 「ろ、ろー……っく。……ろ……ろー」  涙でおぼつかない声で囁くと、メリーが唇を合わせて来た。  黙ってそれを受けながらメリーが起きてしまった理由に心が痛んだ。  メリーは俺の不安や恐怖に強く反応する。  使者を追い払おうと泣くのも、他の者と話すのを嫌うのも、その会話の中に俺が何か不安を感じるからなのだ。  俺がこんな風に嘆いていたせいで、怖い夢でも見てしまったのだろうか。  ぶるっとメリーの身体が震えるのを見て、自分がずぶ濡れで冷たくなっているのを思い出した。メリーのゆったりとした夜着の前が俺のかぶった水で濡れて肌が透けている。 「俺のせいで濡れてしまった」  未だぽたぽたと髪や耳から雫が垂れている。  俺の顔を覗きこむ顔に、その雫が顔に当たってメリーがまばたきする。 「脱いで」  膝の下まである夜着に手を差し入れると、赤くなった鼻をぐすぐすとすすりあげながら、メリーがばんざいをした。  どこまでも白く細い肢体は美しい。  その身体を恥じることなく晒し、幼くばんざいしている姿に心が和み、微笑みが口に浮かぶ。  下穿きだけの姿のメリーがそのまま俺に飛びついてきた。  んきゃあと声をあげて離れる。  恨めしげな顔で手足を縮めて俺を見ると、ぶるぶると震えて始める。 「今の俺はとても冷たいですから」  微笑むと濡れた足でぺたぺたと歩いて、部屋の隅の衣装箱を開けた。中から新しい夜着を取り出そうとすると、後ろから温かい身体が抱きついてくる。  ぴゃあとまた情けない叫び声が聞こえた。  服を取り上げ、身体をひねってメリーを見るとぷるぷると震えながらも腕を放そうとしない。  下穿きが俺の濡れた道着と尻尾に触れて濡れている。  そちらも換えないといけないだろう。俺が先に服を脱ぐべきだったのだ。  メリーが風邪をひいてしまうのが心配だ。 「メリー……離してください」  静かに言うと、メリーが上目づかいに反抗的な目をして、ぶうと唇を鳴らした。ふうとため息をついて、衣装箱から布を取り出すと頭と身体をごしごしとこする。  濡れた尻尾を拭いていると、尻尾の大好きなメリーが手を伸ばしてくる。  ひょいと尻尾を振ると目をきらきらさせて飛びついて来た。その隙に自分の服の帯を解くと腕を振って上衣を床に落とし、腰紐をといて足にまとわりつく布を足で蹴って落とす。  尻尾にじゃれつくメリーを捕まえて、下穿きの紐を解くと指で引き降ろして脱がせると、夜着を頭に被せようとした。  メリーがそれを避けて、そのまま抱きつこうと飛び掛ってくる。  身体が触れないように、メリーの肩をつかんだ。 「ん~!」  抱きつこうともだもだと身体を捻りながら、ねだるように唇を突き出す。触れるだけの優しいキスを落とすと、にこりと笑って見せた。 「俺は冷たくなっていますから」  もう一度服を着せようとすると、メリーがそれをつかんで床に叩きつけた。足がだんと床を踏む。呆気に取られた俺に細い身体が飛び込んできた。ふわりと薔薇の香りが漂う。  今はダメだ。  声をあげたくなる自分を歯を食いしばって抑えた。  今の俺は脆くなっている。  メリーを失う恐怖に怯え、痛みを感じている。  そんな俺にこの香りは甘すぎる。  痛みを忘れたい俺には、痛み止めの入った麻薬のようなものだ。

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