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第2話

 さわさわと衣擦れの音を残しながら、常ならば特に何の感慨もなく、庭に目を向けては景色を眺めつつ、ゆるゆると歩む渡殿を、今宵の旭はわき目も振らずに橘森繁の娘、朔宮の住まう院へと向かっていた。  彼を迎える準備がすっかり整った姫の住まう院で、旭は森繁と対面した。父親といえど後宮の床を踏むことが許されぬ森繁は、庭先に床几を置き、そこに坐していた。庭先の濡縁に腰を下ろした旭に、女房があわてて座を作ろうとするのを、掌を向けてとどめ森繁を見る。 「聞かせてくれるのであろう」  主語は必要ない。その話をするためだけに、旭はここに来た。  無言の言葉にわずかな憤りを滲ませつつも、慇懃(いんぎん)に頭を下げた森繁は旭を見、ちらと娘に目配せをした。 「くだんの男、名を木曾(きそ)義直(よしなお)と申しまして、こぢんまりとした屋敷は、まるで荒屋のように庭を草の好きにさせておるそうにございます」 「荒屋」 「はためには、誰も住んではおらぬようにしか、思えぬとか――なれど、手入れが出来ぬほど食うに困っておるようではないようで、時折現れる物乞いに瓜を買い与えたりしておるそうにございます」 「普段は、なにをしておる。どのような役だ」  じわりと森繁の顔に下卑たものが広がり、旭は胸にくろぐろとした墨を落とされたような気になった。 「無位無官にございます」 「そのようなものが、我を哀れと申しておるのか」 「まぁ」  姫のものか女房のものかわからない、あきれた女の声が背後で起こった。それに目を向けることなく、旭は考え込むように顎に手を当てる。 「市に出てはさ迷い歩き、時折おかしなものを買い求め、それを別の場所で売っている、との話もございますし、僧侶の真似事で説法などをし、寄進を求めておるとのうわさもある、まことに奇妙な男であるそうで――その説法まがいの折に、帝が哀れと申したとか」  さわさわと、旭の背後で女たちが動いた。 「なんとも恐れ多い」 「そのようなことを申すなど」 「なにを思われてそのような話をいたしたのでしょう」  それらを聞き流しながら、旭は男の事を考える。 「一度、見てみたいものだな」  ぽろりとこぼれた言葉に、森繁がしたりと唇をゆがめた。 「されば捕らえてまいりましょう。帝におかれましては、朔とゆるりと過ごされながら待たれてはいかがかと存じまする」 「そうか。連れて来るか。ならば、今宵はここで朝を迎えよう」  飛び跳ねんばかりの気色を匂わせて、しずしずと立ち上り頭を下げた森繁の背が見えなくなるまで見送り、朔へ顔を向けた。ふわりとほほ笑む彼女の顔に、何の感慨も浮かばない。  後宮に送られる姫は皆、素養も美貌も持ち合わせていると言われているが、そもそも後宮にはそういわれている女しか――女房含め――存在していないので、旭には女に対する美醜の基準というものが、よくわからない。どの姫も同じように見え、同じように退屈な話しかせず、中には言葉をほとんど交わすことのない相手もいた。  琵琶など楽器の上手、歌詠みの上手などはあれど、どれもこれも皆、旭にとっては彼の子種を欲しがるだけの、つまらぬ木偶としか映らない。――父の言っていた通りだ。姫もその親も皆、興味の対象は我ではなく、我が落とす種を実らせることばかりよ。  そのために自分の関心を引こうとしていることが、透けて見える。旭を見、彼と対話し、彼を求めている者など居ないと思っている。それを嘆くでもなく、旭はあるままの状態で受け止めている。帝は“個”ではない。尊いがゆえに、唯一であるがゆえに、そうあらねばならないと言われ続けた。旭はそれに疑念を持たず、ただ従い、帝の位に就いた。それを、無位無官の男が哀れと言っている。――彼の者は、朝廷のことを知っているのだろうか。  かぶりを振り、あり得ぬことだと思考を払う。が、意識の端を掴んだそれは、頭から離れない。 「帝、こちらへ」  柔らかな声に導かれ、思考は木曾義直という男のことに縛られたまま、移動する。上の空である旭の様子を気に留めるふうもなく、女房は彼に茶を勧め、高坏に乗った菓子を差し出した。ふうわりと笑んでいる朔宮はなるほど愛らしいのかもしれないが、他の姫も似たような笑みを浮かべるので、気に留めるほどのことでもない。無意識に菓子を手に取り、口に運ぶ。――我も、同じなのかもしれぬな。  味を感じないままに噛み砕き、のどを通しながら思う。彼女たちが自分に興味がないように、旭も彼女たちに興味がない。淡々と役目をこなすのみ。そのためだけに、存在しているかのように。  旭にとって子を為すための行為は、無味の昼寝とさほど変わりのない事柄で、若い公達(きんだち)が姫君のことをうわさし、どこに通うか誰が文を送ったかと小鳥のようにさえずる気持ちが理解できなかった。けれど、それが旭の年――大人と言われ、子を為すための能力を持ち、性に目覚めた年頃の男の常だと言われれば、そう振舞うことが旭の仕事でもあり、周囲の意向に沿うように育てられた彼の日常でもあった。――そう、これが常なのだ。  それなのに、何処からか舞い込んできたものが、旭をそそのかし始めている。それは退屈なことだと。これは常ではないと。何かが足りぬと。そういう声が、どこからか現れては心を(さら)おうとする。そこに、帝を哀れと言う男が現れた。なに不自由なく満たされ、神と同等に崇められ、揺らぐことのない存在と称され、手に入らぬものはないと言われる彼を哀れと、無位無官の、ここに(はべ)る者たちが(あざけ)る存在であるはずの男が言った。 「みかど」  まるく、あまったるい、幼くも聞こえる声音で呼ばれ、顔を上げる。扇で顔の半分を隠した朔宮が、恥ずかしそうに瞼を伏せつつ視線を送ってきていた。それに手を伸ばしながら、旭はただ、男の事ばかりを考えていた。

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