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第17話
啓大くんと別れた後で、ぼくはすぐに恭賀にメールをした。恭賀からはすぐに返事があった。うちにいるよと一言だけだ。着ている衣服の袖を匂う。当たり前だけれど、焼き肉のにおいがする。恭賀はムードを大事にするから、これをどうにかしない限り、一生言われ続けるはめになりそうだ。ぼくは恭賀の家のちかくにある漫画喫茶に入って、シャワールームを借りることにした。
大人になって、それなりにぼくも人と付き合った。そういう行為もした。でもぼくの脳裏に浮かぶのは、本間先輩のことを睨めつけるように見ていた、恭賀のあの顔だった。
全身でぼくを求めているのが分かった。あれに気付かないほど鈍感ではない。だけどぼくは臆病で、ずるいから、もしもそれが勘違いだったときのために、なにも言わない選択をした。恭賀はあのとき、既にぼくが啓大くんを追っていたことを知っていた。だからなのか、恭賀もなにも言わなかった。
ぼくがずるいのなら、恭賀だってずるい。ぼくが東京に行くと告白したあの日、本当にぼくのことが心から好きなのだったら、行くなと引き留めればよかったのだ。でもその前に、恭賀はヒロと付き合うことで、ぼくの答えを聞かないようにした。ぼくが啓大くんを好きだから。恭賀のなかでは、きっとぼくは啓大くんに抱かれたいと思っているのではないかと勘違いされていたと思う。
そうじゃない。そういう意味の好きなのではないと、聞かなかったのは自分じゃないかと、渦巻く黒い感情と共に、シャワールームでボディーソープを洗い流す。添え付けのシャンプーで髪も洗い、においを落とす。服に着いた飲食店のにおいはごまかしようがないけれど、シャワールームの脱衣所に用意されていた消臭剤を振りまいておいたからか、さほどにおわないような気がする。
歯を磨き、思いを馳せる。こんな準備をすることになるとは思わなかった。でも恭賀のあの本を目にしたときに、ぼくは決めた。あの日、人の表情があんなにも美しいと感じた、あのグラウンドで、一球一球を追いかけ、必死に相手に食らいついていた恭賀のあの目を、自分に向けたい。その一心で、ぼくは敢えて啓大くんの誘いに乗った。
その言い方はずるいかもしれない。啓大くんと話したいこともあった。そして、自覚をしたかった。ぼくが啓大くんを好きだというのは、恭賀に対するそれとは種類が違うのだと。
髪を乾かして、準備を終えた頃、スマホが鳴った。恭賀だ。あれから連絡をしなかったからだろう。「いまどこ?」と、一言だけ通知が来た。それを見て、喉が鳴る。5年間触れられなかったけれど、たった数秒、恭賀の唇が触れたとき、ぼくがどういう思いでいたか、どんな感情を懐いたのか、思い知らせてやろう。ぼくは恭賀の家に急いだ。
呼び鈴を鳴らすとすぐに恭賀が出てきてくれた。駐車場には恭賀の車以外置かれていなかった。きっとご両親も、お兄さんもいない。だからこそぼくをうちに招いたのかは知らないが、ぼくは人目も憚らずに恭賀に抱き着いた。
「ちょ、綾ちゃん?」
どうした? と、恭賀が尋ねてくる。けれどぼくの反応で察したのだろう。ぽんと背中を叩いてくれた。
「俺の気持ち、わかった?」
恭賀の腕の中で頷いた。恭賀はぼくを玄関に招き入れると、静かにドアを閉めた。
恭賀の気持ちなんてわかっている。告白するのは怖かっただろう。どう思われるか。なにを言われるか。分からない不安で押しつぶされそうだっただろう。けれど恭賀は強い。その気持ちに打ち克ったのだ。ぼくにはそれすら叶わなかった。
