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第1話

 金属バットの軽快な音がした。  ボールの芯をとらえたのだろう。音のした方へ視線を向ける頃には、くすんだ白の硬球がグラウンドネットの外に逃げ出していた。  わっと歓声が沸く。それを浴びているのは、いつも夜遅くまで、一人で練習に勤しんでいる彼だった。  彼に目を奪われたのは何時からだっただろう。記憶にはない。気が付いたら彼の姿を追い続けていた。ファインダーの中で彼が動く。いつもどおり、懸命な顔で走る。二塁ベース、三塁ベースと進塁し、ホームベースを踏んだ。その瞬間にも笑顔はなかった。  笑顔の仲間たちに迎えられ、クールな表情のままでハイファイブをする。表情こそあまり変わりがないが、少しだけ嬉しそうだ。ヘルメットを脱ぎ、ユニフォームの袖で汗をぬぐうと、彼はグラウンドにお辞儀をして、サイドへと下がって行った。  不思議な程胸が高鳴っている。野球部の練習試合なんて見慣れているはずなのに。いつもよりも鼓動が早い。目頭が熱くなってくる。ぼくは込み上げてくるものを落ち着けるために、ふうっと息を吐いた。 「珍しいね」  不意に声を掛けられ、驚いた。図書委員で、ぼくとおなじクラスの市居恭賀だ。さっきまでは図書室にいなかったのだが、興奮のせいで彼がすぐ近くまで来ていることに気が付かなかった。 「綾ちゃん、そんなに野球部が好きなら、マネージャーになればよかったのに」  ぼくのすぐ横まで来て、恭賀が言う。恭賀は綾羅木というぼくの名字を、まるで名前のように呼ぶ。本当に図書委員なのかと疑いたくなるほど派手やかな井出達でだけならまだしも、性格まで軽薄だ。2年、3年と同クラスだが、彼の行動乃至考えはいちいち奇抜だ。去年の文化祭の日、彼は秘かに片思いしていた(本人談)先輩にディープキスをした。それも公衆の面前でだ。それを風紀委員に問題視され、1週間の停学を食らったのだ。 「この間の写真展、見たよ。バド部の新人戦だっけ?」  ぼくはなにも言わなかった。恭賀の声をBGM代わりに、彼の姿を視線だけで追う。 「人の表情をストロボ写真のように見ることって、普段はないじゃない。綾ちゃんがどんな手法を使ったのか知らないんだけど、いや、あれはすごかった。なんていうか、感動で総毛立った。勝ちたいっていう気持ちが全面に出ていてさ、人ってこんな顔をするんだなあって、改めて思ったんだ。おかげで彼女、いま校内の人気者だよ」 「そう」 「褒めてるんだよ」  また、ぼくはなにも言わない。恭賀もなにも言わなかった。ぼくの横にいて、グラウンドを見ながら、はあっと息を吐いた。 「やっぱり俺、綾ちゃんのことが好きだなあ。ねえ、今度小説の題材にしていい?」  取材を兼ねてと、恭賀。恭賀は大の小説好きで、いままでもコンクールに出展していたり、なんとか賞(ぼくは小説に興味がないので、正確な名前が解らない)受賞に挑戦してみたりと、余念がない。 「いまはだめ」 「えー。クラスメイトの頼みだと思ってさあ」  人懐っこく言うものの、スキンシップを図ってくるわけではない。ぼくは恭賀を横目で見て、すぐにグラウンドに視線を戻した。 「いまはまだだめ。本当にいいショットが撮れたら、応じてもいい」  ずいっと恭賀がぼくを覗き込んできた。恭賀に両肩を掴まれ、体ごと恭賀のほうへと向けられる。きょとんとしたぼくを見て、恭賀は晴れやかな顔で笑った。 「約束ね、綾ちゃん。俺、絶対書くから。これでも綾ちゃんのこと応援してるんだよ」  俺はダメだったけれどねと、恭賀。なんのことを言っているのかすぐに気付いたが、ぼくは敢えて知らないふりをした。広い図書室の中は閑散としている。去年、新設校舎に新たな図書館が設けられた。それもあり、旧校舎にあるこの図書室の利用者は一気に減った。ぼくたちが卒業すると同時に、ここもなくなってしまうと聞いている。  正直、ぼくは3年生でよかったと思っている。ここがなくなれば、グラウンドを一望できる場所が屋上以外なくなってしまう。ここから見る景色は素晴らしい。あたり一面がファインダーだ。なんの障害物もない。ぼくはこの景色を3年間見続けてきた。 「でもさあ」  ぽつりと恭賀が切り出してきた。 「いまの野球部の副キャプテンが、彼のことをあまりよく思ってないみたい」 「どういうこと?」 「いつも一人で自主練してるだろ? 協調性がないって。だから去年の秋のトーナメントでレギュラーになれなかったって話」  恭賀はふうっと息を吐きながらグラウンドを眺め、ガシガシと頭を掻いた。 「スポーツマンシップって、そういうんじゃないだろ。ドラフト候補だかなんだか知んないけど、まだ選ばれてもないのに調子づくのはどうかと思う。名外野手なんて腐る程いるじゃない」 「候補にあがること自体がすごいことだよ。舞い上がる気持ちは解らないでもないなあ」 「そうかもしれないけどさ。どうせならイジメのないクリーンな野球部で徹してほしかったよ。そのほうが彼自身の人間力が高いって評価されるんだ。他人を蔑むような人がドラフト候補なんてさ、小説家で言ったら他人のアイデアをまるっと奪って権威ある賞の受賞候補にノミネートされるようなもんだよ。