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白薔薇は咲き誇る(3)

「クルフィン!そんなの駄目だ!」  クルフィンが目をあげてわずかに開いた空を見る。  そして、動揺し切ったわたしの目をみて柔らかく微笑んだ。 「さあ、小さな王子(リトルプリンス)。話を聞いて。幼いあなたが泣いている。  大きく美しくなったあなたは喜びそのものだ。もっと見ていたいのですが、本当に時間が少なくなってしまった。  こちらと現世は流れる時の速さが違うのです。  私はずっと星からあなたを見守って来ました。あなたの嘆きや悲しみもずっと。  わたしのせいであなたは自分という存在に疑問を抱き、王子でいることを愛せなくなってしまった。そして、国を離れヒトの国へ去った。  そこで起きたことはあなたにとって幸福なことだったでしょう。真実の愛に目覚めたあなたは花開いた薔薇そのものです……けれど、結果的には器を失ってしまった。  それはすべて、元をただせば、愚かな私の起こした悲劇なのです」 「そんなの違うよ!確かにクルフィンが死んでわたしは悲しかった。でも、きっとあのままでいたら、わたしは甘やかされたまま、きっと嫌なエルフになっていた。わたしはいい方に成長したんだ。間違っていたなんて思わない!」  ほうとクルフィンが息を吐く。 「ありがとう。小さな王子。そう言っていただけて、どれほど嬉しいか……。  しかし、あなたの狼の起こした奇跡を無駄にすることは出来ない」  ローが起こした奇跡。ぎゅっと心臓を握られたような気がする。  ローはどんなことをしたんだろう。その為にどんな無茶なことをしたのか。 「ここに降りてきた時点で、もうわたしはエルフの理から抜けている。戻っても星に戻ることは出来ません」 「どうして!どうして!そんなことをしたんだ!」  クルフィンは正しいエルフとして、高潔な騎士としてエルフの星になった。そして、いつか転生する日まで輝く筈だったのに。  クルフィンのすみれ色の瞳が鮮やかに輝いた。優しいそして少しだけ寂し気な笑みがその唇を彩る。 「あなたを、愛しているから」  回った腕にぎゅっと力がこもった。  クルフィンの匂い。香草のような爽やかな香り。幼い頃のわたしはこの香りに包まれていた。 「クルフィン……」  涙があふれて止まらない。  クルフィンはすべてを捨ててここに来てくれた。  なのに、わたしは……それでも、どうしたって、ローのものだった。  クルフィンの星は墜ちるのか。  エルフが転生すれば星は輝きを失う。エルフが死んでまた星になる日まで。  だが、エルフの理を離れた星は墜ちる。墜ちて、消えて二度と元には戻らない。それは、エルフであるクルフィンという存在がこの世から消えてしまうということだ。  そんなことをクルフィンにさせてしまったなんて。  なのに、わたしはローのものだ。 「悩んではいけません。  あなたの星もまたあなたが死んだときに墜ちるでしょう。  あなたはあなたの狼に繋がれ、生が終わった時には狼の道を下る。  それはエルフ達にとっては少し悲しい出来事ですが、悲劇ではない。  そしてまた、私の星が落ちることも」 「わたしのがそうかもしれないけど、クルフィンのは」 「同じです。同じ愛のためなのですから」 「だってあなたのは」 「報われないからですか?あなたを抱き、愛することができないから? ……長い間、あなたの嘆きを空から何も出来ず見続けることがどんなに辛かったか、あなたにはきっとわからない。  そして、こうしてあなたの幸せの為に役立つことが出来る幸せも」  クルフィンがくすくすと笑いながら懐から布を取り出すと、涙でぐしゃぐしゃの顔を拭って鼻に当てた。 「そんなに泣くから、鼻が垂れていますよ。ほら」 「クルフィ……」  鼻をきゅっと摘まれるとどうしようもなくて、子供のように鼻から空気を押し出した。ずるずると音を立てるそれをクルフィンが拭き取った。 「男前に戻りましたね」  また流れた涙をクルフィンの指が拭う。 「さあ……笑って。  こうやって自分の過ちを正すことが出来た。わたしはそれで充分なのです。  もし、あなたが自分の為にこの犠牲を受け入れることが難しいというのなら、あなたの狼の為に受け入れて下さい。  彼が支払った対価がなければ、あなたはここに現れず、わたしもまた見守るだけの傍観者になっていたでしょう」 「ローは何を……」 「それは現世であなたが、自身の目で確かめるべきことだ」  ローの為。いや、それは違う。  ああ、でも。わたしはクルフィンの言葉を受け入れるしかない。  だって、ローに逢いたい。どうしても……どうしても。 「ごめん、ごめんクルフィン」  囁く声に、満足そうにクルフィンが微笑んだ。 「さあ、笑顔を見せて。わたしはそれが大好きだった」  一生懸命笑おうとするのに、上手くいかない。  もう……それしか、クルフィンにしてあげられることはないのに。  彼が望んでいるそんな小さな望みすら、わたしには上手く叶えることが出来ないのか。ぼろぼろと涙を零しながら、なんとか笑いのようなものを浮かべると、クルフィンが穏やかに笑った。 「小さな王子(リトルプリンス)は本当に……本当に、美しくなられた」  どうにもならなくて、泣き声をあげたわたしの肩をクルフィンがそっと抱き締める。 「大丈夫、わかっています」  優しい手がゆっくりと背中を叩く。 「私達はもう一度逢える。  あなたが狼と共に黄泉への道を下る時、ここでもう一度出会うのです」 「時間がないぞ!」  フェンリルが立ち上がって空を仰いだ。 「小さな王子。