でも、言わないでおいて正解だった。言っていれば、今日のように何気なく食事をすることも、また会おうと約束を取り付けることもできなかったかもしれない。啓大くんがそうとは限らないが、他人から寄せられる色を孕んだ好意は、時に人の判断を鈍らせる。嫌悪され、二度と会うことが叶わなかったかもしれない。ぼくはそうした。卒業後も練習に参加しに来てくれた先輩たちにしか、凱旋公演のことは知らせていない。もちろん向こうも気まずくて来ないだろうが、ぼくが本間先輩を苦手としていたことをみんなが知っていたのか、それともじつはみんなも本間先輩の持つあの押し付けるような音が苦手だったのか、ほかの先輩たちは最近本間先輩と連絡を取っていないのだと言っていた。
気持ちが伴わない、ただの交友関係や、先輩後輩の関係でもそうなのだ。もしも相手に対して同じ感情を懐いていないのに、そこに恋愛感情やそれ以上の黒い思いがあると知れたら、人は反射的に嫌悪してしまうのではないか。ぼくはそう思った。自分がそうだったからだ。そう思ったら、涙が出てきた。恭賀がぼくに対して告白してきたのは、とても、とても怖くて、そして想像以上に勇気のいるものだったのではないか。
「ほら、綾ちゃん泣き止んで。明日も公演だろ? 顔が腫れて、台無しだよ」
とんとんとぼくの背中を恭賀が叩く。ぼくはぐすぐすと鼻を啜りながら恭賀にしがみついた。
「言えなかった」
「え?」
「怖くて、好きだなんて」
恭賀がぼくに抱き着いてきた。ぎゅうっと腕の力が強くなる。
「ずるいよ、綾ちゃん。俺ばっかり」
それは恭賀がぼくを好きだと告白したことに対してだろう。きちんとお互いの気持ちを言うと約束した。後悔しないように言おうと言ったのはぼくだ。ああ、やっぱり勘違いをさせたままでいたい。ぼくは恭賀のこの顔が好きだ。
「ごめん」
「俺に謝らないでよ」
馬鹿と言いながら恭賀がぼくを抱きしめる。恭賀はお風呂上りなのだろう。ふわりとよい薫りが鼻をくすぐる。恭賀の胸に顔を埋めたままでいたら、恭賀の手がぼくの背を撫でた。
「綾ちゃんがずるいから、俺もずるいことを言う。いまだけでいい、こうさせて」
俺の気持ち知ってるでしょと、恭賀。ぼくは抵抗しなかった。恭賀の手がぼくの唇を撫でる。そうかと思うと喉元をくすぐられ、ぼくは身を捩った。
「なんで俺を好きにならなかったんだよ? そうしたら、後悔なんてさせなかったのに」
本当にそうだ。どうしてぼくは不毛な道を選んだのだろうか。ぼくは恭賀の手を取った。指先にチュッとキスを落とす。一気に恭賀の体温が上がったのを感じた。
「う、わっ。なに、いまの。最低」
恭賀を見上げる。顔が真っ赤だ。ぼくは自分の涙を恭賀の浴衣で拭った。
「ちょっと、せめてタオルくらい使ってよ!」
もうと言いながら恭賀がぼくを突っぱねる。そうかと思うとガシガシと頭を掻いて、ぶっきらぼうに上がってと言った。恭賀の家に上がるのは久々だ。恭賀はぼくを自室に案内すると、ぼすんと音を立ててベッドに腰を下ろした。
「散々教えただろ、啓大はノーマルだって」
ぼくは頷いた。恭賀から何度もメールが着ていたのだ。それは知っていた。女の子と付き合えるということは、そういうことだ。けれどどうしてもその気持ちが捨てられなかった。言いたかった。どうして言いたかったのか。それは、白か、黒かしかないからだ。好きか、嫌いか、その究極のはざまで気持ちが揺れ動くことが許されないのなら、ぼくは自分の気持ちをきちんと整理をして、伝えておきたかった。
ぼくは啓大くんが好きだ。数十分前に、啓大くんが言ってくれたように。勘違いでも、誤解でもない。純粋に、彼のことが好きだったのだ。
ただ、やはり恭賀は勘違いをしている。ぼくの啓大くんに対する好きは、恋愛感情ではない。ずっと勘違いをさせていたかった。ぼく自身も、勘違いだと思っていたからだ。東京へ行ってしまうことが分かっているのに、告白をするのも怖かったし、ぼくが揺れ動いている間に恭賀はヒロと付き合っていることがわかってしまったから、余計に伝えることができなかった。
きっと恭賀はぼくに発破をかけるためにヒロと付き合ったのだと思う。とてもいい方は悪いが、ぼくと同じで、好意というものを利用したのだ。
「それに、告白できなかったからと言って、その足で別の男の部屋に来るとかさ、綾ちゃん貞操観念ないの?」
