60 / 98
狼は雪原を見る(2)
食い終わるとまたメリーを布で固定した。寒さが増してきていたので、コートを念入りに巻きつけて紐で結ぶ。
妖精王の城から離れるごとに、雪の深さが増して行った。
時々、木を使って足跡を飛ばしたが、これだけ雪があるともう誤魔化すことはできないだろうと思って、先を急ぐことに専念した。
足が雪に沈まぬよう気を皿のようにして、足の下に敷いた。子供の頃にこうしてよく遊んだのだ。
どんどん雪の深くなっていく森の中を、眠るメリーを抱いて歩いて行く。
目の前が急に開けて広い雪原が現れた。
「メリー、メリー」
静かに声をかけてメリーを起こす。
メリーがもそりと動く。布を開くと、外の冷たさに一瞬ぷるっと震えた。
とろりとした水色の瞳が辺りをぼんやりと見回す。
「メリー、雪ですよ。綺麗ですよね」
興奮しながら囁くと、メリーを縦に抱きなおして布に座らせる。
俺の腰に脚を回したメリーの背中を支えて、雪野原の中を歩いた。
天気が良くて良かった。
白い息を吐きながら雪の中を2人で歩く。なにもかもが輝く世界で、一番輝いているのはメリーの姿だ。太陽の光の下でメリーはとても生き生きしていた。雪の反射で輝く銀色の髪。どこか曇った瞳もここでは鮮やかに輝く。
それが嬉しくてたまらない。
野生の獣がいるのだろう。小さな足跡が続いている。
「見て。メリー、あれはきっとウサギの足跡ですよ」
メリーがきょろきょろと辺りを見回す。空気の匂いをくんと嗅いだ。どこかにいてくれるといいのだが。
……ウサギの匂いがする。
目を凝らすと開けた場所の隅、森との境に白い尻がひょこひょこと動いている。ひょいと立ち上がった顔がこちらを伺った。
「あそこにいますよ」
指を指して身体の向きを変えた。メリーが眉を寄せてその辺を見ている。ウサギの姿を認めると、その顔がぱっと明るくなった。
「あー!」
手を伸ばすが、もちろんウサギがやってくるわけがない。
「ちょっと待って下さい」
ウサギの方にゆっくりと近づいて行く。俺はオオカミの匂いがするだろうから、逃げられるかもしれない。そう思ったが、うさぎは逃げなかった。
多分、さっき食べた果物の匂いがするのだろう。
エルフ達は肉を食わないから、メリーはこのウサギの天敵ではないのかもしれない。
気を広げるとメリーをそこに降ろした。
背中のリュックから果物を取り出し皮を剥いて地面に置いた。白いウサギの鼻がぴくぴくと動く。
「静かにですよ?」
指を唇に当てると、メリーが口を両手で塞いでにこにこ笑う。
ウサギがちょっとずつ近づいて来て、果物の皮をぱっとくわえると持って逃げていく。
「あ~」
メリーが悲しげな声を出す。
「大丈夫。あいつらは食いしん坊だから」
また皮を雪の上に置くとウサギは近づいてきた。今度は逃げない。その場でしょりしょりと皮を食べている。
皮をメリーに持たせると、うさぎが、くれというように身体を起こすと耳を立てて首を傾げる。
メリーがしゃがんで皮を差し出すとウサギが近づいて来て、その手から皮をひったくるとそのままその場で食べている。
メリーがそっとウサギの頭を撫でる。ウサギは緊張しているようだが、まだ残っている果物の為に我慢しているらしい。
メリーが嬉しそうに笑う。
メリーとウサギの友好関係は果物が無くなるまで続いた。
最後のひとかけらを掠め取ると、ウサギは森の中に消えて行く。
追いかけようとしたメリーが俺の気の輪から抜け出てしまい、そのまま腰まで雪に埋まった。パニックを起こしたメリーが雪の中でじたばたと暴れている。
側に近寄ってずるりとメリーを引き上げると、雪まみれの身体が抱きついてくる。笑いながらメリーの身体についた雪を叩いて落とした。くるくると腕の中で回しては叩くと、だんだん楽しくなって来たようで、最後はけたけたと笑い始めた。
薄情なウサギのことは忘れてくれたようだ。
それから、2人で雪の上に足跡をつける遊びに夢中になった。
メリーの足の下に気を敷いてやるのだが、急に走り始めたりすると気から外れてしまい、メリーは雪に埋まる。
その度にきゃあきゃあと騒ぐメリーを穴から救い出しては二人で笑い声をあげ、キスをした。
一度はメリーに気を取られすぎて、俺が雪にはまってしまった。
それを見たメリーが笑い転げる。お返しにメリーの下の気を外すと、今度はメリーが雪に埋まってぶうぶうと唇を鳴らす。
幸せだと感じた。
メリーが幼くなってからの日々で、感じたことのないくったくない喜びが俺の心を満たしていた。太陽と雪、そして笑うメリーがこの一日を完璧にしてくれたのだ。
けれど、どんな事にも終わりが来る。
空気が冷えてきた。
大気が夜の匂いを運んでくる。
そろそろ帰らなければいけない。
日が暮れる前に城に帰るには。
「さあ、もうそろそろお終いにしましょう。これ以上ここにいると、あなたは凍ってしまう」
メリーがぶうと唇を鳴らした。
「楽しかったのですか?…………では、また来ましょう」
メリーが両手で口を塞いでにこにこと笑う。
『内緒でね』
俺は頷くと指を立てて唇につけた。
それが嘘だということはわかっていた。
俺達の時間はそれほど残されていない。
帰りの支度をしている間に眠り込んでしまったメリーの青ざめた顔を見て心が血を流す。腕の中のメリーをそっと抱きしめて、青白い頬にキスをした。
日が暮れる前に急いで城に帰らねば。
