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一年後の二人
「梅雨というより嵐だよね、まったく」
店のガラス窓に激しく打ち付ける雨粒を眺めながらそんなことをぼやいているのは、和美のバイト先であるコーヒーショップのマスターだ。やや小柄で、伸ばした髪の毛を後ろで一つに結び、口ひげを蓄えている。見た目はいかにもな感じの喫茶店のマスターだ。だが、後姿を注意してみれば、項に噛み痕があるのが分かる。
「今日はもう閉めた方がいいかなぁ」
路地裏にひっそりとたたずむ店だから、そうそう目に付くものではない。客足が途絶えないほどの繁盛店というわけではいから、作り置きなんてしていない。住宅街から最寄りの駅に抜ける際に立ち寄られる率が高い。日中はちょっとしたくつろぎや、コーヒー豆を買いに来る客がほとんどだ。テイクアウトでコーヒーを買っていくには、こんな嵐のような雨の日は無理だ。傘をさしながら飲むのはテクニックがいる。まして、サラリーマンや、外歩きの営業職ではカバンを持っているから両手が塞がってしまいコーヒーを飲み歩くなんて無理なのだ。
少し前に雨宿りがてらにコーヒーを飲んでいった客が帰った後、誰かが来る気配はまるでなかった。通りを歩く人たちは、傘を傾けてさし、足早に住宅街に消えていく。
「じゃあ、機械止めますね」
和美はそう言ってスイッチを切ると、片づけを始めた。マスターはガラス窓にスクリーンカーテンをおろし、扉のプレートを裏返す。雨だから、もともと看板なんて出してはいない。こんな日の店じまいはいたってシンプルだった。
「ごみはまとめましたよ」
和美がそう言うと、マスターが振り返った。
「専門学校に通ってるんだっけ?」
ふいに言われて驚いた。
「はい。あ、いつが、通えって、言うから。調理師の資格とろおとおもって」
和美がしどろもどろに答えると、マスターは軽く笑ってくれた。
「いいと思うよ。武器の手数は多いに越したことはないからね」
マスターがそんなことを話していると、店の前に赤いワゴン車が停まった。
「もう、クローズしたってのに」
そう言いながらマスターがドアを開けると、一歩踏み出したところで固まった。
「か、ずよしくん。お迎えだ」
なんだか歯切れの悪い言い方に和美は首をひねりつつ、荷物をもってドアの方へと進んだ。
「うわぁ」
土砂降りの雨の中、赤いワゴン車の扉がゆっくりと開いた。
「かず」
雨音のなかでもはっきりと聞き取れるアルファの声に、返事はしないまでも体が素直に動いてしまう。そのまま乗り込めば、スライドドアはピッという音をたててしまっていった。
滑らかな走り出しでそのまま大通りに出たころ、ようやく和美は口を開いた。
「どうしたのこの車」
確か今朝はいつもの赤いベンツで大学まで送ってもらった。講義とバイトが終わった今、和美は荒城に勧められた専門学校に通うところだ。調理師の免許を取るためだ。ついでに技術も学べば自分で店を持つとき楽になる。と、いうのは建前で、和美が店を開いたとき、調理スタッフにベータやアルファの男が来ないようにするための荒城が考えた策だった。もちろん、クレーマーベータを黙らせる。というのは本当のことだ。
「どうしたのって、おめぇ……雨の日は傘をしまうのが大変だ。って、文句言ったのはかずだろうが」
運転席からなんだか歯切れの悪い声がした。何を言っているのか、和美には心当たりがない。まあ、確かに濡れた傘をどうしたらいいのか悩んだのは確かではあるけれど。
「少し食っとけ」
言われてよく見れば、目の前によく見かけるファストフードの袋があった。
「ありがと」
小さく礼を言って、中にあった包みを開いた。
梅雨の晴れ間は気温が一気に上がり、まるで真夏のようだ。そんな日はテイクアウトのアイスコーヒーがよく出るから、和美は氷の準備に忙しい。天気予報を確認して、前の日に氷を砕いておくのだ。そんな作業をしていると、和美はふとあの日の夜のことを思い出した。あの日、荒城に初めて会った夜、雨が降っていて、客足が途絶えたから早めの店じまいをして一人バス停に向かったのだった。雨の夜で、和美だけしかいないバス停で、そこに荒城の乗った車が現れたのだった。
物の見事に頭から水をかけられた。雨が降っていて、バス停で停るバスが長い年月をかけてくぼませた道路に水が溜まっていたのだ。そこをピンポイントで踏み込んで、バスを待っている和美に水をかけるなんて、随分と高等テクニックを持ったやつが運転をしていたものだ。あの時は、ずぶ濡れになったことで驚きすぎていたら、考える暇を与えないように荒城がフェロモンを浴びせてきたのだ。雨で重たい空気が、荒城のフェロモンを一箇所に留めた。
