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第2話 結城との出会い

 市五郎が結城真人(ゆうきまなと)と出会ったのは、数週間前。七月に入ったばかりの、なんでもない日だった。  市五郎の趣味は散歩だ。執筆の合間、気分が向いた時、天気の良い日、暇さえあれば街をぶらつき人間ウォッチングをするのが日課になっている。  世の中にはいろんな人間がいて飽きさせない。小説のネタ探しにもなる。いつも散歩の途中で寄る喫茶店の指定席も、窓から通りを歩く人々を眺められるお気に入りの場所だった。  毎日散歩をしていれば、微笑ましい光景や、驚くような出来事にも遭遇する。何かを心に感じた時、市五郎はすかさずいつも携帯している手帳にひらめきを書き綴った。  市五郎は小説家である。しがない三流の物書きだ。ペンネームは『高山市五郎』これは本名でもある。  独身で、五ヶ月後の十二月には四十八歳になる。ベストセラーを毎年バンバン出す売れっ子作家とは違う世界にいる物書き。なにしろ「先生」と呼ばれたこともないし、家でキーボードを叩いていて「原稿はまだですか?」と催促されたこともない。時間にルーズなのが好きではなく、ゲラの直しなどは散歩がてら出版社まで持ち込みに行くのを常としている。要はそこまでの仕事量を抱えていないだけの話だ。  その日は七月にしては過ごしやすい日だった。  薄曇りで風も吹き、空気もカラッとしている。  市五郎は夕方を待ち、外出の準備を始めた。オフホワイトのワイシャツへ袖を通し、袖口を二回折り返す。紺色のスラックスを履き、ワイシャツの裾をしまってベルトを留めた。スラックスのポケットへ財布と手帳を入れ玄関へ向かう。夏の履物はもっぱら雪駄せっただった。裸足の足を鼻緒に引っ掛け玄関ドアを開ければ、思った通りちょうどいいぬるさ。エアコンでいつの間にか冷えた四肢に染みるようだ。  夕暮れの気配を忍ばせる空を仰ぎ、市五郎はゆったりとした足取りで古びた門扉もんぴをくぐった。閑静な住宅街を抜け、駅方面へ向かう。  さほど歩くことなく店舗が並ぶ賑やかな通りへ出た。馴染みの本屋へぶらりと立ち寄ると、小説コーナーに平積みされたハードカバーが目に留まる。 『探偵Sの失踪』暗い夜道に光るナイフと探偵のシルエット。白抜きで大きく結月総一郎ゆづきそういちろうの名が大きく浮かんでいる。 「新作か……」  結月総一郎は大物作家だ。重厚な物語を得意としていて、サスペンスやミステリー色が強い。書いたものはすぐにドラマ化するし、映画化されたものも何本かある。物書きで知らない人間がいないのは勿論のこと、読書好きなら誰でも知っている名前だ。その結月総一郎の人気シリーズに探偵Sがある。探偵Sの〇〇というタイトルはファンにはお馴染みのものだ。もちろんドラマ化もされており、二時間ドラマの常連。同じ物書きだが、ステージがまったく違う。市五郎からすれば雲の上の存在といえよう。  憧れやライバルとは程遠い存在。  己と比べる次元でないことを重々承知しながらも、総一郎と市五郎。名前からして敗北を感じてしまう。 「コンスタントにこれだけ書けるってすごいなぁ」  ひとりごちて新刊コーナーにある小説をひととおりチェックする。気になる作品が他にもあり、散歩帰りにまた寄ろうと考えつつ書店を出た。  次に向かうのはいつもの喫茶店。コーヒーを飲みながらの人間ウォッチングだ。行き交う人の表情や仕草、その服装から彼らの人生を妄想し、物語のネタを見つけるのだ。  一時間ほど人間ウォッチングを楽しみ、外の世界が藍色になった頃、市五郎は駅まで足を伸ばしてみることにした。駅チカのデパートでスイーツを買うのが目的である。ちょっとした自分へのご褒美だ。  市五郎はタバコ吸いだが、酒はあまり得意ではない。その分甘い物には目がない。涼しげなゼリーとフルーツが乗ったレアチーズケーキと、濃厚なショコラケーキ、それから少し考えて、筒状になったシュー皮にカスタードクリームが入ったコルネというスイーツを買った。 