ぐいっと恭賀に腕を引っ張られた。そうかと思うとベッドに押し倒される。
恭賀の手がぼくの頬を撫でた。以前に比べるとすこし顔つきがしっかりしているように見える。覚悟を決めたからなのだろうか。ぼくも適わぬ恋もあるのだと割り切ってしまえば、この気持ちを乗り切ることができるのだろうか。恭賀はぼくの鼻先に鼻先をちょんとくっつけた。
「ねえ、キスしちゃいそう」
恭賀の目が潤んでいる。ぼくだってこれが卑怯なことだと解っている。心の穴を恭賀で埋めるつもりなどさらさらない。啓大くんの答えも、啓大くんへの気持ちが伝えられないことも、ぼくは初めから解っていた。分かっていても、それでも、伝えたかった。そうしなければ先に進むことさえできない。他の誰かを好きだと自覚することすらできない。ぼくがそういう性質だということを、恭賀は分かっているはずだ。
優柔不断。臆病。ずるい。恭賀はぼくに、初めて出逢った頃から言っていた。でも、そんなぼくでも、好きだと言ってくれたのは恭賀だ。
「恭賀の、好きにして」
恭賀の背中に腕を回しながら言う。恭賀はかあっと顔を赤らめたかと思うと、ぐいっと仰け反り、体を起こした。不意な動きにぼくの腕が外れた。
「もう、綾ちゃん最低! 俺が綾ちゃんのことを何年好きだったか解ってる? 何年燻らせていたか、わかってる? それなのに」
恭賀の声が震えている。
知っている。
ぼくだってそうだ。言葉にできたら、自分のトランペットの音のように、自由に表現できたら、どれほどよかっただろう。ぼくは自分の音に感情を込めることはできても、それを言語化し、口にする勇気も、度胸もない。
恭賀の顔は真っ赤だ。ぼくはベッドに押し倒されたまま、恭賀を見つめる。
恭賀の目がまるでファインダーのようにぼくを映す。ぼくの表情は、あの日本間先輩に押し倒され、恐怖が滲んでいたものとは違うと分かるだろう。自分でもわかる。あのときとは、まったく違う。
恭賀はよく、ぼくに言っていた。綾ちゃんは言葉よりも表情のほうが分かりやすい、と。いまのぼくの表情は、恭賀に見下ろされ、物欲しそうにしている。染められたいし、染まりたい。ずっと気付かないふりをして、ごまかしてきた。でもこの表情はもう、ごまかしきれない。
「恭賀」
恭賀の喉が鳴り、上下に動く。大人になり、骨ばってきたからか、あまり目立たなかったのどぼとけがよく目立つ。ぼくがそれを指でなぞると、恭賀にその手を取られた。
「綾ちゃんはずるいよ。言わないつもりか? 俺のことを散々焦らしておいて、自分は行動しないつもりなのかよ?」
ぼくはなにも言わなかった。そんなものは、自分の目に映っているぼくの表情で、わかっているはずだ。恭賀もずるい。ぼくに言わせようとする。ぼくの気持ちが定まったことを、もうわかっているくせに。
ぼくはなにも言わずに、恭賀に押し倒されたまま、空いた手で自分のシャツのボタンを外した。恭賀の喉が動く。息遣いが荒くなるのを感じながらも、目を逸らさなかった。
「ぼくは、恭賀の目にどう映っている?」
ようやく口に出せたのは、その一言だった。ぼくの表情は、あえなく恋に破れた顔ではないはずだ。ぼくのファインダーには、恭賀のあの、鬼気迫るような、それでいて逆境を楽しんでいるかのような、強かで勝利に対して強欲な表情が収められている。はじめて人の表情というものに、写真というものに夢中になった、あの、――。
けれどぼくの顔の横に手を突いたあと、恭賀はぼくの目を覆った。
「好きな人を想像していればいい」
恭賀が言う。その声に嫉妬の色が含まれていた。好きな人。そんなもの、ぼくがここに来た時点で分かりきっているだろう。けれどぼくは恭賀の言うとおりずるい。恭賀の嫉妬を利用して、もっとその心の奥を聞きたくて、勘違いをさせたまま、キスに応じた。
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