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第4話 もうひとつの顔

 市五郎は夏が嫌いだ。暑いのも、湿度が高いのも。アスファルトを照り返す熱を感じると、心底うんざりして精神は削られ体調まで悪くなってしまう。  祖母から譲り受けた古い一軒家に独居の身となり、寂しさを感じる反面、毎年夏になるとこの家に住めることにささやかな幸せを感じていた。  昔ながらの土壁や畳には調湿作用があり、手のひらで触れるとヒンヤリして気持ちがいい。和室に寝転がり縁側から吹き抜ける風を感じると贅沢な気持ちになる。しかし庭に目を向ければ、見えるのは手入れの行き届いていない庭。あまり雑草が伸び放題だと風の通りも悪くなりヤブ蚊も発生する。  市五郎は仕方なく早朝に起床し、庭の草むしりを開始した。  蜩ひぐらしの鳴き声を聞きながらの作業は思ったよりも楽しい。朝日が顔を出し、気温が上昇する前になんとか雑草を抜き終え、庭石や松などにたっぷりと水をまく。一日分の体力を使い果たした市五郎は、縁側でゴロンと横になった。  うっすら汗をかいた体に涼しい風が心地いい。チリンチリン……と風鈴がかすかな音を立てる。草むしりに精を出したご褒美だ。  だがそれも長くは続かない。八時頃になるとジリジリと気温が上がっていく。天気予報では三十五度の真夏日になると言っていた。  市五郎はひと時の悦楽を諦めて縁側から退散した。和室のサッシと障子を閉め、エアコンをと扇風機をつける。  外から聞こえるのはもう軽やかで涼しげな音色ではない。暑苦しさを倍増させるセミの鳴き声が途切れることなく鳴り響いている。  こんなに暑いと外へ一歩も出たくなくなる。趣味の散歩も人間ウォッチングも、あの喫茶店のコーヒーもお預けだ。なんとも忌々しい。 「だから私は夏が嫌いなのだ」  妻である彩子の不倫が発覚したのも十年前の夏だった。  その頃には夫婦関係は既に冷え切っていて、彩子は無断外出しては夜遅く酔っ払って帰ってくるという生活を続けていた。  元々の相性が合っていなかったのだ。  彩子は美人で社交的で気が強く、アルコールに関しては酒豪と呼べるほどだった。自己顕示欲も強く、羨望の眼差しで見られたいがために、見栄えの良い市五郎を夫に選んだ。勿論、一流企業で働く男と結婚することもステータスだった。  しかし市五郎の内面はというと、実直で趣味は読書と映画鑑賞。  生まれてきた可愛い娘のため、奔放すぎる妻の振る舞いを大目に見てきた市五郎だったが、彩子に他に好きな男がいることがわかり潔く身を引こうと離婚を申し出た。無論、娘の親権を譲る気は無かった。しかし、話し合いの最中、彩子が携帯画面を市五郎へ向けた。そこには知らない男と娘のツーショットがあった。 「見てわかるでしょ? この人がこの子の本当の父親なの。申し訳ないけど、あなたに権利はないのよ」  脳天に電撃をくらい、聞こえるのはけたたましく鳴り響く蝉の声だけだった。  気が付くと部屋はすっかり冷え切っていた。  知らない間に眠っていたようである。障子を開ければ縁側の向こうの庭は太陽の反射で眩しく、市五郎がまばたきすると暗い部屋の中で光の残像がチカチカ浮かんで消えた。儚い残像は市五郎の結婚生活のようだった。 「ふー」  もう、遠い過去のことだ。   空腹を感じた市五郎は蕎麦を茹で、軽い昼食を済ませた。エアコンの効いた部屋でパソコンに向かう。文字を打ち込みながらも浮かんでくるのは、新しい担当編集者の優しい微笑みだった。 『えぇ、それはもう。是非お願いします。本にするお手伝いをさせて下さい』  こんな私に、彼は心からの言葉をかけてくれた。  真摯な瞳は澄んでいて、誠実な人柄なのも伝わってきた。森さんがいなくなるのは不安だけれど、彼となら信頼関係を結べるかもしれない。  名前はやはり結城さんがいいか、それとも長い付き合いとなるのだからもっと砕けた感じでマナトさんがいいか……。  次に会う時はなんと呼びかけよう。さり気なく呼べるよう練習しておかないと、またどもってしまうかもしれない。  