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白薔薇は狼を捕まえる(3)
指が鳴るのと、身体の中に気が打ち込まれるのとどっちが早かったのか。
打ち込まれたそれに、一瞬気が遠くなる。
気がついたら地面で震えていた。
いや、震えているのはわたしじゃない。
震えているのはこの腕だ。
温かい腕から絶えず何かが流れてくる。
それはローの気の力に似ていた。
ちくちくとした刺激はなくなっていたが、蜂蜜のように甘くとろりとしている。
それはぐるりとわたしの中を巡ると触れている腕の中に戻って行くようだ。
「ロー……」
呟くとびくりと触れているからだが跳ね上がった。
指が頬に触れて、銀色の目が射抜くようにわたしを見る。狂ったような色があった。凄まじい量の絶望と、焦がすような期待が、その瞳を爛々と輝かせている。
少し痩せてこけた頬。額にかかるくせのある黒い髪にゆっくりと触れた。
「愛しているよ。わたしの狼」
鼻をすりすりとこすりつけた。ローが鋭く息を呑む。
「戻って来たんだ」
柔らかく唇を押し付けた。舌で唇に触れると、ローが咽ぶような息を吐き出した。
ぽたぽたと温かいものが頬に当たって、それがローの涙だと気がついた。
「っ──メリー」
「そうだよ。メリーだ」
震える手が胸に触れた。ローの気が器に触れる。
ローの側にある今、器は完全な形を取り戻していた。
使った魔力が一秒ごとに回復していく。
「これのかけらをあなたの身体の中で見つけた時、もしかしたらと思った。もし、器が元に戻れば……そう思って。
……でも、器が出来上がってもあなたは戻って来なかった。
あなたはどんどん衰弱して行って……離れることが不安で仕方がなかった。だから、俺が強ければ……戦争をすぐ終わらせることが出来ると……でも、俺は《契約 》ではあまり強くならなかったんです……
だから、せめて弱い心を捨てて、武器になろうと決めた。
ルーカス王は俺をうまく使える。そう思って」
ローは……何度絶望を味わったのだろう。わたしを少しでも生き永らえさせる為に、どれほど心を砕いたのか。
ローの頬に触れて、その顔をじっと見る。
銀色の目からは涙がぼろぼろと零れている。
「メリー……そこにいるのですか?」
ローが鼻をすする。
「いるとも」
「信じられない……だけど、この瞳はあなたのものだ。幼いあなたの瞳はいつも霞がかかったように曇っていて、けれど、今のあなたは澄んだ瞳をしている。俺の愛した色をしている。
賢いメリー……あなたが空から落ちて来て、俺の名を叫んだ時……心臓が止まるかと思った」
「一角獣が森の中に入って行ったので、ローは行ってしまったのだと思ったよ」
ローがまた大粒の涙を零した。
「俺にメリーの声が聞こえないはずがないでしょう。どんなにそれを望んでいたか……」
抱き締める腕に力が入って震える。
「どうしよう。抱き潰してしまいそうだ……」
離そうとする気持ちと、どうにも離れない腕の間でローが泣き声をあげる。
「大丈夫だよ。ロー。わたしは壊れたりしないし、苦しい時にはちゃんと言うから。さあ……抱き締めてくれ。愛しい狼」
ぎゅうと抱き締められた。心地よさに溜め息が出る。
力が強くなり、心地よさが痛みに変わって、それでも耐えようと息を詰めると、ローの耳がひくひくと動き、力が緩んだ。
ほら、ローはこんなに優しい。
その優しさに涙が零れた。
「メリー……泣かないでください」
「ローだって泣いているんだから、いいんだよ」
「愛しています。俺の白い薔薇」
「愛しているよ。わたしの黒い狼」
「メリーは……メリーはこのままなんですか?
ずっと……ずっと……」
「ローの側にいる限りは大丈夫じゃないかと思うんだけど。
わたしに気を流しているんだろう?」
はっとしたように、ローがわたしを見る。
「流しているつもりはないんですが……俺は……メリーと《契約 》を……してはいけないと言われていたのに……でも、俺は……」
ローの瞳が悲しみと怯えでいっぱいになる。
わたしが怒ると思っているのか。嫌いになるとでも?
