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第九章① 幸福の在り処

 一雫の光すらない、究極の闇。そんな空間に、鶫はたった一人きり。   「っ……!」    何かが足首に触れた。蟲か、獣か、もっとおぞましい何か。   「っ……やだっ……」    その正体を、鶫は知っている。見たことはないが知っている。どんなに走って逃げようとも、いつも部屋の隅まで追い詰められて、見えない何かに襲われる。   「うっ……あっ……!」    何かが足首に巻き付いた。鶫は転んで頭をぶつ。しかし痛みに泣いている暇などない。早く逃げなければ、もっともっと恐ろしい目に遭う。   「いっ……!」    鋭い鈎状のものが、鶫の柔い肌を無残に切り裂く。痛い。怖い。助けて。しかし誰も来ないと分かっている。鶫は世界を呪う。そうした負の感情が高まるほどに、鶫を襲う化け物は喜び力を増す。   「ひっ……」    体中を不気味なものが這いずっている。得体の知れない醜悪な何かが蠢いている。蟲か、獣か、あるいはもっと化け物じみた“なにか”。目には見えない“それ”に、幼い体はいとも容易く蹂躙される。   「やっ……」    手足を拘束されて動けない。何か大きなものに圧し掛かられる。小さい体に支えられる重量ではない。鶫は抗う術もなく押し潰される。できることといったら、微かに消えゆく呻き声を上げることだけ。   「いたい……ぃ、やだ、ぁ……だれか……っ」    瞬きをすると、そこは薄明かりの部屋だった。四隅に燭台や行灯が揺れている。   「い゛っ……!」    体を内側から切り刻まれる、明確な痛みが走った。ふと気付くと、鶫の上に知らない男が乗っている。  知らない、いや、知っているかもしれない。頭髪は薄く皺だらけのくせに、頬の辺りだけがいやにふくよかな老人なんて、腐るほど見てきたからいちいち覚えていられない。   「おや、泣いているのかい? かわいいね」    老人の生温かい舌が頬を舐る。ぞっと背筋が凍って、鶫は老人を蹴飛ばした。  途端に頬を張られる。目の前にいるのは、老人ではない。父親だった。   「歯向かうな! この出来損ないめが! 少しは役に立とうと思わんのか!」 「っ、ごめ、なさ……」 「あなたなんかこんなことでしか役に立たないんだから! 使ってもらえてるだけ感謝なさい!」    母の姿が現れる。影が陽炎のように揺らめいて、母なのか、父なのか、老人なのかさえ曖昧だ。ふと周りを見れば、たくさんの大人達が下賤な眼差しで鶫を見下ろしている。   「さぁ股を開いて」「腰を振れ」「駄犬が」「浅ましい雌犬め」「犯されて悦びやがって」「この程度で音を上げるな」「誰のおかげで生きていられると思ってる」「貴様の命に価値はない」「他に使い道がない」「オマエなんかいつでも簡単に殺せるんだぞ」    この世全ての悪意を詰め込んだ言葉の数々が降り注ぐ。目を塞いでも、耳を塞いでも、逃れようがない。   「大人しくしとけよ。優しくしてやるから」    乱暴な男の手が次々と伸びてきて、まだ脆くか弱い鶫の四肢を押さえ付ける。未発達の、本来そんなことに使うべきではない体を、男の欲望を満たす道具として扱われる。男の劣情を、幼い鶫はまだ受け止められない。   「いたい、いたいっ! ……いやっ、やめてっ……!」 「静かにしろ。抵抗したらこうだ」    殴られれば痛い。内臓を切り裂かれれば痛い。誰も鶫の悲鳴を聞いてはいない。誰も鶫を見ていない。誰の目にも映らない。霊よりも透明な存在。いないも同然だ。いないも同然なのに、痛みは感じる。   「おねがい……だれか……」    誰もいないと分かっている。だから全てを諦めた。もっと早くにその決心がついていれば、もう少し楽だったのかも分からない。    *   「おい」    はっと気付くと、薄暗く静かな部屋にいた。風間が濡れたタオルで鶫の額を拭っていた。   「…………なんだ、おっさんか」 「なんだとは何だよ。大丈夫か?」 「……何が」 「……いや、何でもねぇ。喉渇かないか」 「……少し」 「何がいい」 「……何でも」 「ホットかアイスか」 「……あったかくてあめぇやつ」    待ってろよ、と言って風間は寝室を出た。キッチンで物音がするので、鶫も覗きに行った。風間が電子レンジでミルクを温めていた。   「ガキかよ」 「あったかくてあめぇだろ?」 「俺が言いたかったのは、ホットカクテルとかそーいうのなんだけど?」 「んな洒落たもんがうちにあると思うか?」 「ブランデーくらいなかったか?」 「お前、普段から酒なんか飲まねぇだろ。子供舌なんだから」    揃いのマグカップが並べられる。白い湯気がふわふわと舞う。大きめのスプーンに蜂蜜をたっぷり注いで、ミルクに溶かす。カチャカチャと食器のぶつかる軽快な音が、深夜のキッチンに響く。   「ほら、ゆっくり飲めよ」    鶫はマグカップを掌に包む。いつの間にか冷えていた指先がじんわりと解けていく。仄かに甘い香りが漂う。一口飲めば、体の芯からほっと温まった。   「うめぇ」 「こんなに簡単なのにな」 「あんたも飲むのかよ」    風間は、唇に付いたミルクを舐めて笑った。   「同じもん二つ作る方が楽だからな」 「あんたこそ、にげぇブランデーを寝酒にする方が似合ってんだろ」 「単純に、お前と同じもんがよかったんだよ。ずっと一緒に暮らしてると、嗜好も似てくるのかもな」 「は、あんたも子供舌ってことじゃねーか。おっさんのくせに」    憎まれ口を叩きながらも、自然と頬が緩んでしまう。鶫の顔を見て、風間も頬を緩ませた。   「眠れそうか?」 「……さぁな」 「そこは寝れるって言っとけよ。この他に寝かし付けの方法知らねぇんだけど」 「んなことされなくたって、いつか勝手に寝るさ。あんた時々……」    父親みたいなことをするよな、と言いかけて、鶫は口を閉じた。世の父親はこういったことを子供にしてくれるものなのだろうか。世間の父親像を、鶫はまるで知らない。  それに、風間は父親にしては歳が近すぎる。どちらかといえば、歳の離れた兄だろうか。世間でいうところの兄貴ってやつも、弟にこういったことをしてくれるものなのだろうか。   「何だよ? 急に黙って」 「いや……母ちゃんみたいなことするよな」 「おま、おっさんにそれを言うか?」 「ばあちゃんよかいいだろ」 「んな歳じゃねぇわ!」    世間でいうところの母親がどういったものか、祖母がどういったものであるのか、鶫はまるで知らない。知らないが、知らないなりに、それらの理想像を風間に見た。   「お前こそ、いつまでもガキみてぇなことばっかり」 「かわいーだろ? 甘やかしてくれよ」 「何がかわいーだよ。自分で言うな」  真夜中の薄暗いキッチンで、秘めやかな談笑は続く。

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