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白薔薇は狼を捕まえる(2)
「ネルは私の心です。一度は簡単に手放したネルを取り戻した私は、新しい目ですべてを見る事が出来るようになりました。
そして、その目で見た兄は……声を荒げることも、苛立つこともなく……まさしくエルフの手本のような人でした。
そして、エルフの理に正しく、炎の妖精を内に抱くあなたを愛して、その愛に殉じた。愚かだったかもしれない、迂闊であったかも。でも、兄は優秀な剣士でした。そして、結果的にはメリドウェン様を守りきった。それが兄の真実の姿だったと思うようになりました」
涙がフェアロスの頬を伝う。
「ロー様が私に心であるネルと失われた兄を返してくださいました。
そして、この心の中の兄の姿が正しいものであったと、メリドウェン様が教えてくださった」
深々とフェアロスが頭を下げる。
「私はもう誰を恨む事はありません。
兄を誇りとして生きることが出来ます。ありがとうございます」
ローの優しさはこうして花を咲かせるのか。
涙の滲んだ目でクルフィンに良く似た巻き毛のエルフを見る。
ばたばたと誰かが走ってくる音が聞こえてくる。
「もし、ローに何かがあった時には、わたしのことは捨て置いてくれ。
そして、ネル兄様を幸せにしてやって欲しい」
「それは出来ません。ロー様にもう約束をしているのです。
ロー様が行かれた後には、どうかメリドウェン様を頼むと。
ネルのことは、どうかお任せください」
「そうやって……わたしのことばかりか。わたしのオオカミは」
喉に塊がつかえた気がする。
わあわあと泣いてしまいたい。ああ、でも泣いちゃダメだ。細く長く息を吸い込んだ。
「そうですとも。ですから……どうかそのお姿をあの方に見せて差し上げてください」
内側から扉が開いて、細い腕が中に引き込む。
「なんとしてもそうしてみせる」
フェアロスが頷いた。
バタンと扉が閉じると、目の前に淡い色の緑の瞳があった。
「メリドウェン」
「母上」
はっきりと告げると、目の淵の赤くなった目が大きく開かれた。
「お久しゅうございます」
母の手がわたしの胸を探る。
物見である母の目がわたしの中を探っているのを感じた。
「器があるのですね」
「はい。
どうやったのかはわかりませんが、ローが作ってくれたようです。
そして、クルフィンがわたしを器に戻してくれました」
「クルフィン……あの子が……。
そして、ロー……どうして王はあの子に酷い事ができるのか。私には解らない。あの優しさが失われたローはただの獣になってしまう」
ぎらぎらと母が瞳を輝かせる。
「やり直せるとローは言ったけれど。
私はそうは思わない。きっと……悪い事が起きる。ローは強すぎて……弱すぎる」
母の感じている予感に身震いがする。
冷静な母が取り乱す姿に不安が湧きあがった。
《契約 》は呪いだ。
もし、今回の件が呪いの作用だとしたら、ローがその記憶を手放し、獣になる。この事態は何を引き起こすのだろう。
記憶を失い、空になったローは操りやすくなるだろう。
善にも……そして悪にも。
もしローを奪われたなら。正しい心を持たないローは何をするだろう。
背筋が寒くなる。
「それを止める為にわたしは戻って来たのだと思います。
どうか力を貸してください」
母の背中に手を回し、ぎゅっと抱き締める。細い体がわたしに寄り添う。
「出来る事ならなんでも。ローを助けてあげて」
「物見の目を通じてローと話すことは出来ますか?」
「出来るけれど……あなたが戻ったのだと伝えても、きっと信じては貰えないわ。昨日王と酷い喧嘩をしたの。
私はローは行くべきではないと思って……
でも、アルウィンはローの思う通りにするべきだと……」
母を熱愛し、なんでも言うことを叶えていた父が母の言うことに逆らうとは……事態の深刻さに手足が冷える。
「ローは……《契約 》で自分が今よりもっと強くなると思っていたらしいの。
でも、それほど強くはならなかった。気の力が増えて、それを操るのがうまくなったの。そのせいであなたはとても元気になった。…………その後、元に戻ってしまったけれど。
強くなれなかったのは自分の心の弱さが引き起こしたことだと、気に病んでいたわ」
ローの心が弱いものか。胸の中で器が揺れる。
ローの元に行かなければならない。
ローの力により復活したわたしがローの元に行くことこそが、きっとこの先起こる最悪の事態を食い止めることが出来る。
でも、どうすればいい。どうやってローの所へ。
転移の魔法が使えたら。
どうにかしてわたしの声だけでも届けることは出来ないのか。
遠距離でローを縛り上げて時間を稼ぐことは出来ないか。
いっそ、その場にいる者、全員の意識を奪うことは?