向こうでは困難が待ち構えているでしょう。  でもあなたは強く、そして賢い。それを忘れないで」  クルフィンがわたしを持ち上げると、身体がふわりと浮かぶ。 「真っ直ぐに飛びなさい。  そして、あなたの身体に戻ったら素早く賢く立ち回りなさい。  狼が起こした奇跡を逃してはいけません。  わたしに逢いに来るのはゆっくりで。いつまでもここで、あなたを眺めていたいですからね」  ぎりぎりまで腕が伸びた。  綺麗なすみれ色の瞳。真っ直ぐな金の長い髪は月の光のようだ。  穏やかな眼差し、通った鼻筋と薄い唇。  何もかもが覚えていた通りだった。  あの棺の中のクルフィンの顔は真っ青で、硬い表情をしていた。  苦しげに眠っているような表情で水の中に沈んで行った。  重苦しかった記憶が鮮やかに今のクルフィンに置き換わって行く。  指先だけで繋がった手、クルフィンが励ますように微笑んだ。  何か、何か言わなければ。  でも、何を。 「クルフィン!」 「まっすぐに飛びなさい」  ついに指先が離れた。大粒の涙が毀れる。 「大丈夫、また逢えます」  クルフィンが片手を胸に当てると、首を傾げて微笑んだ。 「ありがとう!クルフィン…………大好きだよ!」  クルフィンが面食らったような顔をした。  それから、照れたように笑み崩れる。 「私もです……メリドウェン、私の王子」  ぐるぐると身体が回転しながら上に浮かんで行く。  クルフィンとフェンリルがどんどん小さくなって見えなくなった。  圧縮された身体が上へ上へと押し上げられ、重なった枝から空へ突き抜ける。  どこだ。どこへ行けばいい?  その時、小さな泣き声が聞こえた。赤ん坊のように泣く声。だが、どこかで聞いた覚えのある、その声。  小さなあなたが泣いている。クルフィンはそう言った。  上空をぐるりと回ると、その声の聞こえる方に一直線に飛んだ。  周りの風景はぬるりとしていてよく見えない。  自分があまりにも速く飛んでいるせいなのだと気がついた。  身体が細く、リボンのようになっている気がする。  何か……目の前に大きなものが見える。 ────ぶつかる!  ぎりぎりで止まると、それが窓だと気がついた。  壮麗で豪華なバルコニー。そして大きな窓。  見覚えがある。  ここは城だ。妖精王の城。  中から泣き声が聞こえた。  子供が泣いている。  窓から中を覗くと、銀色の髪のエルフが床に倒れて泣いている。  金色の巻き毛のエルフがその髪を撫でていた。  すべてを失ってしまったような悲痛な泣き声。  窓に触れると窓は開かないのに、手が中に滑り込む。  子供がはっとしたように目をあげた。  水色の曇った目が大きく見開かれる。その頬を大粒の涙がすべり落ちた。  あれは、わたしだ。  器を失ったわたし。  よろりと立ち上がったわたしが走り寄って来る。 「ろ、ろ、ろ」  おぼつかない涙声がローの名を呼んだ。  そして、わたしはもう一人の自分を見て息を呑んだ。ぼんやりとその胸が輝いている。その中に揺れているのは………… 『あなたの狼が起こした奇跡』  クルフィンが言った言葉が蘇る。  そこで揺れているのは器だった。砕けたはずの器が再生されている。  じりじりと銀色に光っているのは何だろう?  目をこらすと、それは、ローの気だった。器のかけらをローの気が糊のように繋いでいる。すべてのピースを正確に。ああ、ローはどれほどの努力でこれを成し遂げたのだろう。ゆらゆらと揺れるのはローの気が生きているからだ。  震える手でもう一人のわたしを抱きしめた。  触れた指先がもう一人のわたしに滑り込んで行く。  溶けるように融合しながら、もう一人のわたしのすがるような目を見つめた。 「ろ……ろ……」 『もう大丈夫』  声になっているのかわからない。それでもわたしは囁いた。  幼い顔が涙を零しながら、ふにゃりと綻ぶ。  溶けていくごとに、この身体の感じたものが流れ込んでいく。  幼いこの精神は理解することが出来なかったのだろう。  沢山の不安や恐怖。  すべてがぼんやりとした世界で、残された幼い自分と残された愛は、それでも必死にローを護ろうとしていた。  そして、どんなにローに愛されていたか。  沢山の抱擁。沢山のキス。 『愛しています』  囁く声。触れる指先の温かさ。  宝物のように愛される日々を幼い自分は見せてくれた。  いつも一緒だった。いつもいつも。  なのに。  ぐるりと世界は反転して、幼い魂は真っ暗な闇に落とされた。  ろ、いない。ろ、どこなの。どこにいくの?  ああ、ローは今何処にいるんだろう。  幼い自分は引き離されたことだけしか判っていない。 『わるいこと』  小さい声が泣き叫ぶ。  何かが起きているんだ。  身体に戻ったら素早く賢く行動しろとクルフィンは言った。この奇跡を逃してはいけないと。  絶対に逃すつもりはない。  わたしは幼い自分に頷いた。わたしがローを救う。  必ずだ。  ぼんやりとした水色の瞳が涙をこぼして頷いた。 『ろ、しゅーき。あー、あー?あーい?』 「愛しているとも」  完全に意識が融合して、幼い自分が意識の底に沈む。視界がくっきりとして、床の上に立つ自分を意識した。 「メリドウェン様?」  呼ばれてゆらりと振り返ると、クルフィンそっくりの巻き毛のエルフと目を合わせる。  背筋を延ばして見つめ返すと、そのすみれ色の瞳が大きく見開かれた。 「ローはどこ?」  涙のかけらもない澄んだ目で、わたしは目の前のエルフに尋ねた。

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