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第16話

 凱旋公演の合間を利用して、ぼくは啓大くんに会いに行った。啓大くんが指定してきたのは、しゃぶしゃぶ専門のチェーン店だ。そこには個室があり、ゆったりと話せるからなのだろう。  約束の時間は19時。予定よりも15分も早く着いてしまった。タクシーを降り、見慣れた街並みを見渡した。5年前とは少し違う。ビルのなかにあったはずのバレエ教室が無くなり、代わりにフィットネスクラブが入っていた。その隣は長らく空き地だったが、モダンな佇まいのヘアーサロンができている。  5年は短いようで長い。様変わりしている。メールや電話でやり取りをしていたとはいえ、スムースに話せるだろうかと思う。ぼくはふうっと息を吐いた。自分を奮い立たせるためだ。ステージに立ったらまったく緊張などしない。それなのにいざ啓大くんと対面すると考えると、自分の手が震えている。ぼくはそれを眺めながら、情けなさと不甲斐無さに嗤笑した。 「お疲れ、遥」  ふいに聞こえてきたのは啓大くんの声だった。5年前と比べると少し低くなり、変声している。けれどベースは変わらない。まっすぐでよく徹る、啓大くんの性格を反映しているような声だ。ぼくは振り返って、微笑みかけた。 「ひさしぶりだね」  変わっていない。少しだけ背が伸びただろうか。顔つきも以前に比べ随分男らしくなっている。相変わらずの短髪だが、七分袖のリネンシャツにジレベストを羽織った、少しシックな装いだ。啓大くんは頷いて、ぼくの傍まで歩いてきた。  じいっと啓大くんがぼくを見る。不思議そうにまじまじと見た後、啓大くんはにやりと口元を持ち上げた。 「やっぱり、トランペットを吹いている時のお前のほうがいいな」 「え?」 「すげえかっこいい」  悪戯っぽく笑って、啓大くんが言う。ぼくは自分の顔が赤くなるのを感じた。冗談にしては性質が悪い。ぼくはようやくあの日の間違いを糺し、自分への覚悟を決めたところだったのに。ありがとうと返したぼくを笑って、啓大くんはしゃぶしゃぶ店のドアを開けた。 「腹減った」  啓大くんの食欲は相変わらずのようだ。いつか初詣に行った日にも、奥原くんや赤碕に揶われながらも黙々と豚汁を啜っていたのを思い出す。ぼくは啓大くんに促されるままにしゃぶしゃぶ店に入った。 「予約していた弟子丸です」  啓大くんが女性店員に向けて言う。彼女はお待ちしておりましたと愛想のよい表情で言って、ぼくたちを奥の個室へと案内した。ジャケットを脱ぎ、木製のハンガーに掛ける。それをよそに啓大くんは掘りごたつ式になっている席に腰を下ろしていた。 「とりあえず5000円の食べ放題で予約した」 「う、うん」  啓大くんが来る前に店前に展示されているディスプレイで値段を確認したが、しゃぶしゃぶと雖もかなり高い。本当にグレードのよい肉を使っているのかは定かではないが、値段に応じたものを提供しているからなのか、駐車場では空きを捜す方が難しかった。  かなりここに来慣れているのだろう。ぼくが席に着くまでの間に、啓大くんは女性店員にベースの出汁や薬味をメニュー表を見ずに注文している。ちらりとぼくに視線をよこした。 「飲み物は? ウーロン茶?」 「あ、うん」  ぼくが酒を飲まないと解っていたのだろう。啓大くんは淡々と注文を済ませていく。オーダーを取った店員が頭を下げ、個室のドアを閉めた。ほんの少し防音されるからだろうか。ドアを閉めた途端、周囲の喧騒が少し小さくなったように感じた。 「遥」  啓大くんがぼくを呼ぶ。はいと思わず敬語になってしまった。 「凱旋公演おめでとう」 「う、うん、ありがとう」  ソロを拭いている最中、客席に啓大くんの姿を見つけた。来てくれたんだ。そう思ったら嬉しくて、昂ぶった。音に気持ちが表れていただろう。強く明朗な音だったと同じパートの先輩に言われたのを思いだす。 「でも、5年も帰ってこないとは思わなかった」  啓大くんの声が尖る。 