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第3話 結城真人との出会い 2
瞳で微笑む彼に、市五郎は咳払いをしながら慌てて自己紹介をした。
「ん、んんっ。あ、た、たか、高山市五郎です。どうぞ、ご指導、ご鞭撻のほどを……」
年の離れた若者にゴニョゴニョ言いながら、慌てて目を伏せて頭を下げる。ひとり動揺しているのが気恥ずかしい。
市五郎は気持ちを落ち着け、もう一度目の前の新しい担当者を見た。スラリとした今時の青年だ。あまり身長は高くない。編集者経験ありとのことだけれど、そんなふうには見えない。昨日まで大学生でしたと言われても納得してしまいそうだ。
市五郎が考えていると、結城はもう一度礼儀正しく頭を下げた。どもる市五郎とは違い落ち着きがある。ポーッとその仕草を見て、己が椅子に座ったままなのに気付いた。いくら学生みたいな風貌でも、編集者に変わりはない。市五郎は慌てて立ち上がり、もう一度「宜しくお願いします」と頭を下げた。
市五郎は上背が百八十七センチある。立ち上がると、結城はちょっと目を開いて見上げるような仕草をした。
昨日、駅で見た小柄な男子高校生たちよりは多少身長はあるようだが、お世辞にも立派な成人男性には見えない。市五郎は考えながら社交辞令用の笑顔を作った。
「こちらこそ。若輩者ですのでご指導よろしくお願いします」
市五郎を仰ぎながら、結城が微笑むその表情は穏やかで、どこか安堵しているようにも見えた。
「じゃあ、私はこれで。あとはよろしく頼むよ」
「はい」
森は結城に目を向け、市五郎に軽くお辞儀をして行ってしまった。森の背中を見送り、所在なく立ったままの市五郎へ結城が「どうぞ」と座るように促す。
「あ、はい……」
市五郎は初めて入った診察室で緊張する患者よろしく、ソファへ座りなおした。市五郎が腰を下ろしたのを確認し、結城も正面へ座る。
「今日は原稿をお持ち頂いたとか」
「……あ、えっと……」
一瞬躊躇したが、結城はもう市五郎の担当なのだ。恥ずかしいなどと言っていられない。自分ではいい出来だと思っているのだ。渡すしかないではないか。
市五郎は観念して同意した。
「はい。こちらです……」
「ありがとうございます。こちらはあとで拝読するとして、昨日送っていただいたデータを拝見してもよろしいでしょうか? お見えになる前に済ませておくべきなのですが、先ほど移動の話を受けたばかりでして」
「どうぞ」
手を差し向け会釈する。結城がノートパソコンを開き、さっそくチェックに入る。
指の背で眼鏡の位置を整え、結城の視線が上下する。そのたびに、長いまつ毛がゆっくり動いている。しばし流れる沈黙に市五郎は唇を結んだ。
タバコが吸いたい。
うずうずとした焦り。市五郎は貧乏ゆすりしてしまいそうな膝をグッと掴み衝動を抑えた。
短編だから読むのに時間はかからない。しかし結城はたっぷり時間をかけてその短編をチェックしていた。読み終えた結城の視線が市五郎へ向けられる。
「学生モノですか。爽やかでいいですね」
ふっと微笑んだ表情は、市五郎に妙な安心感を与えた。ここから厳しく指摘が入ることも多々あるのにどうにも和んでしまう。
「ではこちらの原稿は預からせていただきます」
「あ、はい……」
市五郎は返事をしてから思った。「もっとここをこうした方がいい」とか、「淡々としすぎだ」とか、そういうアドバイスや指摘はないのだろうか?
アッサリした返事に拍子抜けしてしまう。
結城はパソコンを閉じて脇に抱え立ち上がった。慌てて市五郎も立ち上がる。結城はハキハキした口調で言った。
「また、こちらからご連絡いたします。これからよろしくお願いします」
「は、はぁ……。あの……」
「はい」
「その、森さんからは、その、良い物が描けたらどんどん持ってきてね、と……言われていたのですが……」
これからもそのスタンスでいいのだろうか? それとも、毎月の短編の仕事だけで結構です。と言われるのだろうか?
市五郎がドキドキしていると、結城が頷きながら微笑んだ。
「えぇ、それはもう。是非お願いします。本にするお手伝いをさせて下さい。お待ちしています」
ハッと息が詰まり、同時に市五郎の心臓がズキンと打った。
本にするお手伝い────。
社交辞令であっても市五郎には鮮烈な言葉だった。
「あ、……頑張ります。こちらこそお願いします」
市五郎はドキドキ走る胸を誤魔化すように撫で、もう一度頭を下げた。なにかもっと気の利いたセリフを言えないのかと焦り、森に買ってきた土産があるのを思い出した。
「あっ! あ、甘い物は好きですか?」
「甘いモノ?」
結城がキョトンとした表情で見返す。幼い顔立ちがますます幼く見える。高校生でも通用するのではなかろうか。ついマジマジと見ている己に気づき、市五郎は早口でまくし立てた。
「え、駅前のデパ地下で買ってきたのです。良かったらどうぞ。中身はフルーツゼリーです。あ、保冷剤は入っていますが、お早めに」
「へー、ありがとうございます。甘い物って良いですよね。おやつにいただきます」
結城はパソコンをテーブルに置き、土産を両手で丁寧に受け取ると軽く会釈して微笑んだ。
物腰が柔らかで、言葉遣いもそつがない結城に市五郎は感心した。
見た目は学生のようだけれど、思ったよりしっかりしているのかもしれない。最初は少し緊張している様子だったが、少なくとも、私よりよっぽど落ち着いている。
「……では、今日はお時間を頂きありがとうございました。これからよろしくお願いします」
結城の言葉に、市五郎もペコペコと頭を下げた。
出版社の入ったビルディングから外へ出ると、たちまちサウナのような蒸し暑い空気に包まれた。
空を見れば雲ひとつない。太陽光線が照りつけたアスファルトは人間の立っていられる場所ではなくなっていた。卵を落とせば目玉焼きが作れることだろう。
こんなに暑いと流石に人間ウォッチングしながらの散歩も億劫だ。それに、緊張で少し疲れた。
「帰るか……」
市五郎は呟き、街路樹が作る影を縫うように歩きながら家を目指した。思い出すのは、先ほど出会った新しい編集者のこと。
ユウキ……マナト……
そういえば彼は何歳なのだろう。年下には違いないが、まだ二十代なのだろう。もしかして……二十代前半とか? 経験があるというのだから、大学を出たばかりの新人ではないとは思うが……。
ユウキ、マナト、どちらも名前みたいだ。
彼のイメージは「ユウキ」だと市五郎は思った。
「……ユウキ……ユウキさん……」
唇に乗せてみると、その名は柔らかく、可愛らしい印象になった。
頭の中は結城の控えめな微笑みでいっぱいになり、あの香りはなんだったのだろうと考え、帰りに寄ろうと思っていた本屋も素通りしてしまった。
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