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第15話
――5年後、ぼくは無事に大学を卒業していた。同時に父の楽団を手伝って、全国を回ることになる。その飛行機の中で手に取った雑誌に、笠屋のことが書いてあった。
笠屋はプロ4年目まで活躍していたが、肘の怪我に悩まされ、戦力外通告を受けたようだ。肘の手術が無事成功し、二軍の試合で復帰を果たしたとある。肘の怪我の基因は高校の時の投球フォームなのだと評論家が書いていた。
高校一年の2月に肘を痛めて以来フォームを変えているが、それまでのフォームが原因と言えるのではないかという見解だ。ふと啓大くんのことを思い出した。啓大くんはそれを逸早く見抜いていた。もしその原因を笠屋が知っていたとしたら、啓大くんを苛めたことを後悔し、反省するかもしれない。大変そうだなと思うよりも早く、ぼくはそんなふうに感じた。
それほど笠屋のいじめは執拗だった。啓大くんはよく耐えたと思う。赤碕も、そして奥原も、ほかのチームメイトたちも、いじめをとめたかったけれど笠屋が怖くてできなかったのだろう。あの時の野球部の監督は、笠屋の父親の後輩だったらしい。
その雑誌をぱらぱらとめくり、開いたページに書かれている記事を見て、ぼくははにかんだ。凱旋公演とある。その記事を書いているのは、恭賀だった。
筆者の友人と書かれているのを見て、ピンときた。この書き出し、文体は恭賀のものだ。忘れるわけがない。ぼくは嬉しくなって、胸の高鳴りを抑えきれなかった。
5年ぶりの地元だ。啓大くんや恭賀とは頻繁にメールのやり取りをしていたものの、一度も帰ることができなかった。大学卒業後の、ぼくが楽団員としての最初の公演はどこがいいか。父に言われ、ぼくは迷わず地元を選んだ。地元のコンサートホール。収容数は2000人と規模が小さいものの、音響は都内のコンサートホールに匹敵する。そこはぼくが吹奏楽を始めてから東京に出るまでの10年、毎年のように使わせてもらっていた場所だ。
思い出の場所に帰る。そして、思い出の人たちと出会う。それはまだ適ってもいないのに、涙が止まらなかった。
ずっと、ずっと好きだった。あのグラウンドで初めて見たときに、人の汗があんなに美しいと初めて思った。毎日行われるルーティンワーク。見るたびにうまくなっていく。人とは努力の積み重ねで輝きを放つものなのだと知ったあの日から、ぼくは我武者羅に練習に取り組むようになった。
でも、ぼくはその努力が報われないことも知った。
楽器は自分が病気になったり、諦めたりしない限りは音を奏でることができる。
だけどスポーツは、致命的な怪我をしてしまったら取り返しがつかない。楽器は壊れても部品を取り換えればなんとかなるが、人体はそういうわけにはいかないのだ。
あんなにも努力をして、食らいついて、必死だったというのに、彼はもう一度グラウンドに立つことをあきらめた。戻ってはこなかった。ぼくが偶然、あの日に見たのと同じ表情をぼくに向けていたのは、シュレーディンガーの猫の逸話を聞かされたときだっただろうか。
本当は父の跡を継ぐのは嫌だった。ぼくにはやりたいことがあったからだ。その人の一瞬を刻みたい。その一瞬しかない表情を、風景を、フィルムに収めたい。その一心で写真を撮り続けた。県大会で啓大くんの笑顔を撮ったあの日以降も、度々運動部の写真を撮っていた。運動部だけではなく、吹奏楽部や、華道部、美術部に至るまで。
写真は自己満足だ。父に言われた。トランペットを吹くのもそうだと思う。人に感動を与えたい。それはこちらのエゴでしかない。そう反発した。ぼくは思った。ぼくの応援が力になり、背中を押すことができたら。ぼくのその気持ちもエゴだった。でもそのエゴは通じた。啓大くんが、赤碕が言ってくれた。あのトランペットの音でやってやろうという気になった。背中を押された、と。嬉しかった。
