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第2話
「階を間違えたとか、隣の部屋と間違えたとか、こういうマンションなら仕方ないし、あまり気にしないで。それじゃあ、失礼するよ」
今なら素直に珈琲を淹れられる気がすると思いながらドアを閉めようとしたとき、隙間に手を入れて阻止した彼が「待ってください!」と大声で叫んだ。
思いっきり指を挟んでしまったことに戸惑う私を気にすることなく、ドアをこじあけ足を一本滑り込ませてきた。
指の心配をしていたけれど、こんな強引なことをされるのであれば、さすがににこやかな対応が難しくなる。
「……何なんだ?」
用があるのは隣の部屋なのだから、私に構う理由は何もないはずだ。それなのにどうして、彼は私を引き留めるのだろうか。
何なんだ? と返した声には不機嫌さが滲んだ。嫌な印象は持たなかったとはいえ、不必要な関わりは避けたい。
そもそも最近は髭だって生やしっぱなしで、見る人によっては不潔だと思うだろうし、着ている服だって床に投げていたものを適当に選んで着ただけだ。洗濯したての、清潔な衣類ではない。
こんな爽やかな好青年を前にすれば、私だって恥ずかしく思ってしまう。
「原沢 さん、下の名前は何ですか?」
「え?」
「あの、俺も原沢 なんです。下は弘明 って言います。弓と片仮名のム、の組み合わせの弘に、明るいと書いて、弘明 です。原沢 だと同じ名字なので紛らわしいと思うんです。下の名前教えていただけないでしょうか?」
「隆義 だけど……」
「隆義 さん! どんな漢字を書きますか?」
「隆起するの隆に、義理の義だが……」
「それで隆義 さんと読むんですね。ありがとうございます。ではまた」
帽子のつばを軽く上げ、さっきよりもはっきりと私に顔を見せた彼は、思ったよりももう少し若い印象に見えた。つばの下から覗いた前髪は、癖っ毛なのか柔らかそうだ。
彼は照れたように微笑み、隣の部屋の前に立った。インターホンを鳴らし、「お荷物届いてます」と同じように叫ぶと、再びこちらを見てまた私に微笑んだ。
視線がぶつかると同時に、なぜか私の心臓が騒ぎ始めた。
「……っ」
約五十年という人生を重ねてきた私にはなくなってしまった純粋な心を彼に見た。だからあんなにも笑顔が眩しいのだ。
今度こそ玄関のドアを閉め、たまに忘れる鍵をすぐにかけた。ついでにドアノブの上下に付いている二つの鍵まできちんと。踏み込まれたくないところに踏み込んできそうな笑顔だったから。
「……って、名前……」
反射的に答えてしまったけれど、私の名前を知る必要がどこにあったのだろう。
原沢 という名字が同じでそれに反応した彼が自分の名字を私に教えるまでは理解できる。それで終わりで良いはずなのに、私の名前を教えてほしいだなんて。
紛らわしいとは、一体何が? 彼と私で会話をするわけでもないだろう?
珈琲を淹れ直す気分ではなくなり、薄暗い作業部屋へと戻った。
眩しい彼を見ていたからか、心地良いはずのこの部屋で落ち着かなくなり、珍しく電気をつけた。
今日はもう小説を書く気にもならない。握りしめていた電気のリモコンを机に置き、気分転換にシャワーでも浴びようと風呂場へ向かった。
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