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白薔薇は咲き誇る(2)

 クルフィンのすみれ色の瞳が穏やかに笑み崩れる。  細身の剣が優雅に構えられて、一拍の後、一気に間合いを詰めた。  剣を振るクルフィンとさせじと受け流すフェンリル。  一歩も譲らずに激しく撃ち合う二人に身体が震える。  フェンリルの姿にもう一人の影がちらちらと重なった。  あの時も……こうやって眺めていた。  そして、そして……やっとで終わったと思ったのに……あの人は足元に倒れた。血溜りが広がって……その瞳が閉じるのを見た。灰色ではなかった、もっともっと美しい……溶けた輝く銀の色。  震える手の甲に何かが落ちる。──それは涙だった。  わたしは泣いている。  クルフィンの剣を身を低くしてかわすと、フェンリルが足払いをする。飛び上がって避けたクルフィンが打ちかかった。あがった腕がクルフィンの腕を跳ね上げて懐に飛び込んで突きを放つ。ぐうっという呻き声。クルフィンが後ろに飛ばされる。 「どうだ?」  フェンリルが笑い声をあげながら、倒れず持ちこたえたクルフィンに殴りかかる。 「ご老体を労わって差し上げたいのは山々なのですが……」  後ろに跳んだクルフィンが爽やかに微笑む。 「あまり時間がない」  キィンという金属音が鳴り響いた。耳のいいフェンリルが表情を歪める。クルフィンの剣の周りに緑色の風がぐるぐると渦巻く。目にも止まらぬ速さで振られた剣から、風の矢がフェンリルに向かって飛んだ。  いくつもの風の矢はフェンリルを刻んで行く。  ぼろぼろになった胴着があっという間に血で染まって行った。ゆらりと、フェンリルの身体がよろめいて、踏み留まった。あちこちに血の滲んだ道着。  その姿に、心臓が狂ったように動き始める。  汗で濡れた灰色の髪はほとんど黒く見えた。苦痛の滲んだ目が煌いて別の色を浮かべる。  口から出そうになる悲鳴を抑えた。  やめて、やめて!!  その人は────  何度も入れ替わるイメージに頭がおかしくなりそうだ。  黒い髪だった。少しくせのある、真っ黒な髪。溶けた銀のようなやわらかい光を放つ銀色の瞳。しなやかで強靭な鍛えあげられた細い身体。 『メリー……』  甘い甘い声。  幻聴なのか?いや、確かに聞いたことがある。そんな風に呼ぶのは彼だけだった。  彼以外にはそう呼ばれたい人はいなかった。  クルフィンが次の攻撃の構えに入る。  フェンリル……あれは誰だ?もう黒い髪、銀の瞳にしか見えない。  胸が苦しい。  気がついたら走り出していた。  助けなければ。今度こそ、今度こそ助けるのだ。  激しい頭痛を伴いながら、いろいろな場面が頭の中に浮かんでは消える。  誇らしげな笑顔、ひどく落ち込んで涙ぐむ顔、穏やかに微笑む顔、苦笑い、愛しさをたたえて輝く瞳。欲望を浮かべた煌く瞳。  その口がわたしの名前を呼ぶ。  何度も。 『愛しています。俺の白い薔薇』 「ロー!」 「────!」  叫びながら抱きついた瞬間に、それが違うと気がついた。  涙でいっぱいの目で、その目が灰色であると、違うのものだと理解した。  ちがう、ちがう。  これはわたしの狼ではない。  では何処にいるのだ。  ひどく痛む頭を抱えた。 「ちがう……あなたは、ローじゃない」  灰色の瞳が無表情にわたしを見つめた。 「ろ……ローはどこ?ど……して?」  絶叫が口から漏れた。ああと嘆きの声をあげながら灰色の狼から離れる。  そのまま倒れそうになったわたしを誰かが抱き止めた。 「小さな王子(リトルプリンス)」  温かい腕がわたしを抱きしめる。  わたしはもう小さくなかった。目に映るすべてが、元のわたし、十八歳のメリドウェンのものだった。  クルフィンの肩に顔をうずめて、声の限りに泣き声をあげた。 「ろ、ローに逢いたい……ロー……」  涙声で囁くと、クルフィンがわたしの髪を撫でた。 「もうすぐ逢えますとも。このクルフィンが約束致します」  泣きじゃくるわたしの背中を優しくクルフィンが撫でる。 「わ、わたしはクルフィンとは行けない……エルフの黄泉に行く事はできない。ローと一緒に居たいんだ」  苦しい息の間から言葉を押し出すと、クルフィンが寂しさの混じった微笑みを浮かべる。 「わかっています」 「クルフィンのこと……忘れていたんだ。ひどいよね」 「それは、私があなたの愛に関する部分の記憶だからです。  あなたの狼はあなたの愛がなければ生きていくことが出来ない。だからあなたは現世の身体に愛だけを置いて来たのです。  そしてそれに関する記憶は、このあなたからは失われてしまっていた。  モリオウ殿のことも、わたしのことも、その身体が忘れてしまったのはそのせいです」 「で、でも今は思い出した。ごめん……ごめんなさい。クルフィン。クルフィンはわたしのせいで……」  クルフィンが穏やかに微笑んで、頭を振る。 「謝るのは私のほうです」  優しい手のひらが流れる涙を拭う。  