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狼は雪原を見る(2)

 食い終わるとまたメリーを布で固定した。寒さが増してきていたので、コートを念入りに巻きつけて紐で結ぶ。  妖精王の城から離れるごとに、雪の深さが増して行った。  時々、木を使って足跡を飛ばしたが、これだけ雪があるともう誤魔化すことはできないだろうと思って、先を急ぐことに専念した。  足が雪に沈まぬよう気を皿のようにして、足の下に敷いた。子供の頃にこうしてよく遊んだのだ。  どんどん雪の深くなっていく森の中を、眠るメリーを抱いて歩いて行く。  目の前が急に開けて広い雪原が現れた。 「メリー、メリー」  静かに声をかけてメリーを起こす。  メリーがもそりと動く。布を開くと、外の冷たさに一瞬ぷるっと震えた。 とろりとした水色の瞳が辺りをぼんやりと見回す。 「メリー、雪ですよ。綺麗ですよね」  興奮しながら囁くと、メリーを縦に抱きなおして布に座らせる。  俺の腰に脚を回したメリーの背中を支えて、雪野原の中を歩いた。  天気が良くて良かった。  白い息を吐きながら雪の中を2人で歩く。なにもかもが輝く世界で、一番輝いているのはメリーの姿だ。太陽の光の下でメリーはとても生き生きしていた。雪の反射で輝く銀色の髪。どこか曇った瞳もここでは鮮やかに輝く。  それが嬉しくてたまらない。  野生の獣がいるのだろう。小さな足跡が続いている。 「見て。メリー、あれはきっとウサギの足跡ですよ」  メリーがきょろきょろと辺りを見回す。空気の匂いをくんと嗅いだ。どこかにいてくれるといいのだが。 ……ウサギの匂いがする。  目を凝らすと開けた場所の隅、森との境に白い尻がひょこひょこと動いている。ひょいと立ち上がった顔がこちらを伺った。 「あそこにいますよ」  指を指して身体の向きを変えた。メリーが眉を寄せてその辺を見ている。ウサギの姿を認めると、その顔がぱっと明るくなった。 「あー!」  手を伸ばすが、もちろんウサギがやってくるわけがない。 「ちょっと待って下さい」  ウサギの方にゆっくりと近づいて行く。俺はオオカミの匂いがするだろうから、逃げられるかもしれない。そう思ったが、うさぎは逃げなかった。  多分、さっき食べた果物の匂いがするのだろう。  エルフ達は肉を食わないから、メリーはこのウサギの天敵ではないのかもしれない。  気を広げるとメリーをそこに降ろした。  背中のリュックから果物を取り出し皮を剥いて地面に置いた。白いウサギの鼻がぴくぴくと動く。 「静かにですよ?」  指を唇に当てると、メリーが口を両手で塞いでにこにこ笑う。  ウサギがちょっとずつ近づいて来て、果物の皮をぱっとくわえると持って逃げていく。 「あ~」  メリーが悲しげな声を出す。 「大丈夫。あいつらは食いしん坊だから」  また皮を雪の上に置くとウサギは近づいてきた。今度は逃げない。その場でしょりしょりと皮を食べている。  皮をメリーに持たせると、うさぎが、くれというように身体を起こすと耳を立てて首を傾げる。  メリーがしゃがんで皮を差し出すとウサギが近づいて来て、その手から皮をひったくるとそのままその場で食べている。  メリーがそっとウサギの頭を撫でる。ウサギは緊張しているようだが、まだ残っている果物の為に我慢しているらしい。  メリーが嬉しそうに笑う。   メリーとウサギの友好関係は果物が無くなるまで続いた。  最後のひとかけらを掠め取ると、ウサギは森の中に消えて行く。  追いかけようとしたメリーが俺の気の輪から抜け出てしまい、そのまま腰まで雪に埋まった。パニックを起こしたメリーが雪の中でじたばたと暴れている。  側に近寄ってずるりとメリーを引き上げると、雪まみれの身体が抱きついてくる。笑いながらメリーの身体についた雪を叩いて落とした。くるくると腕の中で回しては叩くと、だんだん楽しくなって来たようで、最後はけたけたと笑い始めた。  薄情なウサギのことは忘れてくれたようだ。  それから、2人で雪の上に足跡をつける遊びに夢中になった。  メリーの足の下に気を敷いてやるのだが、急に走り始めたりすると気から外れてしまい、メリーは雪に埋まる。  その度にきゃあきゃあと騒ぐメリーを穴から救い出しては二人で笑い声をあげ、キスをした。  一度はメリーに気を取られすぎて、俺が雪にはまってしまった。  それを見たメリーが笑い転げる。お返しにメリーの下の気を外すと、今度はメリーが雪に埋まってぶうぶうと唇を鳴らす。  幸せだと感じた。  メリーが幼くなってからの日々で、感じたことのないくったくない喜びが俺の心を満たしていた。太陽と雪、そして笑うメリーがこの一日を完璧にしてくれたのだ。  けれど、どんな事にも終わりが来る。  空気が冷えてきた。  大気が夜の匂いを運んでくる。  そろそろ帰らなければいけない。  日が暮れる前に城に帰るには。 「さあ、もうそろそろお終いにしましょう。これ以上ここにいると、あなたは凍ってしまう」  メリーがぶうと唇を鳴らした。 「楽しかったのですか?…………では、また来ましょう」  メリーが両手で口を塞いでにこにこと笑う。 『内緒でね』  俺は頷くと指を立てて唇につけた。  それが嘘だということはわかっていた。  俺達の時間はそれほど残されていない。  帰りの支度をしている間に眠り込んでしまったメリーの青ざめた顔を見て心が血を流す。腕の中のメリーをそっと抱きしめて、青白い頬にキスをした。  日が暮れる前に急いで城に帰らねば。  