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第七章②
目が覚めると、見知らぬ空間にいた。白くてぼんやりとした、空疎な空間だった。
これが死後の世界というやつか、と鶫は思った。死後の世界なんてこれっぽっちも信じちゃいなかったが、もしそういうものがあるとするなら、自分が天国に行けるはずがないということは重々承知していたので、きっとここが地獄なのだろうと思った。
しかし随分と小綺麗な地獄だ。地獄というのは、真っ暗で、血みどろで、魑魅魍魎が跋扈しているものではないのか。死ぬのは初めてなので詳しいことは知らないが、何となくそういうイメージがある。
しかし鶫の地獄ときたら、やけに白くて明るくて、魑魅魍魎どころか綺麗な花が飾ってあって、清潔な薬品のにおいまで漂ってくる。
いや、薬品のにおいは少々引っかかる。もしや、これから人体実験でもされるのだろうか。そういうタイプの地獄もあるのかもしれない。だとしたら目覚めたくなかった。麻酔が効いてさえいれば、体を切り刻まれたって平気なのに。
「……おい」
耳鳴りのように、遠くで小さく声がした。鶫は、声のした方へ意識を向ける。ひどく懐かしい響きのような気がした。匂いも、気配も、泣きたいくらいに懐かしい。
「お、おい! おいおいおいおいっ!」
声の主はいきなり大声を上げる。あまりのうるささに、鶫は顔を顰めた。もしかして、騒音地獄とかいうものがあるのだろうか。
「生き返った?」
さらに遠くから、別の声がした。聞き覚えのない女の声だ。
「凄まじい生命力だね。さすがは若いだけある」
カツカツとヒールの音を響かせて、女が鶫のそばへ寄る。染めたロングヘアを一つにまとめた、白衣姿の女だった。いやに甘ったるい煙草のにおいがした。鶫の知る煙の匂いとは正反対だ。
女は鶫の服を脱がせ、体をあちこち触った。致命傷となった胸の傷をぐっと押されると、痛みに息が詰まる。痛みを感じるということは、夢ではないのだろう。この女は闇医者で、鶫の臓器を海外の金持ちにでも売っ払うつもりなのだろうか。
「臓器売買? まぁ、金を払えない客からはもらうこともあるさ」
やはりそうだ。鶫にそんな金はない。
「取るなら腎臓にしてくれ? 確かに、腎臓は一つなくなっても平気だけれどね」
女がけらけら笑うと、その背後で男の声がした。鶫がよく知る、ひどく懐かしい響きだ。
「病人を脅かすなよ。金なら払ったろうが」
「前金だけね」
「治ってから払う約束だ」
「ああ。だからさっさと振込よろしく」
鶫は意識して息を吸った。清浄な、澄んだ空気だ。まるで地獄の気配ではない。喉がカラッカラに渇いて、それだけが苦しい。
「おや、意識がはっきりしてきたかい?」
「っ……お、れ……」
「そうだよ、君は助かったんだ。そこのおっさんに感謝するといい」
彼女はドア付近を顎でしゃくった。スーツ姿に髭面の、くたびれた中年男が佇んでいた。
「……おっ……さん……」
「殊勝なことじゃないか。まさかあの風間が子育てとはね。君にもまだそんな情が残っていたとは」
風間は決まり悪そうに舌打ちをした。
「からかうなよ。お前はいつもそうだ。昔から……」
「分かった分かった。私だって、せっかくの感動の再会に水を差すつもりはないからね。退散させてもらうよ」
お金はいつもの口座にね、と言い残して、彼女は席を外した。
*
「……一週間も眠ってたんだぞ」
パイプ椅子に腰掛けて、風間は言った。優しい声だった。胸にじんと沁みる。
「……なんで……」
「それは何に対するなんでなんだよ」
「……俺、あんたに何も言わないで出てきたはずだぜ。そりゃあ、武器と弾薬は失敬したけどよ。まさかそれで気付いたのか?」
「なわけないだろ。お前じゃねぇんだから」
風間は胸ポケットから携帯電話を取り出した。
「これの位置情報」
そんな単純なことで? と鶫は呆気に取られた。
「……俺、おっさんに監視されてんのか」
「人聞きの悪いこと言うなよ。何も普段から監視してるわけじゃねぇ。ここんとこ、お前の様子がおかしかったからな。突然断捨離始めたり、預金も急激に減ってたし。色々と入り用だったんだろ」
「えっ、口座も監視されてんの」
「当たり前だろ。お前の給料、オレが入金してるんだから」
「俺のプライバシーは……?」
「んなもん二の次だ。お前、オレが見つけてやらなきゃとっくに……」
風間は目頭を押さえ、溜め息を吐いた。
「……嘘だろ、泣いてんの」
「うっせぇバカ。マジで生きた心地がしなかったんだよ。雪に埋もれて、血塗れでぶっ倒れてるお前見た時、こりゃ死んでんなと思ったよ」
「ほっといたら死んでたぜ」
「急いであいつ……さっきの女医な。診てもらって……傷は塞がったのに、お前全然起きねぇし……」
風間は再び溜め息を漏らす。喉が震えていた。
「……悪かったよ、おっさん」
「全くだ。心配かけやがって」
「治療費いくらかかったんだ? 俺、がんばって返すからよ。腎臓一個じゃ足りねぇか?」
「三千万」
法外な値段に、鶫は目玉が飛び出しそうになった。
「お、俺の臓器全部でも足りないんじゃ……?」
「別に、これくらい必要経費だから気にすんな」
「でも」
「お前が生きて帰ってきただけで、オレは十分なんだよ」
風間は声を震わせる。決して涙は見せないが、鼻の頭が赤くなっていた。
「……おっさん。キスしてくれ」
「……お前な。曲がりなりにも病院だぞ」
「んなこと気にするタマかよ。いいじゃん。どうせ二人なんだし」
「……」
「ねーぇ」
よく知っている味がした。慣れ親しんだ、煙草の苦味。これが風間の味だ。一度失ったつもりでいたのに、結局またここへ戻ってきてしまった。
「っ、おい」
「あぁ? キスっつったらディープの方だろ。あんたも口開けろよ」
「……止まれなくなるぞ」
「誰が止めてくれっつったよ」
鶫は風間の首に手を回した。白い病室で、二人の男の影が重なる。
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