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白薔薇は夢を見る

 なんで?と思った時にはもう落ちていた。  下に柔らかい感触。ぐるんと身体が縦に回って、どんと思い切り地面に尻もちついた。息が止まる。 「うあいったあ!」  びょんと飛び上がり、お尻を押さえて叫んだら、なんかこう、はあって……生温かいものが顔にかかった。  ぱくんと目の前で閉じる口。 くち?  細長い口が目の前にあった。若干黒いものと牙がのぞく大きな口。  灰色の毛。灰色の目。  大きな狼が目の前にうずくまっていた。 「最近の子供は挨拶もせんのか」  空気の漏れるようなしゃあしゃあ言う音と一緒に、その狼は言った。 「こんにちは」  反射的に言うと、ふふふと狼は笑う。 「礼もせんとはいい度胸だ」  礼? 「あんな高い木から落ちたんでは、地面に落ちれば、ただでは済まなかっただろうがな」  上を見て、ここが森だと理解した。高い木が重なり合って空はわずかにしか見えない。  一本の木が大きな枝を伸ばしている。あそこから落ちたのだろうか。それにしては勢いが良すぎるような気がする。打ちつけた尻は、まだずきずきしている。  しかし、いつも遊んでいる森はこんな風だったろうか。  わたしはあそこから落ちて来て、このとても大きな狼に当たって難を逃れたらしい。狼は何度か見た事があるけど、一口でわたしを丸呑み出来そうな大きさというのは初めてだ。いや、兄上達より大きくないか? ……というか、わたしはこんなに小さかったか?  自分の手を見てそう思った。この手はどう見ても子供の手だ。  わきわきと動かすと思ったように動くから、本当に自分の手らしいが、どうも違和感がある。 「本当に最近の小僧は不愉快だ」  目の前の狼がつまらなそうに言って、尻尾をぱたりぱたりと動かす。  ぎょろりと灰色の目が動いた。  どうも不機嫌にさせてしまったらしい。  立ち上がると、服をパンパンと叩いた。  白の長い上衣に茶色のコートなんていつの間に着たんだろう。いつもはもっと、女の子っぽい服を着せられるのにな。うわ、コートにはフードがついてるじゃないか。髪が隠れるデザインなんて、フロド兄様がやめろとか叫んで大騒ぎしそうだ。  王子オーラを全開にしてコートの下に片手を入れて持ち上げてるともう一方の手を胸に当て、片足を引くとゆっくりと身体を前に倒した。 「狼殿にはお助けいただき、ありがとうございました」  さらさらと肩から銀色の髪が流れて行く。やはり地面が近い気がするのだが、気のせいだろうか。  ふんと鼻を鳴らして、狼が言う。 「そういえば、昔からお前達は見栄えだけはよかったな」  見栄えだけ……ねえ。むっとさせられる物言いだけど、助かったのは確かだし。機嫌を損ねるとあの大きな口で食べられてしまいそうな気がする。 「失礼してもよろしいですか?」  首を傾げてにっこりと微笑んだ。兄上悩殺のポーズなんだけど、相手は獣だしなあ。 「早く帰れ、帰れるものならな」  狼が前足に顔を乗せてつまらなそうに目を瞑る。  ふむ、食べられることはないらしい。 「それでは、ごきげんよう」  もう一度優雅にお辞儀をした。狼が片目を開けて唸るように言う。 「わしの名前くらい聞いていかんのか?メリドウェン?」  はっとして目の前の狼を見る。わたし……名乗ってないよね?驚いたのが表情に出てしまったんだろう。狼がふふふっと笑った。 「わしは……シソだ」  シソ。植物のだろうか。そんな弱々しい名のようには見えないが。  何故わたしの名前を知っているのか、聞いてみたい気がした。だが、聞いてもはぐらかされそうな気がした。悪戯っぽく踊る瞳が聞いて見ろと挑発しているのにもむかつく。 「行け、メリドウェン。道を見つけるがいい」  ゆっくりと狼はそう言った。わたしは頷くとその場をゆっくりと離れた。  道らしきものを辿り、森の中に入ると後ろを振り返った。  狼と自分のいた場所は広場のような場所だった。  木立に囲まれた円形の場所には柔らかそうな下草が生えていた。  空はあまり見えなかったのに、その場所は明るく、シソと名乗った狼の毛が太陽の光を浴びてきらきらと輝いて見えた。その光の中を小さな虫や蝶が飛んでいる。 「こんな場所……あったかな」  城を抜け出して森をうろつくのはいつもの事だが、覚えがなかった。隅々まで探検したと思っていたのに。  それに……  きょろりと辺りを見回した。  クルフィンがいない。  いつもどんなにまいてもいつの間にか側にいるのに。  ……とりあえず急いで城に帰ろう。  クルフィンも連れずに森の中で迷子になったことがバレたら、今度こそ監禁されそうな気がする。  急ぎ足で薄暗い道を辿った。  やっぱり見覚えがない。どうやってここに来たんだろう。そもそもここに来る事になった経緯を覚えていない事に気がついた。木に登った記憶もない。  細い道の間を歩いているが、木の間は狭くなっていて、道からそれる事は出来なさそうだ。分かれ道もない。  そうであれば、わたしはこの道を逆に歩いて来たはずだ。  なのに、何も覚えていないなんて。  おかしい。  どこまでも続く似たような道を歩き続ける。気をつけてはいたが、分かれ道はなかった。やっとで薄暗い先に光が見えた。  急ぎ足でそこに向かう。  そこは小さな円形の広場だった。下には柔らかそうな草が生えている。  上は木で覆われて空はあまり見えない。  だが、その場は不思議と明るく、そして……  中央には大きな灰色の狼が寝ていた。

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