「保冷剤を入れておきますので、すぐにお召し上がりにならない時は、お早めに冷蔵庫へ保存して下さい」 「ありがとう」  ケーキの箱を手に持ち地上へ出る。その時ひとりの男性とすれ違った。  何が気になったのか市五郎にも分からなかった。ただ振り向き、階段を下りていくスーツ姿の男性の背中を目で追った。  男にしては首筋が白くてほっそりしている。綺麗だと表現していい。  なぜか顔を確かめたいという気持ちになったが、男性は振り向くことなく降りて行く。市五郎は後ろ髪を引かれるような気持ちを感じながら視線を剥がし階段を登った。  階段を上りきると、楽しそうな笑い声が聞こえてきた。高校生だ。  この時間になると学生が増える。女子の団体も可愛らしいが、男子の団体も純粋に可愛らしいと感じる。もう遠く過ぎ去った過去への郷愁もあるのかもしれない。二度と訪れることはないであろう青春の時。全てが純粋で、何気ない日々ですら輝きに満ちていた。  高校生たちの若さ溢れる笑顔を眺めていると、ふと二人の男子高校生が目に留まった。仲睦まじい様子に市五郎の頬が緩む。眺めているとフツフツと創作欲が湧いてきた。  手帳へ書き込むより家へ戻ろう。  市五郎はいつもより早足で家路を急ぎ、すぐさま先ほど見た光景をノートパソコンへ打ち込んだ。アナログを好む市五郎だが、時代の波には抗えない。目にした高校生男子達のほのぼのした様子や浮かんだプロットなど全てを打ち込み満足の吐息を漏らした。 「……はっ!」  買ってきたケーキの存在を突然思い出す。市五郎は周りをキョロキョロと見た。無い。和室の中に箱が見当たらないし、冷蔵庫へしまった記憶もない。慌てて立ち上がり玄関へ行ってみると、靴箱の上に白い箱が置いてあった。  しまったと後悔しながら箱を開ければ、中のスイーツは汗をかきデロデロに溶けてしまっている。 「ああっ……」  唯一無事だったのは、保冷剤の近くにあったコルネだった。市五郎はコルネを冷蔵庫へしまい、軽い夕食を済ませたあとコーヒーを淹れ、食後のコルネを楽しんだ。そして一応満足し、短編小説に取り掛かった。  翌朝、市五郎は送られてきたゲラの直しを携え、エーゼット出版社へ向かった。最初はそうでもなかったが、歩いているうちに徐々に腹が痛くなってくる。  まずい。もしや昨日のコルネのせいだろうか……。  出版社へ着き、担当編集者である森に挨拶する前にトイレへ駆け込む。便器へ座り腹痛からも逃れホッとしていると、外の会話が聞こえてきた。 「……で、その作家さんはどんな方なんですか?」 「そうだなぁ。渋い感じの人だよ。長身で姿勢もいいし見た感じはモデルや俳優みたい。物静かな人だけど、スイーツが大好きでね。意外におちゃめなんだ。気難しい人でもないし。心配しなくても大丈夫だよ」 「いや、心配というか……ちょっと緊張してしまって。かなり年上だし、男性なので」 「そっか、男性は初めてだったね。まぁ、大丈夫だよ。ん? 結城はしないの?」  ん? この声は森さん?  森は市五郎の担当編集者だ。耳を澄ますと、結城と呼ばれたもうひとりの男の声がした。 「あ、はい。僕は大丈夫です。男性なのにBLを書かれるんですね。元々BL作家の方なんですか?」  この声は聞いたことがない。若々しいが、おとなしそうな印象だと市五郎が考えていると今度は森の声がした。 「いや、いろいろ書ける人だよ。ジャンル問わずだね。でもBLに関しては意外だったかな」  あ、これは……もしかして私のことなのかも? 「そうなんですね。他にはどんな物を書いてらっしゃるんですか?」  水の流れる音。その後に手洗いの水道を使う音が二つ。 「手は洗うのか」 「ええ、一応」  森の半分笑ったような呆れ声の後に、先ほどの若者の声がした。穏やかで耳心地のいい声をしている。二人の話し声はだんだん遠ざかっていった。  市五郎は肩の力を抜き、ふたりの声が完全に聞こえなくなってから個室を出た。  自分がいないと思われているところで、己の話を聞くのはヒヤヒヤする。