雪野原で俺とメリーのつけた足跡や穴を見ながらそう考えた。  たくさんの足跡一つ一つにはメリーの笑い声が詰まっている。  だが、雪が降れば、ここはただの雪原に戻るのだろう。  何もなかったようにすべては消えてしまう。  冷たい空気が俺の心を、冷たく凍らせて行く。  帰る方向はわかっている。自分の匂いを辿ればいいのだから。  だが、俺の足は常春の妖精の城を離れる道を選んだ。  俺の足は雪野原の向こうにそびえる小高い雪山を目指していた。  山を登り切る頃には、流石に疲れ果てていた。  突き出した岩の上にずるりと身体を持ち上げると、はあはあと息を整える。  冷たい岩の上にあぐらをかくと、何度もしているように、布の中のメリーを確かめた。メリーが長く寝てしまうことを忌み嫌っていた俺だが、今日だけはそれに感謝した。  すっかりと辺りは暗くなり、壮麗に輝く妖精王の居城が正面に見える。  いつもより篝火が多いような気がする。目を凝らすと森の中にいくつもの灯りが見えた。空をグリフォン達が舞っている。  きっと……俺達を探しているのだ。  灯りは妖精王の居城から山脈の方へ多く続いている。  俺がメリーを連れて国を出たと思っているのだろう。  きっと……皆心配しているに違いない。  だが、帰りたくなかったのだ。もう……帰りたいとは思わなくなっていた。 ────心が幸せな今、終わりにしたいと願っていた。  力を振り絞って立ち上がると、ここに来るまでに背負ってきた木の枝を積んだ。燃えやすい木の葉をそこに詰める。そして、エルフが持ってきてくれた簡単に燃え上がる葉を乗せて、火打石を地面に置いた。  何故こんなものを持って来たのか……  衣服が濡れたら乾かすつもりだったのだ。  きっとメリーは雪遊びで濡れてしまうだろうと思って。  歪んだ笑いが顔に浮かぶ────嘘吐きめ。  もう少し……時間が必要だ。  メリーを降ろすと、自分の外套でくるんだ。ひんやりとした風が俺の肌を冷やす。メリーを抱き込んで腕の中のメリーに気を集める。  いつまでメリーを暖められるか心配だった。もっと早く俺の体は冷えないだろうか。  ぽちりと顔に何かが当たる。  暗くなった空を見上げると、ひらひらと雪が舞っている。メリーのまつげに当たった雪が涙のようにその先で雫になる。  ゆっくりと起こさぬようにメリーの身体の角度を変えて横向きにした。フードをひっぱりあげて雪が当たらないようにする。  目を開かないでいて欲しかった。  目を開いて泣かれたら、俺は続けることができないだろう。  どんどん下の岩が体温を奪って、俺は冷たくなっていく。  座っていることが辛くなって横になってメリーを引き寄せた。  気をメリーの中に這わせるとメリーの額にうっすらと汗が浮く。  メリーは大丈夫だ。オレは微笑んだ。  火を点けるのは最後だが、失敗した時を思うと、思うより少しだけ早くしなければいけないだろう。  身体が雪に覆われ始めていた。  メリーの外套の上には雪がない。ほっとしながら白く美しい顔を眺めた。 意識が途切れそうになってはっとする。むくりと起き上がってよろよろと火打石を手にした。 『みつけた』  急に頭の中で声がする。  女の声だ。 『どこにいるのですか』 『めをあけなさい』 『まわりをみて』 『めをあげて』  聞いたことのある……どこかメリーに似た声。物見であるメリーの母に違いない。矢継ぎ早の言葉に酷く頭が痛む。  震える手から火打石が手から落ちて転がっていく。 『めをあげて、なにかしるしになるものを、みなさい』  俺は妖精王の城を見た。 『なにをしようとしているのですか』  俺は転がった火打石と、焚き木の山を見た。 『それをひろいなさい』  のろのろと火打石を拾うが、手から石が落ちた。 『ひろうのです』  激痛が頭に走りそのまま倒れこみそうになる。震える手で石をつかむと、何度も打ち合わせた。  石が濡れていて、なかなか火花が散らない。  最後の力を振り絞って打った火花が焚き木に移る。  火が燃え上がり大量の煙が出た。  はあ。  息を吐くとずるりとメリーの側に這いより、その手をつかんだ。  抱くことが出来ないのに心が痛む。俺の身体は冷たいから、もうメリーに触れることは出来ない。  握った手のひらから、メリーの身体に気を送り込んだ。  これでメリーは助かる。  酷く寒かった。だが、それが心地いい。  気絶をしていたのかもしれない。  急に声が耳に入ってきてびくりと震える。 「なんということだ!」 「メリーは……無事です」  誰かの手が身体に触れた。はっと息を呑む音。 「冷え切っているぞ。何故、外套を着ていない?」 「この身体はどういうことだ?ものすごく痩せてる!」  兄達の声だ。フロドとアル……ナルも。  メリーは無事だった。  よかった。 「……ねがい……」 「何かしゃべっている!」 「捨てて……俺を……おねが……置いて……」  嘆きの声と争う音。 「やめてください!ローは心が弱っているのです」 「判っている!」 「殴っても意味なんかない!」 「何故言わなかった!何故だ!」 「わからない!でも!聞かなかった私達にも責任があります!」 「……ろ?」  握り合った手にゆっくりと力が入る。  俺はもうその手を握り返すことは出来なかった。  遠くから、泣き声が聞こえる。  心を引き裂くようなメリーの泣き声。  ごめんなさい。  囁く声はもう声にならなかった。 ** ** **

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