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エピローグ

 夜明けと共に閉ざされる娼館の門。  朝がやってくる。  新しい一日が始まる。  二人の新しいこれからが。  たった一度、三日三晩かけて通り抜けた深い森。  そこは新たな魔物の住処となっていた。 「下がってろ、ステュ」  護身用のダガーを握ったステュは、言われた通り、背後に聳える巨木の根まで後退した。  頭上高くでは枝葉が四方に張り巡らされ、昼でも暗い森の中。  刃がぶつかり合うような耳障りな音を立てて現れたのは、死神の鎌さながらに鋭い前脚を六本持つ、巨大化したカマキリの如き「悪しき魔物」であった。  二本のショートソードを両手にし、姿勢を低くし、ディナイは構える。  隻眼の元勇者の戦いぶりを、ステュは固唾を呑んで見守った……。  二人は旅の途中だった。  いや、まだ始まったばかりであった。 「大好きよ、ディナイ様、スーちゃん」  ステュはディナイと共に娼館を去った。娼婦の一人一人とハグをし、アーリアとニタとシェラからは鱗のお守りをもらった。綺麗好きで恥ずかしがり屋の「善き魔物」達とも、旅立ちの日にして初対面を果たし、娼館の住人の皆とサヨナラの挨拶を交わした。 「ステュ。貴方も兄と同じように特例よ。花巡りに疲れて翅を休めたくなったときは、私達の元へ帰ってきて」  ミツバチ扱いしてきたシンからは額にキスをもらった。白百合の如き主人からの(はなむけ)に、ステュは舞い上がったものだった。 「いだだだ!」  ディナイに両頬を抓られて、すぐに地上に引っ張り戻されたが。 「ステュ、ノ、シアワセ。ココデ、イノル」  ローザの囁きは、寝物語を紡ぐように優しい音色で、庭園の中で蕾だった白バラは次から次に開花した……。  ――特に目的のない旅だった。  世界を見たくないか。ディナイに問われ、ステュが笑顔で頷いて、そこから始まった。計画もろくに立てていない、自由気ままな二人旅であった。  ただ、旅の出だしのみ、明確な目的地があった。 「勇者様さ、前より強くなったんじゃない? 勇者業、まだまだ続けてもよかったのでは?」  質素で動きやすい服の上に、フードのついたケープを纏い、背中に荷物袋、肩からも斜め掛けの鞄を提げたステュは、隣を歩くディナイを見上げる。 「あのロングソード、売らなきゃよかったのに。ブンブン振り回す姿、せめてもう一回くらい見たかったなぁ」 「あれは重くて嵩張る」 「へぇ。無理してたんだ。知らなかった!」 「無理なんかしてねぇ」 「いだだッ、いだだだだ!」  長い髪を括るリボンをフードの下に覗かせたステュは、頬を抓られて悲鳴を上げる。  ――相も変わらず、遭遇する度にあっという間に魔物を打ち倒す彼と歩いて、歩いて、二日二晩かけて森を抜けた。 「――あったーーー!!」  天気のいい昼下がり、自分達以外に誰もいない村の一角でステュは見つけた。 「あったよ、勇者様! 無事だったよ!」  昨今、無人になったと思われる静寂の土地に喜びの声が響き渡る。  かつての住まい、空気の淀んでいた納屋から外へステュは飛び出した。納屋の正面となる、崩れた石垣の前で待たせていたディナイの元へ、一目散に駆け寄る。 「ほら!」  胸に抱いていた絵本を得意気に突き出してみせた。 「俺達二人が出会った証だな」  みんなの勇者様を引退してもディナイはやはり黒ずくめだった。  周囲に巡らせていた鋭い視線を和らげると、古ぼけた絵本の表紙をなぞる。 「少し歩くか」  こぢんまりした村の中心に位置する、井戸のある広場を目指してステュは彼と共に歩き出した。  大きな獣……いや、魔物のものと思われる爪痕が煉瓦造りの家々の壁にいくつも残されていた。  触手の魔物はディナイが退治した。ステュが去った後、別の「悪しき魔物」の襲撃に遭ったに違いない。  到着する前に森でディナイが倒した魔物か、それとも別の個体か。いつの話で、住んでいた村人がどうなったのか、何もわからなかった。  ただ、闇雲に生贄を捧げ、元の生活を取り戻そうとした人々だ。きっと「生」への執着も凄まじいことだろう。 (死ぬ気で森を抜けて、みんなどこかで暮らしてる、絶対そうに決まってる……俺みたいに……)  ディナイが足を止めた。  村人が消え失せても水を湛え続ける井戸。四方を囲む建物の外壁には縦横無尽に蔦が這う、日当たりのいい広場で、ステュは彼と向かい合う。 「片目を失ったとき、俺の中で天秤が決定的に傾いた」  ステュが被っていたフードを外し、日の光に照らされて輝くハチミツ色の髪をディナイは撫でた。 「お前と一緒に生きたい。誰よりもお前を一番に守り通したい。だから俺は勇者失格だ」 (この場所で、小さかった俺が転ばないよう支えてくれた)  再会してからも、そうだ。手負いになる前に素早く支えて、隙だらけだったこの器を守り続けてくれた。  がむしゃらな涙まで受け止めてきたディナイにステュは約束する。 「俺も守るよ、勇者様のこと」 「だから、もう勇者じゃない。夜は名前で呼んでくれてるだろうが」  恥ずかしさが勝って、まだ呼び捨てにするのに抵抗があるステュは、過剰に赤面しつつ言い返した。 「だって、みんなの勇者様はやめたけど、今は俺専属の黒き勇者様でしょ? それなら勇者様って呼んでも変じゃない!」  誰も彼も忘れ去ったとしても、自分達だけはこの先ずっと覚えていたい、二人が出会った場所。  十九歳になったばかりのステュは、居ても立ってもいられなくなった。絵本を持ったままディナイの胸に飛び込んだ。 「俺、もう離さない」 「俺の台詞を横取りするな、ステュ」 (どれだけ時間がかかってもいい、強くなる)  この大きな器と、あったかい魂の拠り所になりたい。  誰よりも恋しくて守りたい人。彼の命綱であり続けたい……――。 「病めるときも健やかなるときも、お前と一緒にいると誓う、ステュ」 「俺も、どれだけお腹が空くときも、勇者様と一緒にいるって誓う」 「喜びのときも、悲しみのときも」 「足の小指ぶつけて痛いときも、魚と格闘してずぶ濡れになるときも」 「お前のは限定的過ぎる」 「いつだって、どんなときも!」  ステュはディナイと誓った。  互いを守り合う、無敵の愛を。 end

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