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狼は雪原を見る(4)

 メリーを溺愛し、まるでメリーの為にだけ生きているように見えただろう俺が、悲嘆に暮れる様を見たくなくて……そして考えたのだろう。  どうにかして俺を生かす方法を。その為にはメリーを忘れさせるしかないと考えたのだ。 「俺は……メリーのいない世界で生きることを望まない」 「わかっている。わかっているとも」  王が涙を流しながら囁く。 「では、何故?」 「メリーが君が生きる事を望むと思うからだ」  ガルムウェン皇太子が切り捨てるように言う。  嘘だ。そんなのは嘘だ。  メリーは俺が独りで生きて行けばいいと望むのか?  何もかも忘れて?この心を捨てて生きて行けばいいと願うのか?  ああ、だけど、もし、そうだとしても。  嫌だ……俺は嫌だ。嫌だ。  そして、もう一つの疑問が頭に浮かぶ。 「メリーの記憶も消すのですか?」  ガルムウェン皇太子の顔が苦痛に歪む。 「そもそも……メリーに記憶の森の力が及ぶのか……それも分からない。だがしかし、もし……君がメリーの延命を望むなら」  今のメリーは俺がいなくなったら死んでしまうだろう。俺が倒れて意識を失っている間、部屋を離されたメリーは泣き続け、飯も食わなかったと聞いた。だから生きろと言われたのだ、死ぬことは許されないのだと。  なのに、奪うのか。どうしてだ。  唸り声を震える手で押さえる。暴走した所で何の意味もない。 …………暴走した結果を見ろ。  メリーが器を失っただけでは足りないのか。  父や兄を屠り、今度はメリーを殺すつもりなのか?  それほど俺は愚かなのか? 「少しだけ……時間をください」  荒い息を殺して、目をあげて悲痛な顔をした父と兄を見る。  この人たちにとっても、これは容易な判断ではなかったはずだ。 「馬鹿な真似はしないと誓います……だから……少しだけ、メリーと2人にしてください」  二人はしばらく俺を見ていたが、顔を見合わせて頷き合うと立ち上がり、出て行く。ドアの前に立つエルフを見ると、静かに言った。 「あなたも」  すみれ色の瞳が戸惑いに揺れる。 「お願いです」  美しい顔が細く息を吐く。 「ドアの外に控えておきます」  それが彼の離れていられる限界なのだろう。 「ありがとう」  ぐっと堪えた瞳が俺を見る。俺は頷いた。  細い長身の体が扉の向こうに消える。  涙が出て来ないのは何故なんだろう。指先は震えているのに。  眠るメリーの頬に触れた。  もにゃもにゃと口が動いて、幸せそうに微笑む。  メリーは死んでしまう。  こんなに美しく可愛らしい白い薔薇が散る事は誰にも止めることが出来ないのだ。  自分に出来る事はなんだろう。何が出来るんだろう。  ただ、側にいるだけ。見守り、愛し、その笑顔が一秒でも長く続くように……。  ああ、だが、それも春までなのだ。  春がやって来て、戦が始まれば俺はメリーの側を離れるしかないのだ。  嘆きの声が口から漏れた。  流れる涙がメリーの頬にぽつぽつと落ちる。 「愛しています」  悶える心に声が震える。 ……瞬間、メリーが起き上がった。  ふわっと開いた目を無邪気に輝かせて、微笑んだメリーが腕の中に飛び込んで来て、唇を重ねる。  美しい声が言葉を囁いた。  瞬間、ぞわりと身の内を指が這う感触。心臓が跳ね上がり、激しく動き始めた。  メリーと俺がしていた遊び。その遊びのことを俺はすっかり忘れていた。  雪山の後、この部屋に住むようになって、二人きりということが無くなった。見張られた状況では儀式のように続けられた、あの遊びをする機会は見つけられなかった。  いや、違う、俺は忘れようとしていたのだ。  この儀式は賢いメリーが禁じたものだった。  幼いメリーを置き去りにするようなことをしてしまった後ろめたさが、賢いメリーへの忠誠を思い出させた。だから、俺は心から望むその儀式へとつながる遊びを止め、忘れようとしていた。  俺の涙で曇る瞳と苦しむ顔を見て、メリーの微笑みが不安げに揺れる。  遊びがうまく出来たのに、褒めて貰えずに戸惑っているのだ。  俺はぎこちなくメリーを抱きしめると、美しい髪を撫でた。 「あなたはとても賢い」  ぱっとその顔が輝いて、喉元に顔をこすりつけてくる。そして、子犬のようにくーんと鼻を鳴らした。  静まっていく動悸を感じながら、俺は考え続けた。  メリーはそれが危険だと言った。  太古の魔法には落とし穴があるのだと。  だが、どうなのか。  メリーの命が危うい今、惜しむものがあるのだろうか。  俺達の死は悲劇的なものになるのだろう。  美しいメリーが俺の為に器を失い、器を失ったメリーの為に俺が死ぬ。それは側から見れば悲劇以外の何物でもない。  だが。  それこそが俺の切望するものではないのか。  メリーと一時でも長く寄り添い、メリーが死ぬと同時にその後を追う。どこにあろうとも……メリーの側にいる。  それこそが俺の望みだ。  例えそれが呪われた行為でも……。  どんなに悲劇的であったとしても。  ああ。  ふいに気がついた。  父と母もそうだったのだと。  父は病気の母の延命を望んでいたのだと思っていた。だから、自分が産まれ2人が死んだ事は悲劇なのだと考えた。  違うのだ。  母を心底愛した父の望みは共にある事だった。  延命は副産物に過ぎない。俺の誕生も。  もう少しあるはずだった時間が短くなった。