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第3話

 翌日、部活終わりのミーティングの際、ぼくは弟子丸くんの応援曲を見つけたとみんなに告げた。  ショスタコーヴィチ交響曲第五番四楽章。ムソルグフスキーの「展覧会の絵:キエフの門」。ズッペの「軽騎兵:序曲」。これらが野球の応援曲として適していないのは分かっている。けれど彼を盛り上げる。耳にしたことがあるが、その曲の素晴らしさまでもは知らない人が多い。弟子丸くんもそうだ。代打であれだけ打つ。小柄だから足はさほど速くはない。継投投手としては申し分なく、もしも笠谷がいなければ先発を任されていても不思議ではないのだ。ぼくはそのもどかしさを応援曲に籠めた。どこの高校も使っているありきたりの曲ではないものを使いたかった。  それをメンバーに伝えた時、恭賀はいつもの感情を悟らせない表情で、爪にやすりを掛けていた。最近爪が荒れるんだよねと女の子のようなことをぼやいていたのは今朝のことだ。 「難曲だというのは分かる。でもいくつかのフレーズをリフレインするような構成にするだけでも、雰囲気が全然違うと思うんだ」 「じゃあイスパーニャ・カーニでもよくない?」  ふうっと爪を吹きながら、恭賀。 「イスパーニャ・カーニは笠屋くんのご指名なんだって」 「荒れ狂う闘牛なんて、笠屋より弟子丸くんの胸の内のほうが適しているよ。秘密裏に弟子丸くんの応援曲をイスパーニャ・カーニにしてしまえばいい。そうしたら、笠屋の応援曲にはハイサおじさんでも東村山音頭でも、俺がソロで拭いてやるよ」  恭賀が言ったら、メンバーたちが吹き出した。けれど恭賀は何食わぬ顔をしている。そのほうが裸の王様にぴったりだろとヒロに言う。ぼくはとにかくと話を元に戻した。 「イスパーニャ・カーニは確かにハマる。ぼくもそれがいいと思った。だけど笠屋と同じ曲を使うわけにはいかないいよ」 「軽騎兵の序曲なら、確かにみんな聞いたことがあるわね」 「キエフの門も、去年のメンバーは定期演奏会でやったことがあるから、そのうちのどこかをセレクトする奏法なら問題ない」 「わたしはショスタコーヴィチを推します」  万理加が呟いた。万理加はホルンを担当している2年生だ。ホルンパートには3年生がいない為、入部してからは他の同級生たちとホルンパートを引っ張ってきてくれた。去年万理加がみんなを鼓舞して頑張ってくれなければ、三年連続の金賞を受賞することはなかったと言っても過言ではない。 「交響曲第五番四楽章は解釈によって評価が左右されるかもしれないけれど、ショスタコーヴィチの苦しみや葛藤を反映しているという見方もありますよね。苦しみからの解放を暗示した曲だから、弟子丸先輩の後押しをするには適していると思います」 「アフリカン・シンフォニーの代わりに交響曲第五番四楽章をアレンジして演奏するのもありかも。学校によっては何曲も用意しているし、コパカバーナはみんなお手の物だから、猛練習する必要もなさそうだもの」 「編曲はどうするの? 俺は忙しいからやらないよ」  言いながら、恭賀がまた爪にやすりをかけ始めた。 「こういう時くらい協力してくれたらいいのに」 「だから、笠屋の時にソロで東村山音頭を吹いてあげるって言ってるのに」  恭賀は全く協力する気がないわけではないらしい。爪を確認した後、少し難しい顔をして時計を見上げた。 「ショスタコーヴィチを演奏するのはいいけど、パートによってはボーンが大変だから、ボーンを口説かなきゃ。クリスティーは嫌がるんじゃないのかな」  クリスティーというのは、トロンボーンを吹いている同級生、阿笠のことだ。阿笠と恭賀は仲が悪く、揶揄するためにこんな妙な綽名をつけた。 「どのパートをどう編集するかはまだわからない。今日は阿笠が休みだから、阿笠が来たら改めて話をする。悠太、それでいい?」  阿笠とおなじくトロンボーンを吹いている後輩、松岡悠太は静かに頷いた。ちらりと、隣の空席を気にしている。そうかと思えば、悠太は自分の楽譜が入ったファイルをぺらぺらと捲り始めた。そして目的のページにたどり着いたのか、「あの」と言いながら立ち上がった。 「阿笠先輩なら、なにも言わないと思います。寧ろ先輩がやりたがっていた曲だから、喜ぶんじゃないでしょうか」  そう言って悠太がぼくのところに持ってきたのは、明らかに阿笠の字で注意書きが入った楽譜だった。「革命」と男らしい字で書かれている。革命というのは、ショスタコーヴィチの交響曲第五番の副題だ。そういえば、阿笠が中学生の時、吹奏楽コンクールの自由曲でこの曲を演奏しようとしたが、当時の顧問から難しすぎて中学生には無理だと却下され、演奏することができなかったと言っていたのを思い出した。 「じゃあ、一度アレンジしてみるね。そのあとでみんなで決めよう。先生からは許可を得ているから、週明けにはできるようにがんばってみる」  みんなは元気よく返事をしてくれた。顧問から伝えられていた連絡事項をみんなに告げて、部活の締めの挨拶をする。金曜日の放課後ということもあって、みんながは自主練をせずに解散していく。そんななか、恭賀だけは机に頬杖を突いたまま、部室の戸締りを終えるのを待っていた。 「東村山音頭は不服だった?」  帰り道で、恭賀がぼくに声を掛けてきた。ぼくは苦笑を返し、そうじゃないよと否定してみせた。 「恭賀が笠屋をよく思っていないのは知っている。ぼく自身も笠谷は好きじゃない。