本当なら、弟子丸くんがレギュラーでもおかしくないのに、副キャプテンの一存でそれが立ち消えたっていう話」  知らないはずがない。彼――弟子丸啓大は、三番手ながらも持ち前の向上心で常に努力を積み重ねてきた。ぼくはそれを3年間追っている。だから副キャプテンである赤碕優(あかさきすぐる)が、弟子丸くんになにをしているか、なにをしてきたか、すべてではないにせよ、知っている。  けれどぼくにはどうする術もない。ただ、彼の努力を見守り続けるほかない。ぼくの無言からなにかを察したのか、恭賀はくるりと踵を返し、窓枠に腰を下ろした。 「倒されても、屈しても、なにがあっても這い上がってくる雑草魂っていうの? ああいうのがうざったいって思っていたんだ。でもね、あるとき急に、かっこいいって思ったんだ。おなじ野球部の中でもたぶん、そういう温度差があるんじゃないのかな」 「そうかも、しれないね」  ぼくはそれ以上はなにも言わなかった。  試合は9対3でぼく達が通う朋誠高校が勝利した。9点のうちの半分以上は弟子丸くんがいれた点数だ。それでも彼は奢らない。いつもどおり真剣な表情で、帽子を脱ぎ、相手選手に頭を下げる。誰よりも深く、長くお辞儀をする。相手に対する敬意を表しているのが見て取れる。とても誠実で、優しい彼の性格は、そんなところからもうかがえた。  県大会、中国大会と順調に勝ち進んできた朋誠高校は、あと2度勝利を挙げれば甲子園への切符を手にすることができる。もしそうなれば、創部20周年と重なり、栄えあることだ。  それ故に野球部のみんなの気持ちが上向きになっている。みんなが試合に出たいと思っている。こんなにも得点を挙げることができる、粘り強くチャンスを待ち続けることができる弟子丸くんは、レギュラーの座を手にできて当然だと思うだろう。外野はみんなおなじ気持ちなのだと思う。それなのに野球部のみんなは、相手チームへの挨拶が終わった後、弟子丸くんには声を掛けなかった。みんな赤碕の後を追っている。それが異様であると、彼らは気付かないのだろうか。 「あ、見て」  ぼくに促すように言って、恭賀が指さした。指の先には弟子丸くんがいた。相手チームの子と、なにかを話している。弟子丸くんが薄く笑い、帽子を少し上げ、小さく頭を下げた。必要以上に喋らないのも弟子丸くんの特徴だ。なにを話しているのかは聞こえないが、相手チームの子が弟子丸くんに手を差し出した。弟子丸くんはそれに少し戸惑っている様子だったが、手を握り返す。相手チームの彼にとって、負け試合ではあったが、本当に楽しい試合だったのだろう。 「いいよね、ああいうの。青春してるっていう感じで羨ましい」 「恭賀だって元々テニスをやっていたんだよね?」 「そうだね、中学まではね。肘を壊して辞めちゃったから、いまは無縁。そりゃそうと、本業はいいの?」  ポケットからスマホを取り出し、ディスプレイを眺めながら恭賀が言う。それがぼくのほうへと向けられたとき、ぼくはあっと声を上げていた。 「しまった、合奏の時間だ」  恭賀がやれやれと言わんばかりに両手を広げる。 「珍しく熱中していたから、呼びに来たんだ。っていっても、俺も試合に見入っちゃって役目を果たせなかったけれどね」  ぼくは恭賀に悪いねとだけ返し、図書室の窓を閉めた。  ぼくは吹奏楽部に所属している。トランペットのファーストだ。元々は恭賀もファーストを吹いていたのだが、不真面目さが災いし、部活を休むことも屡だから、いまはファーストを3人に増やして恭賀の穴を補っている。 「今日はどうするの? たまには練習に出ないと、ヒロがかわいそうだよ」  ヒロというのは、恭賀の代わりにファーストに入っている子だ。普段はセカンドだが、彼女は練習熱心だから、いつでも対応できるようにとファーストのパートもセカンドのパートも練習している。ぼくが思うに、彼女は恭賀のことが好きなのだ。そうでなければふたつのパートを掛け持ちすると、自ら提案しないだろう。  恭賀はうーんと考えあぐね、少しだけ首を斜めに傾けた。 「練習しないと鈍るし、出ようかな」  言って、恭賀が背伸びをした。ぼくはカメラを専用ケースに収めた。ファインダー越しに弟子丸くんを覗いたが、満足のいく表情は撮れていないだろう。彼の弾けるような笑顔が見たい。そんな彼をサポートできるようにと吹奏楽部に入ったが、2年間で彼を試合で見たのは数える程度だ。 「綾ちゃん、早くしないとチコが怒るよ」  チコというのは副部長の江波知子のことだ。今日は顧問がいないから、ぼくが合奏の指揮をすることになっていたのだが、もし遅れたら知子に指揮をしてほしいと頼んでいたことを思い出した。図書室の机に置きっぱなしにしていた鞄にカメラを入れ、それを掴んで図書室を出る。  グラウンドは静かだ。さっきまであんなに賑わっていたのに。あの余韻がまだ胸にある。あのホームランを甲子園で打てたら、彼はきっと、見たこともない顔で笑うのだろう。そう考えただけで胸が高鳴ってくる。そのぼくの気持ちを盛り上げるかのように、遠くからコパカバーナのメロディーが聞こえてきた。

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