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第1話
『周りからすべての音が消え、私はそこに一人きりのように感じた。電柱にとまっている烏がこちらを向いて大きく口を開けたまま──』
薄暗い部屋の中でパソコンに向かい、カタカタとキーボードを叩きつける。先程出来上がったプロットを基に物語を起こしながら、カップへと手を伸ばし珈琲を啜った。
てっきり熱いと思い込んでいたそれはなまるぬくなっていて、淹れてからそれほどに時間が経ったのかと驚きながら残りを一気に飲み干した。
『世界はまるで、私を──』
「あぁ、違う。これじゃあ伝わらない」
プロットが完成したところでその後の執筆が滞りなく進むかと言えばそんなことはなく、何行か書いては手を止めて頭を抱える、ということも少なくない。
食事を摂ることも忘れて終日書き続ける日もあれば、たったの一文ですら思い付かない日もある。
毎日異なるそういった状況の中で今日はあまり良い日ではなかった。
「珈琲、淹れ直すか」
一人でぶつぶつと呟き無精髭を弄りながら、軋む椅子から立ちあがり台所のほうへと体を向けたとき、久しぶりにインターホンが鳴った。
しばらくその音を聞いていなかったからか、今日この時間までテレビやラジオでさえも音に触れていなかったからか、その呼び出し音に笑えるくらい心臓が騒いだ。
誰かにワッと驚かされたような、運転中に子犬が飛び出してきたような、そんな感じに。心臓の音が全身を巡り、耳の内側から響いているようだ。
早くおさまれと、胸元を何度かさする。
「……はい」
今は誰の顔も見たくなかったから居留守を使う選択肢だってあったはずなのに、今回はそれを選ばなかった。
いくら誰にも見られていないとはいえ、呼び出し音ごときにあのような反応を示したことがたまらなく恥ずかしかった。
このまま何事もなかったかのように、珈琲を淹れるためにキッチンへ行く気にはならなかったのだ。
こういうところは、いつも変に拘ってしまう。
「お荷物届いてまーす!」
ドアを開けると、爽やかな青年が立っていた。段ボールを抱え、愛想よくこちらを見ている。
薄暗い部屋にいた俺には、彼はあまりにも眩しすぎた。ギラギラと照りつける太陽を見上げたときのように目を細めて見つめれば、配達員のその彼は、私にボールペンを差し出しサインを求めた。
念の為に伝票に書かれていた名前を確認すると、私のではない宛名だったことに気づく。
「あれ? 松倉 ……?」
「え?」
「あの、君さ、間違っているよ。私は原沢 で、松倉 は確か、隣の部屋の人だったはずだ」
受け取ろうとしたボールペンを押し返し、伝票を確認するように伝えれば、彼は慌てて住所の欄を見ると、ハッとした顔をした。一瞬だけ、彼の眉が上がる。
それから大袈裟なくらいに深々と頭を下げる。
「失礼いたしました。申し訳ございません」
驚かされて恥ずかしい思いをし、面倒だと思う人との関わりまでやらなければいけなくなってあげく、隣と間違われるだなんて溜め息が出そうになるけれど、この配達員さんに嫌な印象は持たなかった。
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