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狼は雪原を見る(3)

「ぶー」  ぺたりと俺の服に黄色の果物のかけらがついた。  ふうとため息をついてつまみあげて皿に戻す。  無駄だとは解っていたが、もう一口食べないかと、フォークに刺して差し出した。上掛けの上で俺をまたぐように座ったメリーがフォークをさっと取ると俺に差し出してにこにこと笑う。  仕方が無く口を開けると、メリーが俺の口に果物を詰め込んだ。  黄色の果物を噛まずに飲み込む。何度か食べさせられて、とても甘いと知っていたからだ。ここから先は差し出せばすべて俺が食うことになるんだろう。とても耐えられそうにない。  皿を差し出すと部屋付きのエルフがさっとそれを取り上げた。  城の料理人の作った料理の方がおいしいだろうに、何故かメリーは食べようとしないのだ。  差し出された小さな板と受け取ると、慎重に差し出されたナイフと果物のかごを受け取る。メリーがその中から茶色い皮の果物をさっと取るとかごが下げられて、メリーが板の上にそれを置いた。  さくりとナイフを入れると、中は緑色の果肉で、熟した実から果汁が溢れる。部屋付きのエルフが戻ってきて、綺麗な皿を差し出した。  切り分けた果物を盛り付けていると、メリーが俺の膝の上でぴょんぴょんと跳ねて目を輝かせる。腹が減っているのだろう。  手際よく蜂蜜の器が渡されて、中から、らせんのついた木の棒を取り出すととろりと果実に回しながら垂らす。  メリーが口を開いてあーあーと期待するような声を出す。  部屋付きのエルフが咳払いをしたが、聞こえないふりをして、指に蜂蜜を垂らすとメリーの口に入れてやった。  メリーはあーんと声をたてて指を咥えると、にこっと笑う。指先のそれを吸いついては舐めまわす。くすぐったいのに耐えて好きなようにしゃぶらせてやった。  蜂蜜をもっとと強請って、期待するように口を雛のように開けるメリーにしかめ面をして見せる。 「あとは果物と一緒ですよ」  ぶうと唇がなって。頬がリスのように膨らむ。くすくすと笑うと、メリーの瞳がきらきらと輝いてもう一口くらいと甘やかしたくなった。 「ロー様」  咳払いと差し出される手、ちらりと視線をあげると、部屋付きのエルフの淡いすみれ色の瞳がつりあがっている。ふうとため息をついて、差し出された手に蜂蜜の壷を渡した。  フォークで緑の果物を刺すと蜂蜜をたっぷりとつけてメリーの口に入れてやった。  こんなものでもメリーにとってはオレが料理をしたということになるらしい。料理はもちろん、他の者が切ったものであっても、一口二口食べると、後は食べなくなってしまう。  一生懸命もぐもぐと果物を噛むメリーを眺めながら、至れり尽くせりの数日に思いを巡らせた。  毎食、完璧に料理された肉料理を食べ、最小限のメリーの世話を任されている。今のように部屋付きのエルフがありとあらゆることに手を貸し、それでいて邪魔をしようとはしない。  ゆるやかなウエーブの淡い金髪にすみれ色の目の部屋付きのエルフには、何度か名前を聞いたのだが「お呼び下さればすぐに参ります」と名前を教えてはくれなかった。  嫌われているのだろうかと思ったのだが、どうやらメリーに気を使っているらしい。  メリーは俺が誰かと話をするのを嫌う。両親や兄達とも長話をしていると、いい顔をしなかった。元々そうであったのだが、意識を失っている間にその傾向は顕著になり、誰かが必要以上に長く話しかけると怒った子犬のように唸り声をあげた。  俺とこのエルフが名で呼び合うような親しい仲になれば、メリーがこのエルフを嫌うだろうと。そうすると、手伝いをしにくくなるということらしい。 「私の事はどうぞ、家具とでもお考えください」  メリーが昼寝をしている間、涼やかな声でそのエルフは言った。  