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第四章③

「それから少しして、母親は死んだよ」 「……」    鶫のあまりにも壮絶すぎる過去に、風間は蒼褪めた。鶫の生い立ちは、胸が悪くなるような話ばかりだ。   「ま、あれが本当に俺の母親だったのか、今じゃうろ覚えなんだ。もしかして、似てるだけの別人だったかも、なんて」 「……」 「おい、何とか言えよ」    鶫は風間を肘で小突く。   「ん、ああ。悪い」 「ふん。つまんねぇ話だって最初に言ったろ。苦情は聞かねぇからな」 「別に、苦情を入れるつもりはねぇよ」 「だったら、んでそんなしみったれた面してんだよ」 「……殺してやりてぇと思ってな」    自分でも驚くほど低い声が出て、風間は口を押さえた。鶫はぽかんと目を丸くする。   「……もう死んでんだぜ?」 「……他の家族も、全員だ」 「……実家のやつら、全員?」 「殺してやりてぇよ」 「……」    鶫はしばし息を詰めた。そして思い出したように息を吐き、さっぱりと笑った。   「バカなおっさんだな。何人いると思ってんだよ」 「思うだけなら自由だろ」 「いくらおっさんでも、超能力者を相手にすんのはきついぜ。あいつら、変な術使ってくっからな」 「……前から気になってたんだが、その超能力だの霊能力だのってのはマジなのか? 胡散臭すぎるだろ」 「マジなんだって。超能力で国を守ってるらしいぜ、あいつら。笑っちまうよな」 「にわかには信じがたいな。詐欺かなんかの巨大犯罪組織って感じしかしねぇ」 「ははっ、違いねぇ」    鶫はくすくすと肩を揺らして笑い、風間に抱きついた。   「なぁ~、いっぱい喋ったからさぁ」 「喉でも渇いたか」 「ちげぇよぉ」 「なら腹減ったか。なんか作ってやるよ」 「だからちげーって」    鶫は、ソファに座る風間の膝へ跨る。   「しよーぜ」 「アホか。さっきホテルでしただろ」 「あんなん性処理みてぇなもんじゃん。ちゃんとセックスしてぇ」 「お前な……」    鶫は風間の頬にキスを落としながら、シャツのボタンを一つずつ外す。甘やかな唇が、機嫌の良さを訴えてくる。  風間は鶫の頭を撫でた。さらさらとした黒い髪がしっとりと指に絡む。賢そうな額を撫で、まだ幾分あどけなさの残る頬を掌に包むと、鶫はつぶらな瞳をくるくる動かした。   「あんた、俺のことガキだと思ってるな」 「ガキだろ」 「ガキにチンポ勃たせてるあんたは何なんだよ」    鶫は、頬を撫でる風間の指先を口に銜えた。   「ふへ、しょっぺぇ」    鶫は笑い、風間の指をかぷかぷと甘噛みする。歯の当たる微かな痛みが心地いい。甘えた舌が吸い付いて、指先をしとどに濡らしていく。   「オレは、ただのおっさんだよ」    風間は鶫の口から指を抜いた。名残惜しそうに舌が追いかけてくる。つう、と銀の糸が引いた。   「挿れる?」 「ああ、いや……」    風間は、鶫の肩を抱いて膝から下ろし、ソファを立った。   「ベッドですんの?」 「しねぇ」 「はぁ!? ここまでしといてか?」 「指フェラしかしてねぇだろ」 「チンコ勃ちそうなんだけど!」 「まだ勃ってねぇんだからいいだろ。腹減ったんだよ」    鶫は不満そうに、キッチンに立った風間に纏わり付く。   「おっさぁん」 「飯が先だ」 「ちっ。んだよ急に。大人ぶって」 「大人なんだよ。卵一個でいいな」 「二個」 「お前も腹減ってんじゃねぇか」    鶫は、風間の背中に頬をくっつけて抱きつき、際どいところに悪さをする。風間は構わず料理を続ける。   「あんただってちょっと勃ってるくせに」 「お前が触るからだ」 「……俺の体、好きだろ?」 「だからって、そんな何回もする必要はねぇだろ。オレは別に、お前とセックスするために一緒にいるわけじゃないんだ」 「……」    鶫は、不意を突かれたように黙り込む。   「……? それって……?」 「飯できたぞ。運べ」    風間は大皿に料理を盛り付けた。鶫は取り皿とスプーンを用意する。テーブルに食器を並べ、二人は席についた。  焼豚とネギだけのシンプルな炒飯だ。こういうのが一番いい。楽に作れて腹に溜まって、何より旨い。   「おっさん、今の仕事ができなくなっても、料理人で食っていけんじゃねぇの」 「褒めても何も出ねぇぞ」 「俺、おっさんの作る飯好きだぜ? 味濃くて、量多くてさ」 「それは褒めてるんだよな?」 「どう考えても褒め言葉だろ。腹いっぱい食えるのって、マジで幸せだよな」    鶫の屈託ない笑顔に、風間は胸がチクリと痛んだ。   