だったらぼくは、その気持ちを忘れないよう、誰かの背中を押せるような音楽を奏でたい。そう覚悟を決めて、父と向き合った。父は嬉しそうだった。そんな父に、ぼくはある提案をした。もしも吹奏楽部のメンバーが集まったら、ぼくはもう一度、あのメンバーで、あの曲を演奏したい。もう一度だけ、チャンスが欲しい。
そのチャンスというのは、あの曲を演奏するチャンスだと、父は思っている。でも、ぼくが思うチャンスはそれではない。もう一度、彼と、ちゃんと、音を合わせたい。息を合わせたい。そうすれば、きっと、ぼくのなかに燻っているものが、音を立てて弾くだろう。そう淡い期待を寄せている。
凱旋公演の記事の中に、今回の演目が記載されている。一部の最後の曲は、朋誠高校OBによる、ショスタコーヴィチ交響曲第五番四楽章。そして、マルコム・アーノルドの第六の幸福。ぼくたちが三度目の金賞を受賞したときの自由曲として演奏した楽曲だ。
いまでも覚えている。朋誠高校の名前が読み上げられた時、ぼくは震えが止まらなかった。みんなで泣いた。そのときとまったく同じ音で奏でられるとは思っていない。ぼくたちはみんな、それぞれが成長し、それぞれの道を歩んでいる。でも、きっとあの時のことは、忘れていないと思う。
もしかすると、あのときよりも、もっともっと色の深い、とても馴染みよいものになっているかもしれない。それぞれが味わった辛苦や、喜びを胸に、音を奏でられるかもしれない。
ぼくはもう一度みんなと会えるという希望を胸に、ふうっと息を吐いた。
空港に降り立ち、搭乗口から空港のエントランスに向かっていたとき、誰かに呼び止められた。聞き覚えのある声だった。あの時より少し低くなっているだろうか。声のしたほうへと顔を向ける。
相変わらず軽薄そうな容姿だった。けれど髪は黒い。高級そうなスーツを纏っているが、少し垂れた目と、口元のほくろは、あのころの面影を残している。
「恭賀」
ぼくは恭賀の元に駆けよった。恭賀がぼくに抱き着いてくる。ぼくは慌てたが、恭賀はぼくに構わず、嬉しそうな声を上げる。
「綾ちゃーんっ、会いたかった!」
言って、ぼくの胸にぐりぐりと顔を埋めてくる。お前は猫かと恭賀に突っ込みを入れる。恭賀はうふふと嬉しそうに笑って、ぼくから離れた。
「ねえ綾ちゃん、飛行機の中の雑誌、読んだ?」
「読んだよ」
「じゃあこれ、あげる」
サイン入りだよと、恭賀が満面の笑顔を湛えて言う。それは一冊の書籍だった。『faind』というタイトルを呟くと、恭賀はくるりと踵を返した。
「じゃあまたあとで、会場でね」
「あ、恭賀!」
「俺は約束を守る男だから」
そう言うと、恭賀はすたすたと歩いて行ってしまった。恭賀を呼んでも振り返らない。ぼくの手には一冊の書籍だけが残った。
「知り合いか?」
父が言う。
「高校の時の同級生だよ。ずいぶん助けてもらったんだ。ぼくとおなじ、トランペットのファーストを吹いていたよ」
「高校の時? ああ、あの澄んだ音の、あの子か」
「うん。あとで会場にも来るよ。みんなで音合わせをするって約束したから」
父はそうかと穏やかな声で言って、ぼくの背を叩いた。
「しっかりな」
「うん」
父の言葉に頷いた後、ぼくは恭賀が歩いて行った方向に視線をやった。
「ぼくも、約束は守るよ」
ぼそりと言った時、父に呼ばれた。ぼくは父に促され、空港のエントランスへと急いだ。
***
ぼくは移動中、恭賀にもらった本を読んだ。それにはぼくと恭賀しか知り得ないことが書いてあった。会場で音合わせをした後、ぼくはホテルのバーに恭賀を呼んだ。
「読んだ?」
ぼくは頷いた。誤魔化そうかとも思った。でもそうしたら、5年前の、ずるいぼくのままだ。
「恭賀が本間先輩にキスしたのは、ああいう意味合いだったんだな」
恭賀がきょとんとする。
「そうだよ」
何食わぬ顔で言ってのけ、恭賀がカクテルを啜った。
「だって嫌じゃない。綾ちゃんのファーストキスは、俺がもらうはずだったんだ。だから返してもらった」
