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第三章③
昨夜の鶫の反応は芳しくなかったが、ともかく風間は出かける準備をする。
クローゼットを開いて思ったが、私服らしい私服を持っていない。仕事着はダークスーツと決めているし、それ以外も仕事に使えそうなものばかりだ。仕事がなければ家に籠りきりなので、仕方ないといえば仕方ない。
結局、ポロシャツにスラックスという当たり障りのない服装に落ち着きそうだった。
「……出かけんの?」
鶫が、廊下からこそっと顔を覗かせた。
「まぁな。夕飯になりそうなもんでも買ってくるよ」
「ふーん」
鶫は、さっとドアの向こうに姿を隠した。
まるで興味なんてありません、という態度だったのに、風間がいざ出かけようとすると、鶫もちょこちょこと玄関までついてきて、サンダルを突っかけた。
「結局行くのかよ」
「わりーかよ」
「しかもそのカッコでか」
「これが一番楽なんだよ」
部屋着兼パジャマの、だるだるシャツにゆるゆるパンツ。そして裸足にサンダル。あまりにもだらしなくて、風間は笑った。
「んだよ。だめ?」
「いいよ、それで」
*
神社の境内に立つ小さな櫓。笛と太鼓の軽快な祭り囃子。参道を埋め尽くす露店の数々。あちこちに飾り付けられた提灯が、夜風に揺れて赤い影を落とす。暮れなずむ夜空を照らしている。
「ま、最初はビールかな」
「おっさんはそればっかだな」
「暑い日に飲むビールは最高なんだよ」
つまみは唐揚げとフライドポテトを買った。鶫も横から手を伸ばす。
「うまいか?」
「別に。普通」
「だろうな。こんなもん、どこで食っても大体同じ味だ」
「店のポテトの方が……」
「お前それ、屋台のおっちゃんの前で絶対言うなよ」
「なぁ、俺もそれ飲みてぇ」
「前に二度と飲まねぇって言ってなかったか」
「今日はいけるかもしんねぇじゃん。暑い日には最高なんだろ」
透明のプラカップに注がれた黄金色を、鶫は口に含む。喉を鳴らして飲み込んで、うげぇ、と顔を顰めた。
「やっぱお口に合わないか」
「クソにげぇし、なんか草みてぇな味する」
「子供舌だな」
「おっさんはよくこんなもんゴクゴク飲めんな。舌がイカレてんじゃねぇの」
「マジで口の減らねぇガキだな」
口直しにと、残りの唐揚げとポテトは全て鶫の胃袋に入った。
べっ甲飴の屋台が目に入った。スタンダードな金色だけでなく、赤や青や緑に着色された、人気のキャラクターをデザインしたものも多く陳列されていた。鶫はそれを完全にスルーして、二軒隣のフランクフルトの屋台で足を止めた。
「おっさん! 次これな!」
「……お前、財布はどうした? 金は渡してるだろ」
「んなもん置いてきたに決まってんだろ。おっさんが誘ったんだから、今日は全部おっさん持ちな」
「調子のいいやつだな。全然乗り気じゃなかったくせに」
フランクフルトの次は、きゅうりの一本漬け。冷やしパインに、チョコバナナ。イカ焼き、牛串、焼きとうもろこし。昨日も食べたが、たこ焼きに焼きそば、お好み焼き。育ち盛りの食欲は旺盛、胃袋は底なしだ。
「でも、こーいうのはうちで食う方がうめぇな。おっさんが作るやつ」
「そらどーも」
「俺が褒めてんだぞ? もっと喜べよ」
「はいはい、嬉しい嬉しい。ったく、祭りごときでこんなに金遣うとは思わなかったぜ。お前、まだ何か食う気か?」
鶫は、ソースのついた唇をぺろりと舐めた。見つめる視線の先には、射的の屋台が賑わっている。
「一勝負するか」