雪野原で俺とメリーのつけた足跡や穴を見ながらそう考えた。
たくさんの足跡一つ一つにはメリーの笑い声が詰まっている。
だが、雪が降れば、ここはただの雪原に戻るのだろう。
何もなかったようにすべては消えてしまう。
冷たい空気が俺の心を、冷たく凍らせて行く。
帰る方向はわかっている。自分の匂いを辿ればいいのだから。
だが、俺の足は常春の妖精の城を離れる道を選んだ。
俺の足は雪野原の向こうにそびえる小高い雪山を目指していた。
山を登り切る頃には、流石に疲れ果てていた。
突き出した岩の上にずるりと身体を持ち上げると、はあはあと息を整える。
冷たい岩の上にあぐらをかくと、何度もしているように、布の中のメリーを確かめた。メリーが長く寝てしまうことを忌み嫌っていた俺だが、今日だけはそれに感謝した。
すっかりと辺りは暗くなり、壮麗に輝く妖精王の居城が正面に見える。
いつもより篝火が多いような気がする。目を凝らすと森の中にいくつもの灯りが見えた。空をグリフォン達が舞っている。
きっと……俺達を探しているのだ。
灯りは妖精王の居城から山脈の方へ多く続いている。
俺がメリーを連れて国を出たと思っているのだろう。
きっと……皆心配しているに違いない。
だが、帰りたくなかったのだ。もう……帰りたいとは思わなくなっていた。
────心が幸せな今、終わりにしたいと願っていた。
力を振り絞って立ち上がると、ここに来るまでに背負ってきた木の枝を積んだ。燃えやすい木の葉をそこに詰める。そして、エルフが持ってきてくれた簡単に燃え上がる葉を乗せて、火打石を地面に置いた。
何故こんなものを持って来たのか……
衣服が濡れたら乾かすつもりだったのだ。
きっとメリーは雪遊びで濡れてしまうだろうと思って。
歪んだ笑いが顔に浮かぶ────嘘吐きめ。
もう少し……時間が必要だ。
メリーを降ろすと、自分の外套でくるんだ。ひんやりとした風が俺の肌を冷やす。メリーを抱き込んで腕の中のメリーに気を集める。
いつまでメリーを暖められるか心配だった。もっと早く俺の体は冷えないだろうか。
ぽちりと顔に何かが当たる。
暗くなった空を見上げると、ひらひらと雪が舞っている。メリーのまつげに当たった雪が涙のようにその先で雫になる。
ゆっくりと起こさぬようにメリーの身体の角度を変えて横向きにした。フードをひっぱりあげて雪が当たらないようにする。
目を開かないでいて欲しかった。
目を開いて泣かれたら、俺は続けることができないだろう。
どんどん下の岩が体温を奪って、俺は冷たくなっていく。
座っていることが辛くなって横になってメリーを引き寄せた。
気をメリーの中に這わせるとメリーの額にうっすらと汗が浮く。
メリーは大丈夫だ。オレは微笑んだ。
火を点けるのは最後だが、失敗した時を思うと、思うより少しだけ早くしなければいけないだろう。
身体が雪に覆われ始めていた。
メリーの外套の上には雪がない。ほっとしながら白く美しい顔を眺めた。
意識が途切れそうになってはっとする。むくりと起き上がってよろよろと火打石を手にした。
『みつけた』
急に頭の中で声がする。
女の声だ。
『どこにいるのですか』
『めをあけなさい』
『まわりをみて』
『めをあげて』
聞いたことのある……どこかメリーに似た声。物見であるメリーの母に違いない。矢継ぎ早の言葉に酷く頭が痛む。
震える手から火打石が手から落ちて転がっていく。
『めをあげて、なにかしるしになるものを、みなさい』
俺は妖精王の城を見た。
『なにをしようとしているのですか』
俺は転がった火打石と、焚き木の山を見た。
『それをひろいなさい』
のろのろと火打石を拾うが、手から石が落ちた。
『ひろうのです』
激痛が頭に走りそのまま倒れこみそうになる。震える手で石をつかむと、何度も打ち合わせた。
石が濡れていて、なかなか火花が散らない。
最後の力を振り絞って打った火花が焚き木に移る。
火が燃え上がり大量の煙が出た。
はあ。
息を吐くとずるりとメリーの側に這いより、その手をつかんだ。
抱くことが出来ないのに心が痛む。俺の身体は冷たいから、もうメリーに触れることは出来ない。
握った手のひらから、メリーの身体に気を送り込んだ。
これでメリーは助かる。
酷く寒かった。だが、それが心地いい。
気絶をしていたのかもしれない。
急に声が耳に入ってきてびくりと震える。
「なんということだ!」
「メリーは……無事です」
誰かの手が身体に触れた。はっと息を呑む音。
「冷え切っているぞ。何故、外套を着ていない?」
「この身体はどういうことだ?ものすごく痩せてる!」
兄達の声だ。フロドとアル……ナルも。
メリーは無事だった。
よかった。
「……ねがい……」
「何かしゃべっている!」
「捨てて……俺を……おねが……置いて……」
嘆きの声と争う音。
「やめてください!ローは心が弱っているのです」
「判っている!」
「殴っても意味なんかない!」
「何故言わなかった!何故だ!」
「わからない!でも!聞かなかった私達にも責任があります!」
「……ろ?」
握り合った手にゆっくりと力が入る。
俺はもうその手を握り返すことは出来なかった。
遠くから、泣き声が聞こえる。
心を引き裂くようなメリーの泣き声。
ごめんなさい。
囁く声はもう声にならなかった。
** ** **
ともだちにシェアしよう!