だからといって本人リクエストのものとは違う曲を吹く理由にはならないよ」 「昨日さあ」  ぼそりと恭賀が呟くように言った。 「試合が終わってから、笠屋が弟子丸くんになんて言ったか、聞いちゃったんだよね」  不満げな顔だ。俯き、足元を見たまま歩いている。若干擦り足だから、靴底がアスファルトを擦る音が路地に響く。 「調子に乗るな、だってさ。どうせ試合になんか出られないんだからって。あいつが監督とつながっているのは本当なのかもしれない」 「もしそうだとしたら、笠屋はかわいそうな人だね」 「どこが? 傲慢で嫌なやつだよ」 「そうやって周りに嫌な印象を与えているんだっていうことを、誰も教えてくれないんだよ。他の人よりも体格に恵まれていて、肩が強くて、将来有望視されているっていうだけで。本当に優れた人は、他人を蹴落としてまで這い上がろうなんてしないと思うんだ」 「焦ってるんじゃないのかな?」  ぽつりと恭賀が言う。ぼくもそれを感じてはいた。昨日の試合で笠屋は2年生エースの的場に代わり、満塁のピンチから持ち前の勝負強さでピンチを脱した。7回裏ツーアウト、スリーボールツーストライクという場面で、一発で仕留めた。難しい局面をもチャンスに変えるその力は素晴らしいと思う。そして8回、9回に渡って相手には一点も取らせなかった。さすがエースだと敬服せざるを得ない。けれど、みんなが一様に歓声を上げ、感動したのは、笠屋の活躍ではなかった。  7回裏で4-3と相手チームに逆転を許してしまった。次のイニングでどうしても点を取らなければならない。負けるわけにはいかない相手チームにも火がついているが、こちらも好打順で迎えた8回表。3番打者が三振、4番打者の笠屋はサードゴロ。進塁なくツーアウトというところで、監督が5番打者を代打に替えた。代打は弟子丸くんだ。ベンチはざわついていた。弟子丸くんは過去3試合に出場していなかったが、監督はその選球眼に賭けたのだろう。  監督の目論見通りだった。弟子丸くんは一球目は様子見で流したものの、二球目を見事にスリーベースヒットにしてしまった。相手のライトもまさか弟子丸くんが打つとは思っていなかったのか、かなり浅く構えていたのが仇になった。その狼狽からか送球が乱れたことに気付き、弟子丸くんが機転を利かせてホームベースを踏んだ。1点追加。同点。その瞬間、息をのんでその様子を見つめていた校庭から、わっと歓声が上がったのだ。  その後も弟子丸くんが打ちまくったおかげか、チームメイトにも火が点き、一挙5点も追加した。  滅多に感情を出さないキャプテンが、珍しく弟子丸くんに駆け寄りなにかを話していた。笠屋が弟子丸くんに調子に乗るなと言ったのが本当なら、本来ならばその賛辞は自分に与えられるものだと思っていたのかもしれない。 「ドラフト候補なんだったら、自分は他とは違うんだって堂々としていればいいのにね。あの体格は恵まれたものだから、誰も真似をすることなんてできないし、大きな武器になる」 「いままでは恐怖政治で言うことを聞かせてきたけれど、後輩たちの中にはちらほらと弟子丸くんのほうがすごいなんていう子がでてきてたりして。それで余計に焦っているとか」 「そんな理由?」 「あの唯我独尊男なら有り得る話だよ」  大袈裟な口調で恭賀が言った。どれだけ笠屋のことが嫌いなのかと思うほどだ。恭賀は不満げに眉を顰めたまま、ぴたりと立ち止まった。 「応援、していなくはないから」 「なんのこと?」  ぼくは恭賀のそれには乗らない。あくまで秘めていたい。恭賀はそれに気付いているのかわからないが、じっとぼくを見つめた。 「弟子丸くんだよ。今度遊びに誘ってみたら? 広島なんてすぐそこなんだから、カープの試合を観に行こうって言ったら食いつくかも」 「大事な試合が続くのに遊びに行けるわけがないだろ? ぼくたちだって定期演奏会の準備で忙しい」 「あっ、じゃあ、定期演奏会のチケットをあげなよ。ジョリヴェのトランペット協奏曲でソロを吹くんだって教えてあげれば?」 「どうしてぼくが?」  恭賀にはぼくの台詞が不満げなものに聞こえたのだろう。一瞬間ぽかんとしたが、すぐに意地の悪い笑みを浮かべ、ぼくを肘で小突いた。 「好きなんだろ?」  ぼくは思わずため息をついた。 「単なる憧れだよ。ぼくはただ、彼の笑顔が見たい。それを見るにはきっと、彼の努力が報われた時だ。だから追い続けている。それだけだよ」 「それは立派な告白だと思うのだけど」 「そう思うなら恭賀はどこかずれているんじゃないのか」  辛辣な言い方だったが、恭賀はふむと顎に手を宛がい、いつものように若干摺り足気味に歩きながら、言った。 「そうかもしれない」  恭賀は本当にいい性格をしている。そうでなければ先輩にディープキスの餞別など送れるはずがない。 「じゃあ、ぼくはこっちだから」  丁字路の突き当たり、ぼくは右側に体を向けながら言った。恭賀のうちはこの丁字路の左側にある。恭賀はうんと短く返事をした。  自分のうちがある方へと歩きながら、ぼくはある違和感に気付いていた。恭賀の足音がしないのだ。ぼくが恐る恐る振り返ると、恭賀はやはりぼくを注視したままだ。 「ねえ、綾ちゃん」  恭賀が俺に駆け寄りながら。 「お願いだから、俺と付き合って」  恭賀の声は切羽詰っていた。肩が震えている。ぼくは言われている意味が解らなくて、胸のざわめきを押さえられなかった。

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