「遊びたかったし、お礼を言いたいことだってあったのに」  言って、啓大くんがテーブルに両腕を置き、腕の上に顎を置いた。母が飼い始めたミニチュア・シュナウザーが不貞腐れたときにやるポーズに似ていて、吹き出しそうになる。 「ごめんね、忙しくて」 「そうだろうと思ったから、いつ帰ってくるのかなんて送らなかったんだ」  そう言ったあと、啓大くんはふうっと息を吐いて、顔を上げた。なかなか会えなくて淋しい気持ちを抱えるだろう。そう思ったから仲良くならないつもりでいた。未練を残したくはなかったが、それは未練ではなく悔いになり、やがてそれは拭えない悪感情へと変わってしまう。その移り変わりが怖かった。ぼくはぼく、啓大くんは啓大くんの生活を送る。それが最良であると、いまでもそう思っている。  けれどぼくは、頭で導き出したその答えを、そろそろ払拭しなければならない。もしかするとそうではないかもしれない。言葉にした気持ちが現実とかすかもしれない。その淡い期待を懐いて戻ってきた。期待の淡さが色濃さを増したのは、恭賀の一言だろう。  5年経った。気持ちは消えるかもしれない。時の流れと共に、その気持ちは変わってしまっているかもしれない。そう思ったが、そうではなかった。ぼくは相変わらず啓大くんが好きなのだ。会えると解って嬉しかった。正直音大に合格したときよりも、ずっと嬉しかった。寂寞めいた気持ちを懐いたまま東京に行ったときよりも、ずっと素直に喜ぶことができた。 「啓大くんは、今日はなにをしていたの?」  専門を卒業した後、自宅近くのリハビリ専門病院に就職したのだとメールが着た。理学療法士の国家資格も得たと嬉しそうに言っていたのを思い出す。今日は日曜日。病院は休みのはずだ。 「午前中は小学生の野球チームの練習に参加してたんだ」 「小学生の?」 「ああ。遥の写真展を観に行ってから、もう一つ夢ができた。だから遥にメールをしたんだ」  それは一昨年の話だ。ぼくは東京で写真展を開いた。小さな規模だったが、数年ぶりということもあってか、多くの人に来場してもらうことができた。そのなかに、ぼくは啓大くんの写真を展示した。県大会準々決勝、そのならびに優勝のときのもの。そして、辛くも甲子園での二勝目が挙げられなかったときのもの。  改めてその写真を見た時、ぼくは息を呑んだ。写真から溢れる闘気。そして覇気。自分が相手バッターを押さえるんだという強い気持ちを持っているのが全身から分かって、全身の毛穴が開いたんじゃないかとおもうほどの興奮を覚えた。  個展を開いた後、確かに啓大くんからメールが着ていた。けれどぼくは学校と練習が忙しく、啓大くんと時間を合わせることができなかったのだ。せっかく東京まで来てくれたというのに会えなかった後ろめたさが、今頃になって甦ってくる。 「あの時は本当にごめん」 「責めてるんじゃない。ただ直接会って言いたかっただけだ。だから今言う」  啓大くんは改まったように言うと、あらかじめ用意されていたお茶を一口飲んだ後、座椅子に体を預けた。 「おれは本当に野球が好きだった。情熱だけならだれにも負けないって、いまでも思ってる。でも、骨折でみんなより早く引退せざるを得なくなったときから、少しナーバスになっていたんだ。笠屋はあんなに体格がいいのに、野球に対して真摯じゃなくて、それでも自分が望んだチームに入れてもらえた。おれはなにもプロになりたかったわけじゃない。だけど、俺がどれだけ努力をしても、笠屋には追い付かなくて、悔しくて、こんな体格に生まれた自分を恨んだ。だから野球をあきらめた」  啓大くんは少しだけ俯いている。けれど口調ははっきりとしていて、それらは既に昇華された悩みなのだと解る。 「奥原や赤碕が大学で野球をやっているのを見て、羨ましかった。真っ先に羨望を懐いた。でも、どうせ俺じゃ‥‥っていう思いもあって、専門でも部活には入らなくてさ。燻っていたんだ。野球が好きな気持ちも、自分がどうすればいいのかが分からない気持ちも、一緒くたになってしまって」  でもと、啓大くんが継ぐ。