唯一気を許している森であっても、悪口を言われなくて良かったと、市五郎は胸を撫で下ろした。  いつもの段取りでミーティング用の応接コーナーに案内される。数分待っていると森がやってきた。先ほどの会話については一切触れず市五郎が森へ挨拶すると、森が「こんにちは。わざわざすみません」とゲラを受け取りながらなんの前触れもなく爆弾発言をした。 「突然で申し訳ないんだけど、今日から高山さんの担当が変わることになってね」  サッと市五郎が青ざめる。  さきほどのトイレの会話はこういうことだったのか。  市五郎と森は作家と編集者として数年来の付き合いがある。人見知りでもある市五郎にとって、唯一「知り合い」と言える編集者でもあった。ショックを受けた市五郎は愕然としたまま森を凝視するしかない。 「へ……森さん、担当、変わっちゃうんですか?」 「うん。悪いね。抱えてる作家さんが増えてしまって、しばらく手一杯になりそうなんです。新人さんを担当することになっちゃって」 「はぁ」  新人作家の指導が大変なことは理解できる。出版業界の常識から教えないといけないだろうし。そう思いつつ市五郎の表情は固まったままだ。森が取って付けたように笑ってみせる。 「大丈夫、安心して。新しい編集の結城君は若いけど、経験も積んでるし、若い分いろいろ刺激があって高山さんも楽しいかもしれませんよ?」 「は、はぁ……」  市五郎のような箸にも棒にも引っかからない物書きがワガママなど言えないことは本人も重々承知していた。だからといって「はいそうですか」と簡単には返事ができない。  市五郎が脱サラして物書きになったのも書くことが好きだからという理由だけではない。毎年現れる新しい顧客や右も左も分からぬ新人、仕事のできない上司。その他もろもろの煩わしい人間関係に疲弊したところに、妻の不倫が発覚。さらに溺愛していた娘までもが不倫相手との間にできた子供だと妻から暴露され、何もかもから遠ざかり、孤立しようと選んだ道だった。  家族で暮らしていたマンションを売り払い、祖母の家に転がり込んだのは十年前だ。  祖母との暮らしは静かだったし、それなりに楽しかった。日常生活は平穏で介護などもとくに必要なかった。九十三歳で大往生した祖母を送り出してからはずっとひとり暮らしをしている。それが自分には向いていると市五郎は感じていた。自分も祖母のように年をとり、ある時期になったら眠るように亡くなるのだと漠然と想像した。  もう女性はコリゴリだし、この年になって一から信頼関係を築くのはとてつもなく億劫だ。唯一親しく話せるのは自分を拾ってくれた編集の森だけであり、それで十分だと思っていたのに。  私の担当は森さんだけです! と、言いたいところをグッと堪える。  人見知りだが、もういい大人だ。分別はわきまえている。 「結城君」 「はい」  森の声かけに、パーテーションの向こう側で誰かが返事をする。さきほどトイレの個室で聞いた声だ。すぐにスーツ姿の若い男性が現れた。小さな顔に眼鏡を掛けている。男はソファに座るでもなく森の後ろに立ち、市五郎を慎重な眼差しで見つめた。その視線に市五郎がたじろいでいると、男の唇が開いた。 「結城と申します。よろしくお願いします」 「はぁ」  男は深々と頭を下げ、ソファをグルリと回り名刺を差し出してきた。会社を捨てた市五郎は名刺など持っていない。両手で名刺を受け取ると印刷してある名前をジッと見た。  結城真人……ユウキ……マサト? と読めばいいのだろうか? 「マナトです。ユウキマナト」  市五郎と同じように名刺を覗き、彼は視線を上げて市五郎を見た。  眼鏡越しに見上げる瞳には愛嬌がある。つるんとした頬。ふわっと香る透明感のある匂いに気づき市五郎はハッとした。  昨日、駅チカの階段で擦れ違った男性を思い出す。  首筋がほっそりしたあの彼ではないか? 何かに誘われるように振り返った……あれはこの香りのせいかもしれない。

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