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第10話 俺は死んじまっただ?(3)
なんだ? なにが起こってる?
自分は日本人で、ただの平凡なサラリーマンで、独身で、まだギリギリ二十代で。
そんなことは漠然とわかるのに、自分の名前がまったく思い出せない。正確な年齢も誕生日も、出身地さえも。当然、勤め先の会社名どころか業種、所属部署もわからず、ただただ途方に暮れる。
こんなことが、あるものだろうか。
「俺……は、どこの、だれ、なんだ?」
呟いたところで、ベッド同様、やたらゴージャスで高級そうな調度品に飾られた室内の壁に、これまた凝った細工の彫刻に縁取 られた鏡があることに気がついた。
「あっ、ダメだ! まだ横になっていなくてはっ」
銀髪美人が止めるのも聞かず、ふらつく足取りでなんとか壁ぎわまで移動し、鏡の中を覗きこむ。そしてその直後、声もなくその場に立ち尽くした。
そこに、見知らぬ男が佇んで驚愕の表情を浮かべていた。
「エ――、無理はいけない。いまは身体を休めることを優先し――」
「これが、あんたの言うエルディラントか?」
言葉尻を奪うようにして尋ねると、銀髪美人は気まずそうに口を噤 んだ。咄嗟に口にしかけて、何度も言いよどむひとつの名前。
長い黒髪、切れ長の黒瞳。自分もかつて、黒髪と黒い瞳だったことはわかる。だが、鏡に映る男のものは、そのいずれもが遙かにあざやかで、濃い色をしていた。
漆黒、というのだろうか。おなじ黒髪、黒瞳でも、自分が記憶していた色とは純度が違う。なにより、貌の作りが根本的に違っていた。
自分は生粋の日本人で、西洋の血はまったく混じっていない。それなのに、鏡の向こうからこちらを見ているその貌は、和の気配どころか、東洋を思わせるものはなにひとつ見当たらなかった。
切れ長の瞳。秀でた額に通った鼻梁。薄い口唇。
銀髪美人も桁外れの美貌の持ち主だったが、鏡に映る目の前の男も、とんでもない美形だった。
「なんだ、これ……、これが、俺……?」
そんなわけあるかと全俺が否定する。だが、鏡の中の像も、いま俺が言った言葉をそのまま呟いていた。
「え……、ちょ、ま……っ」
なにをどう受け止めればいいのかわからず、動悸が止まらない。
なんだ? 俺の頭がおかしいのか? 日本人だったとかサラリーマンだったとか、全部俺の妄想? 本当は、エルなんとかなのか? そんで、この銀髪美人が恋人……。
胸と額を押さえてじっと俯く。
悪い夢を見ているとしか思えなかった。いや、こんな美人とこんな豪邸で暮らせているのだから、むしろいい夢なのか? 男同士って部分については、すでにキャパオーバーなのでいまは考えないことにするけれども。
だが、『日本人』だった記憶もあやふやだが、それ以上に黒髪美形の『エルディラント』の記憶はまったくない。
どうしたらいいんだ、俺は。『自分』のことが、なにひとつわからない……。
俯いていたその足もとに、近づいてきた別の足先が映った。
「その、よかったら座って話さないか?」
遠慮がちに声をかけられ、すぐそばの長椅子を勧められる。なにも考えられず、うながされるままおとなしく座った。銀髪美人も、その斜向 かいのアームチェアに腰を下ろした。
「体調は?」
あらためて訊かれて、無言でかぶりを振る。本調子じゃないのはたしかだが、もう、どこがどう不調なのかもわからなかった。むしろ、精神的にくらったダメージのほうが遙かにでかい。
「いましがたのそなたの問いだが」
いきなり切り出されて、思わず身構えた。その様子を見て、銀髪美人もまた、躊躇 いを見せる。だが、すぐに意を決したように口を開いた。
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