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第2話

「ごめんね、知子」  部活が終わったあと、合奏の時間に遅れたことをぼくは素直に詫びた。知子は少しの間不思議そうに僕を見ていたが、やがてぼくの台詞の意図に気付いたように、そっと微笑んだ。 「野球部の個人応援曲のリストアップにイメージを照らし合わせていたんでしょう?」  いつものことだと言わんばかりに、知子。ぼくは嘘を吐くことを憚り、苦笑を返すだけに留めた。 「弟子丸くん、次の試合に出られるといいね」  知子が言った。なんの他意もない、ごく自然な感想なのだろう。その証拠に、その話を聞いていた後輩たちが、黄色い声をあげた。 「スゴいですよね、代打であれだけ打てるなんて」 「ホント、笠屋先輩より打率高かったもん。なのに、あんな偉そうな態度、ないよね」  ねえと、後輩たちが口々にいう。 「試合、見てたの?」  ぼくが尋ねると、知子と後輩たちは顔を見合わせ、目配せをした。そして少しいたずらっぽく笑いながら、知子が切り出した。 「綾ばかりズルいよ。野球部の応援はみんなでするんでしょ? だから、陰ながらわたしたちも応援してたの」 「ちゃんとパート練習もしてましたよ」  ヒロが言う。それを見て、恭賀が笑った。 「俺もつい、試合を見ちゃった。あれが本物の甲子園だったら、すごい迫力だろうな」 「ですよねっ?」 「いいなあ、行ってみたい。創部20周年で甲子園出場なんて、すごく感動しちゃう」 「特に、わたしたちは今年が最後だものね」  知子が言うと、恭賀がぼくに視線を送ってきた。なにか言いたげだ。なにを言うのかと思っていたら、恭賀は静かに笑って、机に音楽室の机に腰を下ろした。 「夏が終わったら、こうやってみんなで練習することもなくなっちゃうんだな」  恭賀の言うとおりだった。去年までに、ぼくたちは全国吹奏楽コンクールで3年連続金賞を受賞した。栄えあることだ。だから今年はコンクールに出場する機会 がない。野球部が甲子園に行けなかったら、ぼくたち3年生は夏休み始めにある定期演奏会を最後に、部活を引退することになる。 「なんとか、勝ち進んでほしいですね」  名残惜しそうに、ヒロが言った。恭賀はそれを見て、静かに頷いた。  ぼくたちはたぶん、みんな同じ気持ちだ。野球部だけではないが、一生懸命に練習をしているのを見ている。こればかりは勝負だから、ぼくたちにはどうすることもできない。だからこそ、精一杯応援することを選んだ。 「ぼくはもう少しリサーチしてから帰るよ。部室の鍵は締めるから、あとは任せるね」 それは暗に自主練のことを指している。知子が戸締まり当番の時にはいつも遅くまで練習をしていることは知っている。今日は知子が戸締まり当番の日だ。彼女たちはぼくが気づいていないと思っていたのか、少しだけ苦い顔をして笑った。  音楽準備室の窓からは、校舎裏がよく見える。校舎裏のバックネットがある付近で、弟子丸くんがよく練習をしている。さすがに今日はいないだろうと思い、窓を開ける。防音のために二重ガラスになっていたから気がつかなかったが、窓を開けた途端にどしんと重い音が響いた。  壁際にある土嚢にはネットが嵌め込まれていて、薄汚れた硬球が吸い込まれるようにネットの中央に入っていく。ボールを投げているのは弟子丸くんだ。ワイン ドアップからオーバースローで一発。それからサイドスロー、アンダースローで一発ずつ。球種ははっきりとわからないが、かなり急に縦に落ちるボールだった り、ストレートだったり、いっそ見事だと言いたくなるほどだ。  ボールコントロールは、もしかしたら赤碕や笠屋よりも上かもしれない。キレのあるボールがミットに納められていく。鋭い音。鈍い音。それらは心地よく校舎裏に響き、独特のリズムを生み出している。弟子丸くんはぐいっと汗を拭い、力みを取るように数回肩を上下させた。  テンポよく構え、腕をしならせる。そこから放たれたボールは鋭く、ミットのど真ん中を揺らした。思わず息を呑んだ。こんなに気迫の篭った投げ方をする弟子丸くんは初めて見た。試合後、笠屋になにか言われたのだろうか? 彼ならば余計なことを言いかねない。人を疑うのは好きではないが、彼の行動はいちいち人 の努力を小馬鹿にするような節がある。弟子丸くんは30球近くあるボールを徐に拾い始めた。今日はもう練習を終えるのかもしれない。そう思って、ぼくは外 側の窓を閉めた。  弟子丸くんは本当に努力の人だ。自分に厳しく、傲らない。クラスが違うために話したことはあまりないが、それでも応援したいと思えるほど、地道に努力を重ねているのだ。彼は本当に野球が好きなのだろう。きっとほかの部員たちも気付いているのだろうけれど、部室の掃除、バットやボールの手入れは弟子丸くんがやっている。自分が自主練で使ったあとのグラウンド整備までもだ。  彼は心から野球が好きなのだろう。ぼくとおなじく、この空間にいられることに浸っているのかもしれない。彼にはどのような音楽が似合うだろうか。本来野球部から依頼されているのはレギュラーメンバー分だけなのだが、一縷の望みに賭け、弟子丸くんの応援曲をリストアップすることを顧問から許可してもらった。それだけに、きちんと吟味しなければ。  そう思いながらリストアップした曲と、弟子丸くんとのイメージを重ね合わせていた時だ。また、あのボールの音が聞こえてきた。  ガラス越しに、弟子丸くんがボールを投げる姿が目に入る。懸命にボールを投げるその姿を見ていたら、ふいにあるフレーズが浮かんできた。あの力強く、それでいて弾むようにリズミカルなメロディは、彼を後押ししてくれるんじゃないか。そう考えたらぼくはいてもたってもいられなくなって、音楽準備室にあるクラシック音楽のCDラックの中から目的のCDを捜す為に立ち上がった。

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