そのどれもが、今のわたしには不可能だ。
ああ、でも諦めることなど出来ない。
その時、ぴしっと胸で音がした気がした。
はっとして、母上がわたしから離れる。
「器が!」
ゆっくりと自分の胸に触れた。
そこで輝くわたしの器。それが……揺らいでいる。
成程、時間がないとはそういうことか。
「ローの側にいないと、これは、失われるのか」
そう呟くと、母上の目から涙が零れる。
「メリドウェン!」
「泣かないでください。母上……わたしは負けるわけには行かない。
たとえこの器が失われるのだとしても、こうして戻ってきたからには、なんとしてもローに会って……馬鹿な真似を止めさせなければ」
今までの情報をばらばらと捲って行く。
《契約 》をしたにも関わらず、ローはそれほど強くならなかった。
わたしの再構築に力が使われたせいなのだろうか。
いや、それはおかしい。ならば器ごと再生されたのではないか。
半端な再生のせいでわたしは黄泉の入り口に飛ばされた。
わたしの延命の為に力が割り振られたのならば、その後のわたしの衰弱の意味はなんだ。
何かに気付いていないような気がする。
なんだ……この違和感は。
四肢に満ちる魔力。満たされたこの器があれば、どんな魔法でも使えそうなのに……使う魔法を持たないのが歯がゆい。
はっとする。
満たされた?満たされている?
魔力がこの身体に満ちている?
この体に戻った時……わたしの器は空だった。
それはそうだ。器には核となるわたしがいなかった。
どんなに器を持とうとも、核となるものがなければ魔力は湧くことが無い。そして核は魔力を生み出し、魔法とそれに連なる記憶をそこに溜め込む。
器を身の内に持っていても、核が存在しない為に魔法使いになれなかったものは多数存在する。
魔法使いになるには何かが必要なのだ。
その条件は誰にもわからない。
わたしがこの身体に戻って、どれだけ時が経ったというのだ。フェアロスが母の元へ案内するまでどれだけ?ほんの短い時間なのに、わたしの器は満たされている。
それは、何を意味している?
湧きあがる魔力のまま、魔法を唱えた。
どこまで範囲に出来るだろう。
やれるだろうか?
ぐるぐると足元に広がった魔方陣がどんどん大きくなっていく。
城を飲み込んだ魔法陣は城を囲む森を越え山の麓まで広がった。
一斉に光の柱があがる。その柱は頭を垂れて交差し、半円形のドームになった。
ぱちんと指を鳴らすとドームが光を放った。
遠くから醜い悲鳴が湧きあがった。鳴り響く苦痛の声に、腕の中の母が声をあげる。近くにヤミの者がいたのか。
「結界を張りました。ここからはわたしの許しのあった者しか出る事が出来ない」
理解した。
強くなったのはわたしだ。
魔力を司るわたしが強くなった。
《契約》はわたしとローの二人を強くする。
元々破格の戦闘力と気の力を持ったローには伸び代がなかったのだろう。
そして、《契約》はわたしを強くした。
一番不必要である部分にその力を振ったのだ。
《契約 》は呪いだ。
それを使うものを狡猾に操り、悲劇を導く。
だが、わたしはそれを越えてみせる。
きっと答えはわたしの中にある。
頭の中にある魔術の本を開く。外からの知識と内側にある魔力から生じる呪文。魔法使いは先天的魔術と後天的魔術の二種類を扱う。
見えていなかったページが開かれる。
使える呪文を探してそのページを括っていく。
転移の呪文が光を放っていた。
魔法陣なしでも飛べるその呪文。
見た事のある、行った事のある場所ならば、飛ぶことが出来る。
だがこれでは足りない。
わたしは記憶の森に行った事がないからだ。
近くにある湖ならば飛べるが、そこから徒歩では間に合わない。
何か、何かないか。
見た事のある場所。記憶の森を見る事が出来れば。
ああ、あのパトリックの部屋を覗く時に使った鏡をローが持っていてくれれば……。ローの瞳に映るものを見る事が出来ればいいのに。
鏡、ローの瞳……
「母上は……ローを視たことがありますか?」
母は物見だ。わたしに何かあったなら、その様子を直接視たがるに違いない。そして、母上は一度見た目を使うことが出来る。
「あります」
小さな声で囁く母に、はあと溜め息をついた。
あれをされた時のローの苦痛は酷いものだったろう。
だが、今はその不幸に感謝しなければいけない。
「ローの目を使うことは出来ますね?」
「ええ」
「時間がない……わたしを信じていただけますか?」
母の淡い緑色の目を見つめる。
その震える手を握って指先にキスをした。
「ローを救えると思っているのですか?」
わたしは微笑んで頷いた。
「ローが獣になって救われたとして、この命に何の意味があるでしょう。優しい狼はわたしのもの。残忍な獣になるのなら、わたしのもののまま死ぬほうが良いのです。 母上が予見された通り、心を失ったわたしの狼は大きな災厄を引き起こすでしょう。