風間が言うと、鶫は生意気な笑みを浮かべる。
「いいぜ? どーせ俺が勝つけどな」
「銃の扱いならオレのが上だろ」
「負けたらあんたのお願い何でも一つ聞いてやるよ。まぁ負けねぇけどな」
一回五発で五百円だ。二人分支払って、おもちゃの銃にコルクの弾を込める。
「軽っ!? 軽すぎて逆に持ちにくいだろ」
「子供が遊ぶんだからこんなもんだろ」
「狙いは何にする? なるべく高そうなのがいいな」
景品台に並ぶのは、主に駄菓子だ。その辺の店で買えるものばかり。台の上の方には、高価そうな目玉景品が目立つようにどんと置かれている。アニメグッズや、ぬいぐるみ、ゲーム機などだ。最新機種まで取り揃えてあるらしい。
「まぁ、あれだろ」
「ゲームだろ。俺もそう思ってたぜ」
「分かってたなら聞くなよ」
「先当てた方が勝ちな。先行は俺」
「は? おいずるいぞ」
鶫は軽く狙いを定め、引き金を引いた。ぽん、と軽い音がして、弾丸が飛び出した。コルクの弾は狙い通り、大当たりと書かれた小さな箱に命中した。
「はい終了~! 俺の勝ち~」
「おま、今のはズルだろ」
「おじさ~ん、景品持ってきて~」
風間の咎めるのも聞かず、鶫は屋台の親父を呼ぶ。
しかし店主の話によれば、箱に弾を当てただけでは景品ゲットとはならないらしい。箱を倒して初めて当たり認定になるようだった。
「ちっ、そういう特殊ルールかよ」
「はは、残念だったな」
「実弾なら穴空いてるっつーのに」
「勝負はもらったな」
風間は得意になって銃を構えた。コルクの弾は狙い通り飛び、箱の右上の端を叩いた。絶対に倒れる、と思ったのに、箱は僅かに揺れ動いただけだった。
「はぁ!? マジかよ!」
風間が叫ぶと、鶫はけらけらと笑った。
「は~ん、だっせぇ。あんなにキメキメだったのに」
「るせぇ。あそこに当てりゃあ倒れるだろ普通」
「まぁ、確かに。こりゃなかなか難しいかもな」
次、鶫はあえて下の方を撃った。しかし箱は倒れない。風間は左上の端を狙う。しかしやはり倒れない。五発全部使っても、弾を追加しても、箱は全然倒れなかった。
「……ちっ」
鶫はいよいよ腹が立ってきたようだった。店主を捉まえて文句を言う。
「おい、こりゃ一体どういうことだ? なんで箱が倒れねぇ! こんなに当ててんのにおかしいだろうが」
「へぇ、そう言われましてもねぇ。ほら、あちらのお子さんなんか、あんなにたくさんお菓子を取っていかれましたしね。大当たりは当たりにくいから大当たりなんであって」
確かに、店主の言い分にも一理ある。一理あるが……大当たりは絶対当たらないように細工がしてあるのだろう、と風間は思った。確証はないが、箱の中に重しがあるとか、テープで貼ってあって台に固定されているとか、そんなところだろう。
風間は、ゲーム機はもう諦めて、適当な駄菓子を取ることにした。
「おいおっさん、なに菓子なんかに当ててんだよ」
「いや、ありゃもう無理だろ。お前も無駄撃ちしてないで、適当な菓子狙っとけ」
「やだ。ゲームほしい」
「ヘソ曲げんなよ。ゲームなら後で普通に買えばいいだろ。ほれ、オレの超絶テクを見ろ」
風間はコルクの跳ね返りを利用して、一発の弾で二つの菓子を倒した。おお、と鶫は目を見張る。
「地味にすげぇ」
「派手にすげぇだろ」
「俺だって」
鶫も風間の真似をして、一発の弾で二つの菓子を落とす。
「ふは、菓子ならすぐ倒れんな。ザコじゃん」
「そういう言い方すんな」
「じゃあじゃあこれは?」