穏やかなすみれ色の瞳がじっとわたしを見つめた。 「あの最期の時、私はあなたに義務と忠誠の為に死ぬのだと言いましたね。……あれは間違っていた。それに気がついて、取り消そうとしたけれど、もう私の時間は過ぎてしまい……あなたに告げることが出来ませんでした」  クルフィンの微かに動いた唇のことを思い出した。  何か言いたげだった。でも、その声は聞き取れなかった。 「そして、そのことを私はずっと後悔し続けて来ました」  ため息がその唇から漏れる。すみれ色の瞳がひときわ鮮やかに輝いた。その輝きを見たことがあった。 「私はただ……あなたに……『愛している』と……そう言えばよかったのに」  クルフィンがわたしを?  信じられないという気持ちと、そうだったのかという奇妙な喜び。  でも、わたしはもうローのものだった。揺るぎなく、ひとかけらの迷いもなく。  わたしはなんて残酷なんだろう。  引き攣れるような悲しみが心を捩じ上げる。  言わなければならないことに涙が浮かんだ。  流れる涙を穏やかな瞳が見詰めて、それから静かに微笑んだ。 「クルフィン……わたしは」 「わかっています。メリドウェン様。あなたはもう、私の小さな王子ではない。……黒い狼の抱く白い薔薇なのだから」  優しい手が頬をつつんで、親指と手のひらが涙を拭う。 「私のあなたへの想いは愛だった。もしかすると……あなたの抱いていたものも。しかし、私の想いも、あなたの想いも、私が死んだ時に止まってしまった。それでいいのです。  わたしの想いは肉欲を伴ったものではありませんでした。  ただあなたをこの上なく愛おしく思い、この手で護りたいと……その為にはすべてを犠牲にしていいと思っていました……そして、その時が来た時にわたしは自分の心の赴くままに、命を捨てることにしたのです。  それは、義務でも忠誠でもありませんでした」  きらきらと輝くすみれ色の瞳が愛しげにわたしを見る。  クルフィンの手がわたしの手を握ってその指先にキスを落とす。 「愛しています」  わたしは何も言うことが出来なかった。  クルフィンを愛していたわたしは小さな子供だった。  そのまま、クルフィンと時を共にしていたらどうだったろう。もしかしたら……もしかしたら…… 「メリドウェン様。それを考えてはいけません」  微かに首を傾げて、クルフィンがわたしの顔を覗き込んだ。  しゃくりあげるわたしに、にっこりと微笑みかける。 「その思いは、どうぞそのまま眠らせて。  わたしは死者なのです。そしてあなたは生きている」  喉元までこみあげる言葉を呑みこんだ。あの時はそうだったかもしれない気持ちは、今語ると嘘になる。だってわたしはローのものだ。そして、揺れるはずのない気持ちを揺らせば、それはローの命を奪うのだ。 「わしはくだらぬ茶番をいつまで見ていればいいのだ」  地面にあぐらをかいたフェンリルが腕で顔を支えて、憮然として口を挟む。 「血まで流してやったというのに感謝もなしか」 「始祖殿は丈夫で居られますから」  クルフィンが軽やかに笑う。  フェンリルの裂けた道着の下から覗く肌は出血どころかなめらかで傷一つない。道着にこびりついた乾きかけた血だけが出血の証になっている。 「抜かせ。始祖の血など、ここ数千年見たことのある者はおらんのだぞ」 「それは貴重なものをお見せ戴きまして、畏れ多いことこの上ない」 「空々しい、青二才が」  憎々しげに吐き捨てるフェンリルにクルフィンが微笑む。ゆるやかにその腕がわたしに絡みついて、優しく背中を叩いた。  叩くそのリズムをわたしは覚えていた。やんちゃで、けれど、泣き虫だったわたしを慰めた手の感触。  わかっていますよ。囁いて穏やかに微笑んだすみれ色の瞳が、わたしの涙目を覗きこんだ。 「さあ、メリドウェン様。あなたを現世の身体に戻しましょう」 「無理だ」  フェンリルがつまらなそうにふうと息を吐く。 「つがいの名前を思い出しただけでは対価が足りん。  元に戻ったそやつを受け入れる器がなかったから、そやつはここへ来た。死んではおらんが、限りなく死に近い状態にいる。  元に戻す為には相応の対価が必要だ。そやつの魂の質量を見るに、安い対価では済むまいぞ」  はっと見上げたわたしの目を、クルフィンの穏やかな瞳が見下ろす。 「対価はありますとも。────私がここに残ります」  なにを言っているんだ。そんなこと、出来るわけがない。いや、しちゃいけない。  フェンリルが狂ったように笑い始める。両の手が自分の足をばんと叩いた。すっとあがった指先がまっすぐにクルフィンを指さす。 「お前と言う存在が消えるぞ!  エルフの気高き戦士クルフィンがエルフの理から外れ、卑しき狼の輪につながれる。天に輝くおまえの星は墜落し、地に落ちて燃え尽きる。そして、二度とお前は現世の輪廻には戻れなくなる!」 「承知の上です。だからこそ、私は対価として価値がある」

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