《契約 》は呪いです。絶大な効果の対価として使用者に悲しみをもたらす。ローは理解していながら、わたしと離れる寂しさに耐えられず、使ってしまった。
ですが、わたしは《契約 》に負けるつもりはないのです。真実の愛というものがこの世にあるのなら、わたしはそれを使って必ずこの危機を乗り越えてみせる」
「愛しい子……メリドウェン。あなたを助けると誓います」
母上が頷いた。その目には決意があった。
「母上の目と、この部屋にある鏡を繋ぎます。母上にはローの目を見ていただきたい。わたしはその場所に飛びます」
「……メリー」
「危険は承知の上です。覚えたての魔法ですし、器も安定していない。それでも……わたしはやらなければならない。
──ローを愛しているんです。
ローは自分のしたことが当たり前のことだと考えて、見返りを求めることなど考えもしないのでしょう」
母の手を引いて大きな鏡の前に立つ。そして緑色の瞳に微笑んだ。
「だからこそ、わたしはローと歩む道を諦めたくない。
この呪いを打ち払い……ローと一緒に幸せになりたい。
物語の最後には幸せがあるのだと、ローに教えてあげたいのです」
「強くなったのですね……メリドウェン」
「さあ……どうでしょう。
手は震えているし、足もガクガクしている。今にもわあわあ泣きそうですし。
それでも……この胸はやっとローに逢えるのだと高鳴っています」
微かに震える手で、胸に触れた。揺らいでいても、温かく感じる器はローの匂いがした。
どんな想いでこれを作ったのか。どれだけの努力で作ったのか。
これが奇跡なのだと言うのなら、ローのしたことは並大抵のことではなかったのだろう。
その奥で心臓が速い鼓動を刻む。
鼓動はローに逢いたいと囁いていた。
そうだ、それがあればいい。
ローに逢いたいと強く願う。
今出来るのはそれだけだ。
頭の中で複雑だった鏡同士をつなぐ術を整理して、目の前の鏡に術を施す。ぱちんと指を鳴らすと姿身が光った。
「さあ、母上。ローを視てください」
震える息を吐いて、母上が集中し始めた。
「妖精の森の中は霊的なもので満ちていて、ローの姿がはっきりと視えない……待って……アルウィンがいる……息子達も……
ローは?……ローはどこ?……記憶の森の一角獣がいる……
ああ、乗ってしまうわ!」
「一瞬でいい。母上。お願いします」
軋るような声で懇願した。
瞑っていた母上の目がかっと開いた。
「……入ったわ」
矢継ぎ早に呪文を唱え、指を鳴らす。
姿見の中の部屋の画が歪んで、白い馬のたてがみと伸びる首、頭の角が映った。
場所だ。場所を見てくれ。
転移の呪文を唱えながら心の中でローに囁きかける。
「ロー、周りを見てくれ!」
吸われていく魔力にぐずりと器が歪んだ。こちらもあまり持たないのか。
画は変わらない。このまま飛べば、わたしは一角獣の体の中に転移されるだろう。
「ロー!」
泣き声で叫ぶ。
ふわっとたてがみが上を向いた。周りの地面が遠くなったように見える。一角獣が後ろ脚で立ったのだ。
見えたのは空だった。
樹に囲まれた青い空。
そうだ、わたしはあそこから落ちて来た。
迷わずに指を鳴らす。
体が分解され、元に戻って行く感触。宙に投げ出され浮遊する。
ぐるりと身体を回すと、森が見えた。
相当高い位置に転移したらしい。
どうか……どうか……
「ロー!」
この声が届きますように。
隕石のように地面に落ちながら、防御の呪文を唱えようとするが、器が抗議するように揺れ動いた。
転移の魔法が最後の呪文らしい。
「ロー!」
愛しい狼。どこにいるんだ。一目だけでも見たい。
地面に目を凝らすと、白い獣の姿があった。獣は森へ走り込んでいく。
間に合わなかったのか。絶望に心が引きちぎれそうだ。
わたしが今激突して死ねば、ローは死んでしまう。
その方がいいのだろうか。もし、ローを奪われ、闇に落ちるならば。
涙が溢れて宙に舞う。
なんて馬鹿なんだろう。答えなんか決まっているのに。
愛しい愛しいわたしの狼。誰にも渡せない、渡したくない。
心が黒く染まったローはきっと、この世の悲劇になるだろう。
そして、多分、正気を取り戻したわたしがここまでやってきて、そして失われたことが、その切欠となるのだ。
それでも……
どうしても。わたしはローに生きていて欲しい。
口から防御の呪文が漏れる。
器の端が欠けてはがれた。
きらりと光った断面からローの気が立ち登る。
愛しいロー。
また涙が零れた。吸われて行く魔力に器が悲鳴をあげて、ぐずぐずと揺れる。
震える指を鳴らそうとする。
「愛している。ロー」
囁く声が宙に消えた。
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