それだけのことだ。  二人はきっと幸福だったのだ。  俺は呪われた子供ではなかった。  ならば……許されるだろうか。いや、許されることなど望みはしない。 「メリー……俺は、世界よりもあなたが欲しい。  どんな英雄になるよりも……ただ、あなたに繋がれるだけの存在になりたい」  幼いメリーはきっと理解しないだろう。俺はその手を握った。  どこか曇った水色の目を覗き込み、幼い表情を見せる唇にキスをする。 「俺のものになってくれますか?  そして……俺をあなたのものにしてくれませんか?」  じっとメリーが俺を見る。  俺の頬を涙が流れていく。  いくつもいくつも流れていくそれをメリーはじっと見ていた。  細くて美しい指先が持ち上がって、俺の頬に触れる。  メリーは俺が泣いた時、いつそうするように指先で涙をなぞった。  首を傾げたメリーがゆっくりと俺の唇を吸う。  それはキスをした俺に対するお返しに違いない。  理解ではない、許しでも。  だが、それは今の俺に必要なものだった。 「メリー」  引き寄せるとメリーは花の蕾が開くようにゆっくりと微笑んだ。  俺のしようとしていることが正しいのか、間違っているのか。俺にはわからない。  だが、この道以外に歩きたい道はない。  メリーの手を引いてゆっくりと扉へ向かった。  軽く扉を叩くと聞きなれたエルフの声が返事をする。 「まだ、父上と兄上はそこに居ますか?」 「居ります」 「お話したいことがあります」  入ってきた父と兄に、俺はありのままを話すことにした。  誤魔化して、嘘をついた所で俺は頭が良くないから、きっとおかしいと気付かれてしまうと思ったのだ。 「俺はメリーと《契約(インクルード)》を結びたい」  自分が《契約》をした両親から産まれたこと、それ故に術式を知ることになったこと。両親の例から《契約》を結べばメリーの延命が望める。そして、メリーはオオカミ族ではないから、万が一俺が先に死ぬ事になっても、メリーは死なないことも。俺はすべてを語った。 「俺が望むのはメリーとただ共にありたいということだけです。 メリーは……《契約》に落とし穴があるかもしれないと言っていました。だから、王との戦いの時に契約はしなかった。 ……もし、必要があるならば《契約》について調べてください」 「しかし、ロー……君は……メリドウェンが死んだら死んでしまうということだ。しかも延命が望めるかどうかはわからない。  あやふやなものの為に命を賭けようとしている……そんなことが、許されるわけが」  ガルムウェン皇太子が苦しげに言葉を吐き出した。  いかにも俺が不利であるこの《契約》に心苦しさを感じているのだろう。 「ここには俺の望まぬことをさせれる者はいない。逆に言えば、俺の望むことを阻める者もいないということですよね」  その言葉の中に潜む真実と狂気に、二人は息を飲んだ。俺は穏やかに微笑むと、話の途中で寝てしまったメリーの頭をそっと撫でた。 「俺は……メリーと離れたくない。  この地でも、それ以外の場所でも……一緒にいる権利が欲しい。  メリーの延命も、俺が強くなることも俺にとってはただの副産物なんです。  春になったら戦いに行く。必要なら記憶を消しても構わない。  もし、お互いの記憶が消えていても……戦争が終わって、メリーと会うことが出来たら……俺達は、またそこから始めることが出来る」  俺は涙で一杯の父と兄の目を見た。 「メリーは、俺に一目惚れしたんだと言っていたんです。  俺の目を見た瞬間に好きになったんだと言って……。  それはすごく嬉しいことだったんですが。俺は、それが少し……悔しかった。  その時、俺は別な人に失恋したばかりで、そういう気分じゃなくて。メリーを好きになるのに時間がかかった。だから……やり直すことができたらと思っていた……今度はちゃんとメリーに一目惚れしようと思うんです」  何処にいても、何をしていても。  例え忘れていても。きっとメリーを思う。 「妻や……他の息子とも話をしなければならない」  そう言う王に俺は頷いた。  父と兄が出て行くと、部屋には眠るメリーと俺、そして部屋付きのエルフが残された。 「良いのですか……」  エルフの声に顔を上げる。薄暗くなった部屋の中にすみれ色の瞳が光る。静かな声が響いた。 「それが……俺の望みです」 「メリドウェン様がお喜びになると思いますか?」  その言葉に、このエルフが賢いメリーをよく知っているのだと気がついた。俺は苦い微笑みを浮かべて幼いメリーを見下ろした。 「きっと……もの凄く叱られると思います」 「メリドウェン様はそういった自己犠牲をとても嫌われます」 「そうですね……『感情がない義務で条件のある忠誠』……だったかな。すごく叱られたことがあります。  でも……今の俺のしている事は義務でも忠誠でもなくて……ただ、メリーと離れるのが嫌だって、自分の我儘で……それだけで。  だから、メリーがどんなに怒ってもいいんです。  メリーは俺がこんな風でも……気持ちの強さがなくても、それでもいいんだって……言っていたから。だから……きっと最後には仕方がないなって許してくれると思うんです」 「メリドウェン様が義務や忠誠を嫌うようになったのは……私の兄のせいです」 「兄?」 「私の兄は……かつて、メリドウェン様の護衛をしていました。名を……クルフィンと申します」

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