ぼくはその話に耳を傾け、相槌を打つつもりで頷いた。 「奥原に誘われて東京に遊びに行ったとき、遥の個展で、おれの写真を見たんだ。すげえ顔だった。当たり前だけど、見たことなくて。おれ、こんな顔して投げてたんだって思ったら、涙が出てきたんだ。なんでこんなに野球が好きなのに燻ってんだ、馬鹿じゃないのかって。  おれがやりたかったみんなで勝ち取る野球が、あの決勝戦でできた。その達成感が高揚感になってふつふつと湧いてきた。  気付いたんだ。おれが積み重ねてきた努力は、おれを輝かせるためのものじゃなくて、他の誰かを輝かせるための軌跡なんだって。おれはみんなに食らいつこうと必死だった。負けたくなかった。だから、おれとおなじ気持ちを懐いているかもしれないヤツに、そうじゃないんだって気付いてもらいたかった。それで、赤碕のおじさんにお願いして、小学校の野球チームの指導補助を始めた」 「そう、だったんだ」  すごいねと継ぐ。啓大くんは気恥ずかしそうに、でも嬉しそうにはにかんだ。  啓大くんが輝かなかったなんて、そんなことはない。誰よりも輝いていた。誰よりも光っていた。最終的にはみんながその光に向いて、ひとつになって、チームの流れを変えてしまった。ぼくはそう思っている。  だからこそぼくは錯覚したんだ。本当は、錯覚などではなかったのかもしれないが、自分の気持ちを精査するにつれ、自分が作った音楽の解釈をするにつれ、浮かぶのは啓大くんとは違う顔だった。  ただ、ぼくは啓大くんのこともちゃんとファインダーに納めたかった。揺るがない信念と、小柄な体に見合わないほどの大きな気持ちを懐いていることを、ちゃんと知ってほしかったからだ。  写真の素晴らしさは、自分では見ることのできない自分の顔を見られることだ。ぼくはそれを、自分自身で知った。小学生のころ、最後の定期演奏会でトランペットを吹いている自分の顔は、とても一生懸命で、でもこれがみんなと演奏ができる最後になるのだという寂寞を物語るもので、みんなとは笑顔で別れたのに、家に帰ってからその写真を見て、泣いた。  息ができなくなるほど泣いて、母に慰められたのを覚えている。それだけ一生懸命だった。みんなと足並みをそろえて、ひとつのものを作り出すという達成感を知ることができて、よかったのだと思いなさいと、そう言われた。誰もが味わえるものではない。その場にいるからこそ味わえるものだ。  それは誰にでもいえることで、ぼくが特別なわけじゃない。みんなそうだ。何気ない表情の中に見せる一瞬。たった一瞬が、ファインダーに納められ、そして経験したことのない人にまでその感動を、叙情を、表情を、その人の生き方までをも伝えていく。特別で、でも特別ではない、誰にでもあるその一瞬を、ぼくは写真に収め、様々な人に知ってほしかった。  スポーツのように躍動するものは特に感動を呼ぶ。でもぼくはべつにその感動を伝えたいから写真が好きなわけではない。啓大くんを、彼を、ファインダーに納めたかったわけではない。ぼくが、ぼく自身が、先生の死をきっかけに諦めてしまおうかとまで思ったトランペットを続けることができた。だからこそ、ぶれないように。自分は本当に、心の底から、その競技が、音楽が、美術が好きなのだということを、忘れないでいてほしかった。たとえ挫折をしたとしても、そのときの表情は本物。自分の中にある答えは移ろうかもしれないけれど、それでも、そのときは、本当に心の底からそれが好きだったのだということを、忘れないでいてほしかったのだ。 「啓大くんは指導者にも向いているかもしれないね。理学療法士だし、笠屋のフォームが投球障害を招く恐れがあるって、見抜いていたもんね」 「赤碕が笠屋のことをおじさんに話してくれたんだ。そうしたら、あっさりオーケーが出て。絶対無理だと思ってた。おれ、指導経験なんてないからさ」 「そんなことはないよ。野球部の後輩たちは、啓大くんを慕っていたと思う。努力をすればいつかは報われるっていうことが、きちんと伝わったと思う」  ぼくは本当にそう思う。心からそう思う。