86 / 98

白薔薇は狼を捕まえる(5)

 ふうと息を吐くと、必要と思われる呪文の種類を思い浮かべる。 「まず、ここに張った結界を強化して、条件を付け加えよう。  国土が穢れたことも原因かもしれないけど、長い年月の中で、妖精の城自体の結界の強度が弱まっているんじゃないかな。  ここの結界は創世の力で初代のエルフ王が張ったものだ。  緩んでいてもおかしくはないよね」  重なる2つの輪を思い浮かべた。古い結界とわたしの作った新しい結界。新しい結界を古い結界の中に潜り込ませれば、古い結界は力を取り戻し、新しい力を得るかもしれない。  わたしの張った結界は内側のものを外に出さない呪文だった。  それをひっくり返し、悪意のあるものを中に入れないという呪文に書き換えをして、古い結界に潜り込ませる。  身体の欲求に負けそうな精神を安定させる。 「ローの力も吸うかもしれないからね」  頷き、緊張するローに微笑み掛ける。 「わたしはだいぶ強くなったようだから、そんなに心配しなくても大丈夫だよ?」  それでも離そうとしないローの腕に愛しさを感じる。  肩にもたれたままで、呪文を唱えては指を鳴らす。  術が発動しているのだろう。城内が騒がしくなっている。  新しい呪文の中に入っていた魔力半減の呪文のお陰で、魔力の消費は驚くほど少ない。 「さて、兄上……ちょっと痛むかもしれませんよ?」  樹木を成長させる呪文を妖精の樹に唱える。  それから、聖属性強化の魔法を泉に流しこんだ。  妖精の樹が活力を漲らせてみしみしと音を鳴らす。泉が青い光を湛えはじめた。 「────っ……った、た、ちょ、これ!」  水の中でセル兄が暴れて立ち上がろうとする。 「ロー。兄上を水につけてくれ」 「いや、ちょっと!痛い!いたい!凄くいたい!」 「光は闇を焼きますからね。しっかり焼かれてください」  ローが暴れるセル兄を見て、気を当てた。  あ、麻痺するやつね。崩れ落ちるセル兄をローが水の中に横たえる。 「セル兄は水の中でも息が出来るから、頭まで浸けちゃって」  水の中のセル兄を見ると、目で抗議している。  だが、白眼の中にまで入り込んでいた黒が水に溶け出して、薄くなって来ている。 「麻痺ってどれぐらい効いてるかな」 「軽く当てていますし、全身ですから。一刻くらいだと思います」 「それぐらいあればだいぶ浄化されて痛みも少なくなるんじゃないかな」  多分だけど。  にこっと笑って兄上に手を振る。  水の中の兄上がぼこぼこと息を吐きながら、ひどいと口パクで訴えた。 「狂いそうな毎日から開放されるのですから、感謝してください。  ナル兄も喜びますよ?」  真顔になったセル兄が、こぽこぽと息を吐いた。  ありがとうと口を開く。  ばたばたと数人のエルフが扉を開けて入って来た。わたしとローを見ると、驚きの表情を浮かべる。 「セル兄はもうしばらく水につけておいてください。  精霊の樹も、結界も、わたしの施したものです。  どれぐらい続くかわかりませんが……多分、うまく馴染むと思います。これによって妖精の城は強化されて、古代からの聖域を取り戻すのではないかな」  ローが差し出した手を握ると、その腕に身を委ねる。  魔力を放出したことで抑えられたが、まだ官能の火種が身体の中で燻っている。その表情を見られたくなかったのだろう、ローがわたしの顔をそっと自分の首筋に引き寄せた。  ローに触れている部分から伝わる熱に煽られて吐息が漏れる。きっとこの身体はこれに慣れているのだろう、どんどん身体が熱くなる。  それにつれて、ローの足が速くなった。  何人かのエルフとすれ違ったが、誰もわたしたちを見咎めようとしなかった。ローが気配を絶っているのだと気づいたのは、こちらにまっすぐに近づいて来るエルフをローがするりとかわしたからだ。  わたしの疑問に気づいたのだろう。ローが誰もいない場所で呟く。 「あなたのその姿を見ていいのは、俺だけです」  ローがわたしの唇を塞ぐ。  入りこみ中を探る舌にどうしても震えてしまう身体を、ローが愛しげにしっかりと抱き直した。  塔の近くの衛兵に、ローが指示を出す。 「フェアロスが一緒でなければ、誰も通さないでください」  目の前にいきなり現れたローに衛兵は驚いたようだが、腕の中のわたしを見ると頷いた。  ローはすたすたと塔に歩いて行く。  中は綺麗に片付いていた。豪華な城の中とは違っているが、ローが学園で暮らしていた家のような心地よさがあった。暖炉には真新しい薪が積んである。  ローが整えられたベッドの上掛けを剥ぐとわたしを横たえる。 「ここは寒すぎる」  つぶやくと手馴れた様子で薪に火をつけていく。  差し込んだ着火用の葉が燃え上がると、わたしの横に滑り込んで来た。  ローの指が全身をなぞって行く。  既に煽られている身体は敏感で、触れられる度に声が漏れる。 「ん……ああっ……ロー……」  開かれた胸にローが甘く歯を立てる。胸の感じる部分に熱い舌が触れると、どうしようもなく身体が震えた。執拗に舐められて、ローの頭を抱き込んだ。  ローの元に戻って、その腕に抱かれている。夢中になっていいはずなのに……何かが引っかかる。  ぱちんと暖炉の火がはじけて、薪が崩れる音がする。  ローの耳がぴくんと動いて暖炉の方を見た。  戻ってきた視線……その銀色の瞳の中にある苦痛に息を呑んだ。  重なる唇と舌を受け止めながら、何が起きているのかわからなくなる。  ローは苦しんでいる。  