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11.帰郷
『このクソガキども!!』
『あー! もう耐えられない!!』
『お母さん!!』
『透、響! 小母さん!!?』
記憶の断片が夢の中でフラッシュバックする。最後の少年の声の後、それらの断片が赤く染まっていく。血。血、血、血の海だ。
そうだ俺は、幼いころに血の海を見たのだ。
「はっ」
アパートで目が覚める。昨日映研の撮影合宿を終えてクルーズを降り皆と解散した俺は、あの後バスに乗って大学近くの自身のアパートに帰宅。船酔いと合宿疲れもあって夕刻ごろ、着替えもせずにそのままベッドに深く沈みこんだのだった。
「……血、の海」
寝返って仰向けに夢の断片を思い、呟く。赤い赤い、血の海。幼い俺は確かにそれを見て、でもずっとその記憶を封印していた、らしい。やっぱり嫌な思い出だった。俺が忘れているのは悪い思い出に違いない。本当だったらこのままで、忘れていたほうが良かったかも……と思うところに響ちゃんの台詞を思い出す。『思い出して欲しいだなんて、あなたに言える立場じゃないけれど……』。俺が守るべき響ちゃんが、俺に『思い出してほし』がっているのだ。船酔いの名残か夢の名残か、少しの吐き気がしたからベッドからノロノロ起き上がって顔を洗いに洗面所へ向かう。今日の映研の活動は休みで、だから俺は朝一番にでも横浜にある俺の実家、じいちゃんばあちゃんの家を訪ねると決めている。
『俺はお前を、どうしても許せない』
情熱的と言えるくらいのキスをしてきたくせに俺を『許せない』と言う宇都木もきっと、俺の記憶の中の登場人物なのだろう。俺は奴と、昔にも会っている。宇都木もそれを否定しなかった。
(だからきっと響ちゃんも、)
彼女も俺の、忘れられた記憶の中に確かに存在するのだと、そう思う。響ちゃんをこんなに俺が『守りたい』理由。宇都木が俺を『許せない』理由。それを探しに行くためにはまず、身形を綺麗にしなければならない。じいちゃんばあちゃんは結構な金持ちで上品な人たちだから、俺が独り暮らしで堕落したと思われてはいけないから。顔だけ洗うつもりだったのを切り替えてシャワーを浴びて、昨日から着っぱなしだった夏服を着替える。合宿の荷物はそのままだったけれどそこは洗濯なども後回しで、鏡の前でパーマのかかった髪を整えて、腕時計を手首にはめて、スマホと財布を持った俺はアパートを出た。
***
品川から横浜まではJRで二十分程度。『駅まで』『駅から』の徒歩を入れても実家につくのに一時間程度だから、里帰りと言っても大したものではない。それでも大学生は夏休みとはいえ、サラリーマンたちのラッシュの時間と被ってしまったから真夏の満員電車に身体が蒸されてしまった。駅を出て横浜でも一等地にあるじいちゃんばあちゃんの家に着くまでにも俺は強い日差しを浴びて、汗をかいた状態で実家のインターホンを鳴らした。
ピンポーン。
一度鳴らしたが返事がない。こんな朝早くからじいちゃんもばあちゃんも留守ってことは考えにくかったから、きっと庭弄りでもしているのだろうと俺は門の向こうに声をかける。
「ばあちゃん? ただいまー」
庭花の手入れはいつも、ばあちゃんの仕事だ。だから彼女を呼んだのだ。少ししたら姿勢の良い、まだ六十代の女性……俺のばあちゃんが門を開けて笑顔を見せてくれた。
「透じゃないの。こんなに朝早くにどうしたの? おかえりなさい」
「ただいま、また庭いじりしてたの?」
「ええ。ホオズキが赤く色づいて綺麗だから、ジャムにでもしようかしらと思って」
「ホオズキでジャム? あんまり想像がつかないけど」
「おばあちゃんだって本で調べて、ちゃんと食用のを植えているから大丈夫よ」