などとくだらないことをつらつら考える。    本……夢のような話だ。  現在、短編を載せてもらっているだけでも有難いことなのに。  しかし、長編がないわけではない。最近はBLばかり書いているが、ハードボイルド系や、ミステリーも書いてはいる。ただ表には出していない。少しずつ形になりつつあるけれど、読み返しているうちにこれは本当に面白いのか? これが書きたかったのか? という迷いが生まれてしまう。ちゃんと完結させたら……彼に読んでもらって……。  そうしたら次こそ色々アドバイスも貰えるかもしれない。  将来のことはとりあえず置いておいて、次の締め切りまでに短編を一本、できれば二本完成させたい。  市五郎は一分ほど考え、キーボードを叩いた。  結城に原稿を手渡し、彼の微笑む表情を思い浮かべながら。彼が肩を寄せ、原稿のアドバイスをしてくれる光景を思い浮かべながら。早く会いたいという己の気持ちに気が付かないまま、筋張った長い指を軽やかに動かしていた。 「はぁ……できた……」  ぶっ通しで五時間、市五郎は最後に(了)と入力して、そのまま畳へゴロンと仰向けになった。目を閉じ、数分後にふたたび開ける。天井をぼんやり眺めていると「グー」と腹が鳴った。今日は昼に蕎麦を食べただけだったのを思い出す。  壁に掛かっている古時計を見れば六時。外はまだ明るいが出かけようと思い立つ。  この時間なら、暑さも和らいでいるだろう。  市五郎は起き上がり風呂場で軽く汗を流した。ベージュ色をした麻のスーツに身を包む。だがジャケットはやはり暑い。身なりと涼しさを天秤にかけ、涼しさを取る。市五郎はジャケットをハンガーに掛けなおし、麻のズボンと白シャツ一枚で家を出た。  外は生ぬるい風が吹いていた。エアコンの効いた部屋にいた身には厳しいが昼間よりは、はるかにマシだ。汗をかかないよう、ゆっくり歩を進める。  いつもの喫茶店は七時までの営業だ。馴染みのない店での飲食は緊張するが、腹はさっきからグーグー鳴りっぱなし。文字通り、背に腹は変えられない。幸い駅の周辺にはいくつも飲食店が並んでいる。市五郎は出来るだけ窓の大きそうな店を選び入店した。  店はイタリアンレストランだった。サラダとクリームパスタを注文し、暮れていく街を歩く人々を眺めた。  モッツァレラチーズとトマトのサラダを食べ、ほうれん草とサーモンのクリームパスタもペロリとたいらげる。食後のコーヒーを飲みながら腕時計に視線を落とした。七時半。さきほどまで藍色だった空も、すっかり夜の色だ。  ……どうしようか。もう一杯コーヒーを注文し、ティラミスのケーキも食べようか……。それともジェラートにするか……。どちらも美味しそうだ。いっそのこと、ティラミスとジェラートのセットにしてしまおうか……。  メニューを広げ真剣に悩みながら、フッと窓の外を見た。  ん?  妙に寄り添った二人の男性が、駅方面から歩いてくる。一人はスーツを着て、一人は迷彩柄のハーフパンツ。ベルトがだらしなくぷらんぷらんと腰からぶら下がっている。首回りがザックリ編んだサマーセーター。鎖骨が見えている。長い革紐のネックレスをし、手首にはファッションアイテムであろう革製のリストバンドのようなものを付けている。  妙な色気を放つ風貌に遠目ながら市五郎は目を引かれた。一目でそっち系だと分かる二人。彼らとすれ違う人も、こっそり振り返っている。当人たちは素知らぬ様子だ。  堂々としたカップルだ。なるほど、夜には夜の人間ウォッチングがあるということか。  短編をもう一本仕上げたい私にはもってこいじゃないか。これはデザートを楽しんでいる場合じゃない。  しかしどうする? 会計を済ませている間に、二人を見失ってしまうだろうか……?   伝票を手に考えていると、歩道の二人がこちらを見た。スーツの男が店を指さす。  ……え?  思いがけない接近。しかし、それ以上に市五郎が驚いたのはハーフパンツ姿の男の正体だった。近づいてくる二人に市五郎の目が大きく開く。  結城……さん?  

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