「冷めないうちに食えよ」 「おう」    鶫の食べ方は、お世辞にも上品とはいえない。皿に口を近付けて食う、所謂犬食いが癖になっているようだった。箸の持ち方も微妙におかしい。  話を聞く限り、鶫の実家は格式高い家柄のようだが、礼儀作法についてはほとんど躾けられてこなかったのだろう。いや、家の者が教育を放棄したと言うべきだろうか。  もったいない、と風間は思う。鶫は本来物覚えがよく、教えたことはすぐ理解して忘れないのに、鶫の家族は鶫のことを何一つ知ろうとしないで、ただ虐げたのだ。この子供と関わることを拒んで、仕舞いには放り出したのだ。それがもったいないと思う。  同時に、奇妙な優越感も覚える。親でさえ知らない鶫の姿を、風間は知っている。きっと自分だけが知っている。そう思うと、後ろ暗い独占欲が満たされるようだった。   「なに見てんだよ。俺全部食っちまうよ?」 「……ご飯粒ついてるぞ」    鶫の唇を、風間は指でなぞる。ちゅ、と鶫は風間の指先に――いや、指についた米粒を舐め取った。   「恥ずかしーおっさんだな。こないだテレビでこういうのやってんの見たぜ。カップルがイチャイチャしてた」 「カップルじゃなくても、これくらい普通だ」 「そーかぁ?」    鶫はふと、窓の外へ目を向ける。風間もつられて外を見る。これから満ちる月が、地平線へと傾いていた。   「何か気になるのか?」 「いや? 月はどこから見ても変わんねぇなと思って」 「そりゃそうだろ」 「でも、鉄格子越しに見るより、こっちの方が全然いいな」 「……」 「邪魔なんだよな、格子がさ。花見も月見も、俺は地下から見ようと頑張ってたんだけど、鉄格子がまぁ邪魔なんだ。ただでさえ小っせぇ窓なのに、あんなのがあっちゃあ何も見えねぇよ。丸いはずの月が、いっつも欠けて見えてたっけ」    こういう気の滅入る話を、鶫は世間話程度の調子で話してくるから、風間はどういう顔をしたらいいのか分からなくなる。憐れむのも違うような気がする。   「その点、ここは窓がデカくていいな。空も広いし。部屋ももっと広けりゃ文句ねぇんだけど」 「十分広いだろ。お前、今度は前歯にネギついてんぞ」 「マジ?」    鶫は舌で歯列をなぞった。    *    腹が膨れれば眠くなる。それは自然の摂理だ。否定はしない。しかし、風間に皿洗いを押し付けた鶫がベッドを占領するのは、果たして許されることだろうか。   「おい、もっとそっち詰めろよ。オレも寝たいんだよ」 「ん~……」 「おいって」    鶫は風間の呼びかけにむずかって、やだやだと首を振った。   「お前なぁ、んなガキみてぇなこと……ガキだったな」    寝顔は一層あどけない。険のある眦も、生意気な唇も、寝ている間は影を潜める。穏やかな寝顔だ。  風間は鶫の左目の傷痕をなぞる。この傷も、父親か母親、あるいは家の誰か、こいつを金で買った変態にでも付けられたのだろうか。かなり古い傷のようだ。ギザギザに引き攣れた皮膚は色素沈着を起こして、一生元には戻らないだろう。  風間は鶫のスウェットに手をかけた。裾を捲ると、引き締まった肉体が目に入る。腹筋の凹凸を辿り、胸筋の膨らみを確かめる。あちこちに散らばる火傷の痕は、蝋を垂らされた痕だったというわけだ。  今はもう目立たないが、鶫が風間の元へ転がり込んだ当初は、全身生々しい傷だらけだった。擦り傷、切り傷、打撲痕。特に棒で叩かれたような痕が多かった。それは比較的新しい傷だった。  肌理が細かく美しい肌をしているのに、指先に傷痕が引っ掛かる度に何とも言えない気持ちになる。この美しい体を傷物にした家族に対する怒りと、身勝手な敵愾心だ。  自分でもうんざりするが、風間も鶫に傷を付けてみたいと思わないでもない。しかし同時に、傷付けたくないと思う自分も存在する。だから、美しい体に残る醜い傷痕をなぞるだけに留めている。   「……すけべ」    鶫はうっすらと目を開けて笑った。   「起きてたのかよ」 「こんだけ触られりゃ起きるわ」    鶫は自らスウェットをたくし上げ、肌を露わにした。   「まだ焦らすのかよ、おっさん?」 「先に焦らしたのはお前だろ。勝手に寝やがって」 「だって眠かったんだもん」 「何が、だもん、だよ。別に、眠いなら寝ててもいいんだぞ」 「何だよぉ、おっさん怒ってんのか? ほんと俺の体好きだな」 「……体だけじゃねぇよ」    おしゃべりな口を塞ぐと、鶫は嬉しそうに抱きついてくる。満ちるにはまだ足りない月明かりが、アパートの一室を優しく照らしていた。

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