他愛のない会話をしながら、ばあちゃんと一緒に玄関へと入っていく。広いリビングに通されてソファーに座ると俺はキョロキョロして、もう一人の住人の姿が見えないことに首を傾げた。尋ねる前に、キッチンで冷たいお茶を用意しているばあちゃんの声。
「おじいちゃんは、またゴルフだって朝から」
「はー。この暑い中、まだまだ元気だよな」
「あら、私たちを老人扱いしないでくれる?」
「じいちゃんだって定年して、もう何年も経つだろ。立派なご老人ってやつだよ」
「失礼な子ね。私だってこんなにピンピンして、毎日の散歩だって欠かさないのに」
ばあちゃんはそう言って上品に笑いながら俺の手前、低いガラステーブルにお茶を出してくれるから『ありがと』と礼を言う。冷えた緑茶を口に含んで、さてどう切り出したものかと考えていると、俺の気配に気が付いたばあちゃんが向かいのソファーに座って『それで』とあちらから話を切り出してくれる。
「透は夏休みもサークルで忙しいって話だったじゃない? 急に帰ってきてどうしたの」
「……いや、それが」
どういえばいいのだろう。俺を大事に守って育ててくれたばあちゃん。子供のころの記憶がないと、言ったことはあるが『そういうものよ』と返されたこともある。実際俺も『そういうものだ』と思っていた、けれど……。
「響ちゃん」
「えっ」
「響ちゃんっていう女の子が、映研の主演女優に抜擢されてさ」
完全にだ。完全にばあちゃんはその名前に動揺して目を見開いた。俺は続ける。
「その響ちゃんの金魚のフンで、宇都木っていう同級生も主演俳優として夏合宿に参加して」
「そ、そうなの……」
弱弱しい笑顔になったばあちゃんが、彼女の分のお茶を一口。俺は遂に核心に迫ろうと、
「俺、子供のころの記憶が無いって言ったよね」
「……」
「宇都木が俺のこと、俺の昔のことを覚えてるみたいなんだ。推測だけど、おそらく響ちゃんも」
いよいよばあちゃんは青くなって『あぁ』と、眩暈を催している。それでも俺は響ちゃんのために、おまけだけれど宇都木のためにも、それを思い出す必要がある。
「なあばあちゃん。俺、子供のころに何かあったんだろ。思い出そうとすると頭痛がするくらいの、悪夢みたいな何かが」
「透……どうしてそんな、今更になって」
「本当は、自力で思い出すのが筋なのかもしれないけど……弱い俺にはそれが出来ないんだよ。だからばあちゃん、どうかヒントだけでも良い。俺に教えてくれないかな」
「……透は、弱くなんかないわ。だってあなたはいつだって、ずっと昔から、」
「ばあちゃん?」
「はあ、ううん。確かに私から言うことでもないかもしれない。そうね……あなたが『思い出したい』なら、それに導くのが私たち夫婦の役目なのかも」
ふらふらとばあちゃんが立ち上がってサイドボードからメモ用紙とボールペンを取ってくる。テーブル前に戻ってきて何かメモを書きながら、ばあちゃんが眉を上げて言う。
「あなたが東京で独り暮らしをするって決めた時から、いつかこういう日が来るんじゃないかとは思っていたわ」
床に膝をついて、ばあちゃんは俺を見上げて俺にメモを握らせる。同時に両手を握って祈るように、目をつむっていいや、言い聞かせるように。
「ここを訪ねなさい。ねえ、あなたが何を思い出しても、私たちはずっとあなたの『親』だからね」
「……うん」
俺の『親』であるばあちゃんの言葉だ。けれど、じいちゃんばあちゃんがいるということは、彼らの子供がいるわけで。その子供が俺の『実の両親』にあたるのだ。俺には『実の両親』の記憶もない。それを思うとまた頭痛がして、それでも俺は立ち上がってばあちゃんのメモが記した住所へ、行かなければならない。
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