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 もうステュの意向は決まっていた。  当てのない旅に心は向かっていた。 (海へ出れば、きっと勇者様の足跡がどこかにあるはず)  名の知れた勇者。一目姿を見ようものなら、皆が記憶するだろう。運がよければ助けられた人間に行き着くかもしれない。 (残された足跡を一つずつ追っていけば) 「いつか勇者様に辿り着く――……」  そのときだった。  荒々しい風が屋根裏部屋に舞い込んだ。  テーブルの上で倒れた空の花瓶。手負いの翼さながらに騒がしく暴れるカーテン。今にも外れそうな勢いで前後に揺れる格子窓。  なかなか怖い。  暗闇から「悪しき魔物」がぬっと出てきそうな……。 「ヒィ……怖ぃぃ……」  ランプの火まで揺らめき、ステュの顔は強張った。おっかなびっくり立ち上がると、へっぴり腰で窓辺へ近寄る。  忙しなく開閉を繰り返す窓を閉めようとしたら。  暗闇からぬっと伸びてきた手がステュの手首を掴んだ。 「ッ……ッ……ッ……!!」  ステュは喉に悲鳴を詰まらせた。食べられる。緊急事態に咄嗟に反応できずに、立ち竦んだ。 「俺を呼んだか、ステュ」  ステュは目を見開かせる。  屋根裏部屋の窓から現れた黒き勇者に心臓が止まるかと思った。 「どうした。心臓でも止まったか?」  腰が抜けたステュはディナイをひたすら見上げることしかできない。  軽い身のこなしで屋根裏部屋へ入ってきた彼は、窓を閉め、鍵をかけ、床に蹲っているステュの前で屈み込んだ。 「お前な、悪しき魔物にでも遭遇したみたいにビビるんじゃねぇ」  額を小突かれたが、痛いという感覚はなかった。  ステュは、まだ、ただただ目の前のディナイを見つめることしかできずにいた。  何故、いきなり窓から入ってきたのか。そんな当たり前の質問も出てこない。  どうして長い間戻ってこなかったのか。今までどこにいて、何をしていたのか。  胸に溜め込んできた問いかけすら口にできなかった。  思考は一時停止し、感情がうまく纏まらない中、ステュの口は勝手に開く。 「勇者様、それ、どうしたの」  ほぼ一年前に会ったときよりもディナイの髪は伸びていた。鋭い目に前髪の先がかかっている。  片方の瞳にだけ。 「あ、そっか。今日はお客様の真似して来たんだ。だからソレつけてるんだね」  片方の瞳はアイパッチで隠されていた。 「そうだよね?」  ディナイは首を左右に振った。 「あ、そっか。今日はお祭りの日だって勘違いしたんだ。そっかそっか」 「ステュ」 「だって、勇者様、みんなの勇者様だもん。べらぼうに強いから、深手なんか負うわけ――」 「この片目は悪しき魔物にやられた」  ディナイはステュの頭を撫でながら、片目の視力を失った経緯を端的に明かした。 「毒の息吹に眼球一つだけで済んだのは幸運だった」 「幸運?」 「ああ」 「片方の目が毒でやられて幸運? それって幸運だって言える?」 「そうだ」 「もう一生見えないの?」 「そうだ」  ふと、視界に収めたディナイがぼやけ、ステュは「あれ?」と小首を傾げた。 「こうして戻ってこれた。幸運以外に何がある?」  ディナイに頭を撫でられている内に、今の今まで堪えてきたものが、とうとう爆ぜた。 「……ステュ」  堰を切ったように泣き出し、しゃくり上げるステュを、ディナイは抱き締める。  抱き締められたステュは、視界がもっとぼやけて、目を瞑った。 (勇者様は片方の視界を永遠になくしちゃった)  そんなことを思ったら涙が止まらなくなった。 「この泣き虫が」  ディナイは堂々と悪口を言う。泣きじゃくるステュの背中をポンポンと叩きながら。 「でかくなっても変わらないな、お前は」  大きな掌から注がれる安心感。  出会ったときと変わらない、温かい懐に顔を突っ込んだステュは、頑丈な腕の中で久し振りの再会をあどけなく貪った……。

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