「なんだよ、それ」
ぼくは笑ってしまった。恭賀が嫉妬深いのは知っているが、まさかここまでとは思わなかったのだ。ぼくはカルーアミルクを少し啜った。甘ったるい。
恭賀はずっとぼくのことが好きだったらしい。性的マイノリティーであることを赤裸々に書かれたその本には、当然ぼくの名前は書かれていないが、ニュアンスで、そしてふたりしかしらないシチュエーションで、すぐにわかった。
恭賀が本間先輩にディープキスをしたときのことは、よく覚えている。あの本間先輩が怯んでいたからだ。部活の時には見せたことのない、怯えたような目は、正直に言って胸がすくような思いがした。
人前だったこともあり、すぐに噂になって、恭賀は停学を食らった。でもその時の表情はとても清々しくて、してやったりというような、悪戯っぽい顔だった。あれはたぶん、本間先輩への意趣返しだ。仕返ししようと思ってもできない、むしろ誰かに相談することもできなかったぼくの気持ちを理解して、代わりに嫌がらせめいたことをしたのだと、すぐに思った。
「ねえ、綾ちゃん。やっぱり、啓大が好き?」
「うん」
即答はできなかった。かなりの間を置いて呟くように言ったぼくを見て、恭賀が笑う。
「なにそれ? 俺にも脈があるってこと?」
カウンターに頬杖をついて、小首を傾げながら。大人になった恭賀の表情は、どこか色っぽくもある。元々整った顔立ちだからなのか、やけに様になっている。
「そう思うなら恭賀のポジティブ指数は、社会人になって大いに跳ね上がったと言っても過言ではない」
「あはは、そうだと思うよ。綾ちゃんが俺を好きだって言ってくれる日を夢見て、真面目に部活に出ていたんだからさ」
ちらりと恭賀を盗み見る。恭賀は冗談を言っている顔ではなかった。周りを見渡すが、ホテルのバーの中はカップルだらけだ。ぼくたちのように、男同士で来ている人はいなかった。
ぼくはカルーアミルクを少しずつ飲みながら、スマホを手にした。啓大くんにメールを送る。凱旋公演で地元に戻ってきていること。明後日の公演が終わったら話をしたいと言うこと。それらをメールに認めて、送信ボタンをタップした。
「もう少しだけ待って。結論は、それから」
やはりぼくはずるい。このずるさはどうしても変わらない。たぶん、ずっとぼくは自分に言い聞かせていたのだと思う。境界線を越えてしまっては、もしもフラれた時に取り返しがつかない。二度とこうして会うことも、そして息を合わせ、ふたりにしかわからない曲の解釈を、トランペットの調べと共に語り合うことができなくなることも。
誰に告白をするのか、どうしたいのか、それは未だに恭賀に告げていない。ただ、ぼくは恭賀に言った。啓大くんに対する愛情は、憧れであり、付き合いたいとか、手に入れたいとか、そういうものではなくて、ただ純粋に彼の表情に惹かれたということを。
もしそれを恭賀が違うふうに考えているのなら、ただの勘違いだ。
恭賀がぼくを呼んだ。恭賀へと振り向く。ぼくの唇に、恭賀の唇が触れた。一瞬ではない。数秒だ。ちゅっと甘美な音を立てて、離れて行った。
「口止め料。その書籍には、綾ちゃんの気持ちは書いてない」
言って、恭賀は伝票ボードを手にし、立ち上がった。
「もう一度、いい演奏をしようね」
「うん。これ以上ないくらい、いい演奏をしよう」
「そうだね。楽団をも食っちゃうくらいのね」
恭賀が笑う。
「じゃあね、綾ちゃん」
恭賀は静かに言って、バーを後にした。恭賀がいなくなったのに、唇だけが妙に熱かった。ぼくは唇に指を触れながら、スツールの背もたれに体を預けた。
「好きだ。ずっと、好きだった」
数年間燻らせた気持ちを乗せたぼくの声は、バーのBGMとして流れているメロウなスタンダード・ジャズのリズムに溶け込んでいった。
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