家具にだって名前くらいあるだろう。そうは思ったのだが、力を失い、ただ寝ているばかりの自分に、何かを訴える力などあるわけがない。  俺は諾々とその言葉に従った。  親がいないせいで、幼い頃から自分のことをやっていた俺にとっては、至れり尽くせりの手伝いを受け入れるのはなかなか難儀なことだった。しかし、雪山で体力と気の力を限界まで消耗してしまった俺が、メリーの面倒を見るにはそれを受け入れる以外にはなかった。  そろそろ一週間が過ぎて、充分な食事と休養を与えられた俺の体は回復して来ていた。だが、ベッドから出してもらえる気配はない。  メリーが退屈しないように遊んでやりたいと思うのだが、ベッドから出ようとすると、例のエルフがやって来てきつく咎める。  だから、俺はメリーの飯の支度をし、じゃれついて来るメリーにキスをして、その眠りの側で静かに横たわる。ただ、それを繰り返していた。  そんな日々も終わりを告げるらしい。  その日は朝から部屋付きのエルフの様子がおかしかった。  多分本人も気づいていないだろうが、微かに緊張した匂いがする。  朝飯を食って、徐々に休んでいる時間の増えているメリーが午前の昼寝を始めると、ドアがノックされた。それに答えた部屋付きのエルフが廊下の誰かと何かを話し、俺の所へやって来た。 「陛下が……ロー様にお目にかかりたいと」  これか。予めこのエルフは聞かされていたに違いない。  俺は身を起こすと、ふにゃふにゃと口を動かすメリーを見た。  メリーに用事ならば、寝ている時間は避けただろう。会いたいのは話したいのは俺なのだろう。そうは思ったが、一応尋ねる。 「俺に……ですか?」  エルフが頷く。 「ここでお会いしていいのですか?このままで?」  そっとメリーの髪に触れる。メリーがくすぐったがってふふっと笑った。 「はい」  エルフが言うと俺は頷いた。  部屋に通された妖精王とメリーの一番上の兄ガルムウェンがベッドの脇に立つ。その沈痛な面持ちに、悪い知らせなのだと理解した。  エルフが椅子を運んできて王と王子が腰をかける。 「久しいな……息子よ」  王が挨拶をする。  メリーを浚い、命を危険に晒した上に、俺に頼り切りのメリーを置いて死のうとした俺をまだ息子と呼んでくれた事に驚きを感じた。  驚きが顔に出ていたのだろう、王が顔を歪める。 「妖精の国にローを悪く思っている者はいないのだ。信じて欲しい」 「俺のしたことは許されるべきではない。メリーを失う痛みに耐えかねて、メリーの世話のことも考えず……道連れに……」  メリーと同じ銀色の髪を短く切り、氷のような水色の目をしたガルムウェン皇太子が口をはさむ。 「私はあの場所に居たが、君がメリーを道連れにしようとしたと思った者はいなかった。誰ひとり、だ。皆、君の身体を見て驚いたよ。餓死するつもりだったのか?」  凍ったような薄い水色の瞳を見て、視線を泳がせてうつむく。 「俺はメリーのことでは簡単に理性をなくしてしまうから……何かあった時の為に体力を削っておくべきだと思ったのです」 「削る、というレベルではなかったと思うが。骨と皮ばかりのあの身体で……しかもメリドウェンを抱えて、よくあそこまで登ったものだ」 「俺はオオカミですし……」 「オオカミとは痛みを隠す種族なのだとは聞いたことがあるが。そんなに悩んでいたなら何故言わなかったのだとアルが怒り出してね。瀕死の君を殴ろうとして……宥めるのが大変だった」  ガルムウェン皇太子がそう言って、なじるような目で俺を見る。心配してくれているのだ。そして後悔している。その目は冷たいがその怒りは温かいものに感じられた。王が頷いて言う。 「意識を無くしても、メリーに気を入れて暖めていたと聞いた」  王が俺の手を握った。じわりと浮かぶものを必死に瞬きで断ち切ろうとする。 