ぼくはその直向きさに揺り動かされた。その直向きさをずっと見ていたくて、初めて父に逆らった。人の気持ちを揺り動かすことができるのは、人の気持ちしかないんだ。ぼくはその言葉を言えなかった。啓大くんの笑顔が眩しかったからだ。  とてもうれしそうに笑っている。その眩しい笑顔を曇らせたくない。ぼくのこの気持ちを伝えることで、この関係に瑕がついてしまったら、――。そう考えると怖くて、言えなかった。 「おまえのおかげだよ、遥。秘かにあの写真を見るのが好きだったんだ」  好きと言われてどきりと胸が高鳴ったような気がした。 「おまえの音も、写真も、なにもかも好きだった。応援したいって気持ちがそこかしこに現れていて、純粋で、暖かくて。おれ、おまえがソロを拭いているのを聞いて、泣きながら練習していたこともあるんだぞ」 「そうなの?」 「ショパンの別れの曲、だっけ? 高2の時の秋だったと思う。先輩を送る曲として練習していたと思うんだけど」 「聞いてたんだ?」 「聞こえたよ。っていうか、聞き入った。聞き終わった後の余韻で、涙が出たんだ。先輩たちの最後の試合を終えた後だったから」  あの時のことを今でもはっきりと覚えている。ぼくはあの曲が嫌いだ。ぼくが幼い頃にトランペットを習っていた先生が亡くなったときにお葬式で流れていた曲だった。先生がとても好きな曲だったからだ。ぼくが初めて演奏会で吹いた、思い出の曲。  ぼくはトランペットが嫌いだった。当たり前だけれど、母には勝てない。母のようにうまくはなれない。そんなコンプレックスを抱えていたことを、先生は見抜いていた。だからこそ、明朗で活発な母には似合わない、シックで落ち着いた曲を先生が選んでくれた。遥には人の気持ちを汲みとり、それを音に力がある。だからこの曲を吹くときには、一番大切な人に向けて吹くつもりで吹いてごらんと、先生が言った。  その曲をすべて練習し終える前に、先生は亡くなった。だからぼくが演奏会で、誰に向けて吹いたのか、先生は知らないだろう。ぼくにトランペットを吹くことの楽しさを、そして人に勝てないからとあきらめない気持ちを教えてくれた先生に向けて、ショパンの別れの曲を吹いた。  音が揺れていただろうと思う。ぼくは泣きながら吹いていた。その時の写真も、父が撮ってくれていた。まだ小さなぼくが、広い広いステージの上で、泣きながらも懸命にトランペットを吹く姿。そしてそれを見て、音を聞いて、涙しながら聞き入ってくれている客席の人々の姿。いま思えば、ぼくは音楽も、写真も、両親に近付きたくて、両親の気持ちが知りたくて、続けてきたんだろう。  思えば、あの時からぼくは別れを告げることに尻込みする癖がある。先輩たちが卒業するということは、いなくなる、別れるということだ。頭ではわかっていても、心が追い付かない。だから、ショパンの別れの曲を演奏すると決めた時、みんなはぼくがその曲を嫌いだと知らずに盛り上がっていたが、ぼくだけは吹く気になれず、放課後、屋上で一人で練習をした。拭いたら泣きそうだったからだ。  案の定、ぼくは屋上で一人で泣いた。先生の言葉が、表情が、脳裏に焼き付いて離れなかった。さぞ音が震えていたことだろう。アレを聞かれていただなんて思わなくて、ぼくは微苦笑を漏らしていた。 「遥、おれ、お前と友達になれて、よかった」  啓大くんが笑った。やっぱり、その笑顔が眩しい。啓大くんは、自分の中の燻られた気持ちをきちんと吐き出した。だからこそ、こうやって笑えるのだ。ぼくにはそれができるだろうか。きっと、自分の気持ちをごまかして、嘘を吐いて、ずるい自分を演じるのだ。 「うん、ぼくもだよ。また戻ってくるだろうから、そのときは練習を見に行くよ」 「楽しみにしてる」  ぼくは頷いた。ああ。ぼくはなんて根性なしなんだろう。5年前からなにも変わっていやしない。啓大くんの吸い込まれそうな笑顔は、ぼくを指の先から悲しみへと変えていった。

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