「愛しているよ、ロー。そのことは知っている」
ローの顔を引き寄せると唇を重ねた。
ローが貪るようにキスを返して来る。
お互いの鼻をこすり合わせると話を続ける。
「わたしが帰って来れたのは《契約 》の力で器の核であるわたしが再構築されたからだ。その時はまだ器がなかったから、わたしは別な場所に飛ばされたんだけどね」
「ああ、なんてことだ。危ない目には遭いませんでしたか? 誰かに傷つけられたり……」
身体に傷がついているわけがないのに、手があちこちを探る。
心配に歪んだ顔でわたしの顔を覗き込んだ。
「大丈夫だよ。後で離れていた間のことは話し合おう。
ローの話も聞かせてくれるね?」
ローが躊躇いがちに頷く。
「どんな事を聞いても、わたしの愛が揺らぐことはないよ。
愛されていたことは知っている。愛していたことも。
信じている……だから、信じてほしい」
ローがまた腕に力を篭めてぎりぎりの力で抱き締める。
「ローの側にいれば……きっと大丈夫だ。わたしはそう信じる」
「俺は……信じるのが怖い」
ローは震えている。お互いに流れる気が恐れを伝えて来た。
「どこへでも……連れて行くよ。ロー……約束しよう。
海の果てでも、空の彼方でも、焼けつく火山の中でも、極寒の冬の平原でも……黄泉の国へでも」
「……それが、それだけが……俺の望むことだ……
メリーのいない暗い夜を、もう味わいたくない」
「ならば、一緒に行こう。ローはわたしのものだ。そして、わたしはローのものだ」
心が命じるままに、掠れた声で耳元で小さくその名を呼んだ。
ローがびくりと肩を震わせて、わたしの顔を見る。
「それは……」
「教えてくれただろう?」
震えるローの下唇を柔らかく噛む。舌先に塩辛い血の味を感じた。
呆然とするローの顔に誘うように微笑みかける。
「さあ、誓ってくれ。愛しい狼」
ぎくしゃくとローの唇が耳に触れて、掠れた声でわたしの真の名を呼んだ。ローの犬歯が唇を裂いて、震える舌がその場所を舐める。
深いキスを交わして、お互いの血が混じるのを感じた。
既に《契約 》を交わしているわたし達に、この行為は何の意味もない。
だが、わたしはこれがローに必要なことだと解っていた。
「さあ……このメリーも、ローのものだよ?
この身体に戻る時、ここにいたわたしがいろんなものを見せてくれた。
わたしは幼くなっていたんだろうね。幼いわたしには理解できなかった。ただ見せるだけで……でも、このわたしには理解できた」
混乱で感情を失ったローの頬を涙が零れ落ちる。
「わたしがしてはいけないと言った《契約 》を無理やり押し付けたと思っていたんだろう?契約の後に、わたしが衰弱したのはそのせいだと思っていたんだね?
それは違う。《契約 》による力のほとんどは、わたしの魔力にふられたんだ。だから、恐れる事はないよ、ロー。
このわたしは、幼いわたしと同じ心でローを愛している。
ローがどのメリーも同じように愛するように、わたしもどのローのことも同じように愛している。そして、どのメリーもローのものだ」
ローが抱いていた苦悩のままに涙を流した。
声を出して泣くローを抱き締めて、その背中を何度も撫でた。
「…………こいい……ですね」
呟いたローが、涙目でわたしを見た。
「?」
「カッコいいですね。あっと言う間に……俺の悩みを解決してくれた」
いつか聞いたその言葉。わたしは微笑んだ。
「ローの自慢の恋人でいたいからね」
「いつも……いつだって……自慢です」
ローがわたしの首元に顔を埋める。ふわりとしたその髪の感触。肌からたちのぼる香り。ああ、本当に……わたしは戻って来たのだ。
「メリドウェン」
父と兄、それからパトリックが静かに立っていた。
「ローの記憶を消すことは、絶対に許しません」
怒りを目に宿して父を睨みつけた。
「なんということだ……これは……」
「父上。わたしが戻った今、状況は激変するとお約束しましょう。
ローの強さが勝利に足りないと言うならば、わたしが勝利を導く砦となります。
ですから、どうぞローには手を出してくださいますな」
「あれは……お前が?」
父上の視線が空を覆う結界を指す。
「はい。《契約 》によって、力を一番得たのはわたしです。わたしとローが、この戦に勝利をもたらします」
ガルム兄が静かに微笑んで言った。
「ローが記憶を消してまで強くなろうとしたのは、衰弱したお前がローなしでは生きることが出来なかったからだ。
だから、ローは短期で戦を終わらせる為に記憶を捨て、冷徹な武器になろうとした。だが、こうしてお前が元に戻り、共にあればよいのであれば、記憶を捨てる理由はなくなったと思うが……どうだ?ロー」
「俺は……」
ローが言葉に詰まる。苦しげな瞳がわたしをじっと見る。
「もういい」
パトリックが静かに言った。
「これ以上……お前が犠牲になる必要はない。
最初から反対だった。メリドウェンの命に関わるのでなければ、気絶させてでも止めていた」
パトリックが近づいて来て、わたしたちの前に片膝をついた。地面に拳をついて頭を下げる。
「改めて……ヒトの国の使者としてお願い申し上げる。
妖精の国の第六王子メリドウェン様と、その伴侶にしてオオカミの国のロー・クロ・モリオウ殿。どうか我が国に助力をお与えください」
「わたしと、その伴侶が貴国に勝利をもたらしましょう」
パトリックが立ち上がるとにやりと笑う。
差し出された手を叩くと、腕を触れ合わせる。
「大きく出たな」
「それぐらいの勢いじゃないと、ローの苦労は報われないだろう?」
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