「それでも……メリーに危険に晒したことに変わりはない」  震える俺の言葉に、王が首を振る。 「そうやって誰よりもロー自身が己を責めているのだ。他の者が鞭打つ必要などあるまい?」  王が息を吸い、唸るように言う。 「我々が鞭打たずとも……打たれねばならぬ……」  妖精王の顔が苦しげに歪む。 「戦が起こる」  その言葉は予想していたものだった。だが、現実として言葉にされると、不安がざわざわと身の内を這う。 「いつ……ですか」 「雪が溶ける頃には」  雪が溶ける頃…………春になったら。  春になったら、メリーの元を離れねばならない。  分かっていたことだ。戦が起これば、俺はルーカス王の指揮下に入り、戦わなければならない。  自惚れではない。俺は戦力として見逃していい存在ではない。あの戦に長けた王が感情で俺を見逃す訳はないのだ。 …………俺が居なければメリーはどうなるのだろう。  そもそも、春が来るまで、メリーは………… 「聞け。息子よ」  憔悴し切った年老いた王の声。俺は虚ろな目を向けた。 「妖精の城の奥、深い森を抜けた先には……隠された森がある。  そなた達オオカミが創世の神より力を授かったように、我々エルフは知識を授かった。  知識は人に甘いものだけではない。中には辛い現実に負け、心を病むものもあった。  私と妻は沢山の子供に恵まれたが、元来エルフは子供が産まれにくく、種族としては数が少ない。そうして知識に傷つけられ、失われる命を惜しんだ先祖は、植物の知識を生かして森を作った。 …………記憶を奪う森を」  言葉を理解するのに時間がかかった。理解すると、息も止まるような絶望が心を締め付ける。 「俺からメリーの記憶を消すのですか?」  妖精王が言葉に詰まり、涙を流した。言葉を発することの出来ない王の代わりに、ガルムウェンが言う。 「この国に、ローに力で強制的に何かをさせられる人間はいない。  それがよかろうとは思っても、騙してとは誰も思っていない。  メリーを思い……失うのを恐れて痩せ細り、死のうとした君をこのままむざむざ死なせていいのかと思ったのだ」 「戦争の為に……殺すために……俺にメリーを失わせるのですか」  刺されたように痛む心のままに吐き出した。ガルムウェンの顔が悲しみと痛みを浮かべる。 「そう思われても仕方がない。──その通りなのかもしれない。  メリーを思い、痩せ衰え死のうとした君から記憶を奪い、戦場へ送り出そうとしている我々は……間違っているのかもしれない。  だが、どうしても……君は子供だと思ってしまうのだ。メリドウェンは遅れて産まれて来た子供だ。長子である私とは二十も年が違う。  そのメリドウェンが連れて来た君は、いかにも若く純真で……あの子を溺愛していた。そんな君が悲しみ、嘆いて……狂って命を粗末にする様を見守るのは容易なことではない」  涙声で王が囁く。 「メリーを助けるためにありとあらゆる書庫を探り、禁じられた書庫までもを開いた。遠方の国に使者を出し、可能性のある所はすべて……王子達はドラゴンや化け物の巣食う遺跡を探り、噂される場所を探索した。  だが……何も見つからなかった。創世の神から知恵を授かった我々が……何一つ……見つけることが出来なかったのだ。  そのせいで息子よ。お前は憔悴し、死を選ぼうとした。  たった十七で、恋に身を捧げ、命を捨てようとしたのだ。  それがどんな悲劇であるか……わかるか?」  ことりと何かが胸に落ちた。  何故、メリーの兄弟達の足が遠のいたのか。  城の中が騒がしく、そして沈痛な空気に満ちていたのか。  メリーの器を元に戻す方法はない。メリーはこのまま衰弱して死ぬ。  それを俺に伝える方法がなかったのだ。

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