「本職の手際のよさだよな」
思い出してイラッとして、和美は手元の氷に八つ当たりをする。手元が狂わないようにアイスピックをつき立てれば、大きな氷は小さな塊へと姿を変えた。そんなことをしていれば、手袋をしていても指先はジンジンとして感覚が鈍くなる。適度に休憩を入れて、温かいコーヒーの入ったカップを手に取る。不思議な感覚に内心笑いながら、仕事の成果を確認した。
業務用の冷凍庫の扉を閉めながら、和美はふと思いついた。
今更だけど、一年ほど前の話ではあるけれど、あの日ずぶ濡れにされたことを謝ってもらった記憶が無い。そのまま発情させられたのだから。その後も色々ありすぎて、本当にイベントのオンパレードで、ようやく落ち着いた今現在、荒城と同居している。
「絶対に番わないからな」
そう、呟いて和美は必要なものをいくつか見繕った。もちろんマスターに断りをいれビニル袋にしまった。それをカバンに詰め込んだ。
そうしてあくる日、和美は事務所で仕事をしている荒城に差し入れのコーヒーを持ってきた。大学がないことは知れているから、バイト先のコーヒーショップのお持ち帰り容器を使い、自宅のキッチンでコーヒーをいれた。手提げの袋に入れてそのまま荒城に手渡す。
「悪いな」
手提げ袋の重さから、入っているのがコーヒーだけでは無いと理解した荒城は、丁寧に受け取り机の上に置いた。中に入っていたのは荒城好みのたまごサンドにホットコーヒーだ。梅雨時の重苦しい空気を無くすために強めに稼働させた空調で室内は少し肌寒かったから、温かい飲み物はありがたかった。いつもの通り、蓋を外して口をつけた途端、荒城が目を見開いた。
「ぐっ、はっ、って、つ、冷てぇ」
流石に吹き出すような失態はなかったものの、上手く飲み込めなかったコーヒーが荒城の口から零れ落ちた。
「あ、シャツ、なんで、コーヒーが」
手にしたカップの温かさに対して、口に入れたコーヒーのあまりの冷たさに荒城は脳内処理が追いつかない。口に入れた途端に細かい氷のつぶに驚いて、反射的にのみ込めなかったのだ。こればかりは優秀なアルファであっても、体の防御本能だからどうにもならない。
「ふっ、ははは、どう?冷たい?」
アイスコーヒーをシャツにこぼした荒城に向かって和美が笑いながら言った。事務所にいる全員が固唾を飲んで見守っているけれど、和美は気づいていなかった。
「どういうことなんだ」
ものすごい怒りが湧いたけれど、可愛い番が楽しそうに笑うから、荒城は大きく息を吐き出し質問をする。
「どうって、去年の仕返しだよ」
目尻に涙をためるほど笑った和美は、あっさりと答えた。
「仕返しだぁ、しかも、去年だと」
なんの事だか分からず荒城は軽く和美を睨みつけた。
「やだ、怖い。忘れたの?去年あんた俺に水ぶっかけただろ?バス停で」
言われてようやく思い出した。確かに去年、バス停に立っていた和美に、荒城は運転手に指示をして水溜まりの水を頭から浴びせたのだった。
「んぁ、アレのことか。って、今更?」
そんな一年も前のこと、荒城はすっかり忘れていた。確かに荒っぽい仕事ではあったが、別に怪我をさせたわけでもないし、その後はちゃんとケアしたから問題ないと思っていた。何しろいまは同棲している。
「今更じゃありません。俺はあんたにあのことを謝ってもらってないからね」
ちょっと頬を膨らませてそんなことを言うものだから、番が可愛くて仕方がない。
「あー、悪かった。謝る。済まなかった」
そう言いながら和美に近づいてくる荒城を軽く制して、和美はシャツのボタンにてをかけた。
「おい、こんなところで……」
慌てる荒城を和美は軽く睨んだ。
「ばーか、勘違いすんな。シミになるから、さっさと脱いで、こっち着て」
荒城のシャツをサラッと脱がせると、予備のシャツを取り出して渡してきた。
「今日は午後から専門学校だから、着替えて食べたら車出して」
「ああ」
和美は荒城の返事を背中で聞いて、そそくさと事務所を後にする。そうしてマンションの廊下に出ると小さくガッツポーズをするのであった。
「俺の番が可愛いねぇ」
防犯カメラのモニターを眺めて荒城がニンマリと笑う。もちろん事務所にいる全員はちゃんと仕事に集中していた。
「安心してください。誰も見てませんから」
誰かが大きめの声で独り言を呟いた。
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