わたしが側に戻ってなお、何かがローを苦しませている。  ローが何かに痛みを感じ、それをわたしに溺れることで忘れようとしているのならそれでもいい。  苦痛を感じるほど、この身体はローを求めている。  だが……何だろう……この不安は。  だめだ。このままでは……。  力を振り絞って腕をつっぱった。離れていく熱に泣き声が出そうになる。 「メリー?」  脅えるローの声。混乱した銀色の瞳を覗き込む。  やはりそこには恐怖がある。 「ダメだ……ロー……嫌だ」  ローの顔が苦痛に歪む。  起こした身体のままぺたりと座り込むと、ローが両手で顔を覆った。  官能に乱された身体は容易には動いてくれない。  もどかしい思いで這うように身体を動かしてローの膝のから顔を覗きこんだ。 「これが……簡単なことだと思わないでくれ。ロー。  衝動に身を任せて、ローに抱かれることのほうが……わたしには余程簡単なことだ。だが、わたしの中の何かがそれを止めているんだ。  それでは、ローの苦痛や不安は去らないのだと」  ローの顔から両手を引き剥がすと、震え、怯えるローが姿をあらわす。  怯え切った瞳がすがるようにわたしを見た。 「話してくれ……ローは何が怖いんだい?」  ローの口が開いては閉じる、喉が何度も動いて、何かを飲みこむ。  おぼつかない、掠れた声が言葉をひねりだした。 「あなたを愛している……。  俺は……幼くなったあなたを犯しながら、ずっとあなたを求めていた。賢いメリー。俺が愛したのはあなただ。 …………気が狂うほど嬉しい。でも──それは幼いあなたを裏切ることのような気がして」  ふうと息を吐く。幼いわたし。その存在をローは溺愛していたに違いない。支えでもあったのだろう。ローはその存在が今のわたしと違うものだと思っている。  そして、幼くても産まれて来た時から狡猾なわたしは、ローに溺愛されるよう仕向けていたに違いない。その狡猾さにローは気づいていないのだ。 「ローは器を失ったわたしと、このわたしが別の人間だと思っているのかな」 「一緒だ!」  ローが叫んでわたしを見る。  ぶるぶると震える手がわたしの手を握り締めた。  怯えた目がわたしの顔を探るように見る。 「……そうでなければ……俺は今まで……一体何を……」 「そうだとも。あれは器が出来る前のわたし。幼い頃のわたしだ。  ローはわたしを犯したというけれど、わたしはそうは思わない。  ローがわたしが嫌がることが出来るとは思えないからね。  幼いわたしは泣いたかい?嫌だと言って逃げた?」 「あなたは従順だった。俺を求めて……素直で……愛らしかった」  素直で愛らしいわたし。だが、ローは…… 「どうだろう。わたしは思うんだが……ローは、それでは……物足りなかったんじゃないかな?」  ローの口が開いて、それから閉じた。苦痛に満ちた声が唇から漏れる。  ローを引き寄せると、力の入らぬ身体が崩れ落ちた。  ぶるぶると震える身体を足に乗せて、その身体をゆっくりとさすってやった。 「この身体に戻った時、幼いわたしはいろんなものを見せてくれた。  器のないわたしは幼くて、記憶が曖昧なんだ。  理解が出来ていないから、見たものの映像や、その時どう感じたかの感情だけしか伝えることが出来なかったみたいだ。  それでも、わたしは愛されていたとわかるし、ローのこともとても愛していたと思う」 「愛していた。とても……でも、その反対で……あなたにずっと逢いたかった。あのメリーの中にあなたの面影を探して……ずっと裏切っていた」 「裏切りではないよ。どちらもわたしであることには変わりないのだからね。それに……どうだろう。その幼いメリーは、それほど、このわたしと、かけ離れた存在だったのかな……」  足を通じてローの心臓がどきどきと動いているのを感じる。  速い鼓動を刻むそれがローの心の乱れを教えてくれた。 「よく思い出してほしいんだ。幼いわたしはローを縛ってはいなかったかい?ローは従順だと言っていたけれど、本当にそうだった?」 「俺にとても懐いていた。いつもにこにこして……俺の作ったものしか食べなかった。いつも一緒にいたがって……」 「他の人間が近寄るのを嫌った?」  記憶の底の幼い自分の映像をさらって囁く。  手の下の身体が慄く。 「……あなたは俺が他の人と話すとぴいと啼いて……威嚇した」 「そうだね。わたしはローの作ったものしか食べず、他の者がローに近寄ると威嚇した。ローの前では愛らしく振舞ったのだろうね。言うこともよく聞くいい子だったのだろう?」  ローが戸惑うように身じろぎをする。  ふうとため息をついた。 「この身体に残っていたものもやはりわたしだよ。  全身全霊でローを愛し、愛させる為に手段を選ばなかった。  他の者の作ったものを食べず、存在を受け入れないことで、ローに依存し、ローなしでは生きられないのだと訴えて束縛したんだよ。本能というものは恐ろしいもので、本質というのは変えられないものだ。  そしてね、ロー……。思うんだけど、ローはそれをどこかで喜んでいたんじゃないかい?」 「────そうです。俺はそう望んでいた。あなたが俺にしかなつかず、俺を必要とすることで、俺は、あなたを助けることが出来なかった自分の罪が償われる気がして……」 「望んでいたし、望まれていた。  わたしは幼くても狡猾で、自分が望むように振舞うことがローを喜ばせると知っていたんだ。……そして思うがままにローを縛った」

ともだちにシェアしよう!