鶫は台に背を向けた。ぱっと振り返ったかと思えば、瞬時に弾を撃ち出す。まるで西部劇の早撃ち対決だ。
「見返り撃ち」
「お前が命名すんのかよ」
あえて左手で撃ったり、対角線上の景品を狙ったり、三個同時撃ちに挑戦したり、勝負そっちのけで撃ちまくった結果、駄菓子を山ほどゲットした。子供達の尊敬と羨望の眼差しが誇らしかった。
*
「こんなに食いきれねぇかもな」
鶫はそう言いながら、二箱目のポテトチップスを開ける。
「まだ食うのか」
「おっさんも食う? チョコもあるぜ」
「オレはいいよ」
「祭り、案外悪くないかもな。いろんなもん食い放題だし」
「別に食い放題じゃないぞ。オレがいちいち買ってるんだから」
「射的屋はちょいムカついたけど、菓子いっぱいくれたもんな。おまけしてくれたし」
「その点は良心的だったな」
「おっさんがバカみてぇに遊んでんのもウケたしな!」
「お前だってバカみてぇなポーズで撃ってたくせに」
「おっさんほどじゃねぇよ。普段こういうのしねぇからな。結構楽しかったぜ」
指についた塩を舐めながら、鶫はにこりと笑った。提灯の仄かな明かりに照らされて、鶫の頬が紅を差したように見えた。赤く火照って、まるであのりんご飴のよう。
「おっ」
鶫が何か見つけたらしかった。うっかり見つめすぎたことに気付いて、風間はさっと目を逸らした。
「またほしいもんあったのか」
「ああ。最後にこれ買ってくれよ」
鶫が見つけたのは、最初に通り過ぎたべっ甲飴の屋台だった。初めの頃と比べて品数は減っているが、それでもまだたくさんの飴がキラキラと並んでいる。赤青緑、そして透き通った黄金色。鶫は迷わず、うさぎの形を手に取った。
「……いいのか?」
「何が」
「いや……」
植え込みに腰掛けて、鶫は飴を包んでいたビニールの袋を外した。飴は一層美しく照り輝く。向こう側の景色が黄金に色付いている。
「おー、マジであん時と同じだな。宝石みたいですげぇ綺麗」
鶫は懐かしそうに目を細め、提灯の明かりに飴をかざした。紅と金の艶やかな影が鶫の目元に落ちる。
と、いきなり口に突っ込んだ。ばくっ、とうさぎの耳を両方一気に頬張った。鶫はもごもごと口を動かして、ビールを飲んだ時みたいなしかめっ面をした。
鶫は飴を吐き出した。舐めたところが唾液で溶けて、どろりとした半透明になっている。そしてまた躊躇なく、舐めかけの飴を風間の口に突っ込んだ。
「……なにしやがる」
突然口に突っ込んできた飴を舐りながら、風間は言った。
「おい、なんとかいえ」
「……どんな味だ」
「どんなって……」
風間はうさぎの耳を噛み砕く。
「クッソ甘ぇ」
バリバリと飴を噛んで飲み込んだ。
「……だよな」
鶫は、残った方の耳を噛み砕いた。
「あめぇよな。クソあめぇ。砂糖溶かしてそのまま食ってるみてぇ」
「飴ってそういうもんだろ」
「思ってた以上にあめぇわ。喉焼けそう」
噛み砕かれて粉々になっても、宝石の欠片のようでなお美しい。夜の光を反射して、キラキラと輝いている。
「よかったじゃねぇか」
「何がだよ。甘ったるくてそれどころじゃねっつーの」
「ちゃんと甘くて」
イラついたようにガジガジと飴を噛んでいた鶫は、不意を突かれたような顔をして風間を見つめた。
「……何当たり前のこと言ってんだよ」
「だな。飴は甘いもんだ。食うの手伝ってやろうか」
「いーよ。一人で食えっし、こんなもん」
鶫は飴を噛むのをやめて、ぺろぺろと大事そうに舐めた。
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