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第5話
草がそよぐ音に包まれて、幼い旭は駆けていた。身の丈よりも上にある草は、旭の視界を覆いつくし、空と草以外は自分自身のみしかないような錯覚に襲われる。
――――ッ!
誰かの名前を叫びながら、幼い旭は走り続ける。体中が心臓になってしまったかのように鼓動がうるさく、弾けてしまいそうな不安に急き立てられるままに、かわり映えのしない草の間を、ただ走りさまよう。
―――――ッ!
叫ぶ声に応えがあった。立ち止まり、左右を見回しても草しか見えない。もう一度叫ぶと、また声がした。聞こえた方向に足を向け、再び走る。すると突然視界が開け、美しい着物が見え、あたたかく柔らかなものに抱きとめられた。それに強くしがみつくと、あやすように背中を叩かれる。柔らかく響く自分の名前とぬくもりに、幼い旭は全てを委ねた。
柔らかなものに抱かれている。ふっと匂った香に覚えがなく、旭はまどろみからゆっくりと抜け出す。――ひどく懐かしい夢を、見ていたような。
身を起そうとすると背中に手が添えられて、旭の動きを助けた。ぼんやりとした視界が黒光りする床板と、その先にある伸び放題の草をとらえ、急速によみがえった記憶に飛び起きる。
「ッ!」
旭は、義直の膝に抱かれていた。
「な、にが」
起こっているのか、と口にする前に乱れた自分を思い出し、顔に熱が集まる。そっと額に義直の唇がふれ、目じりに残る涙を吸った。
「これほど初 い身とは、思わなかった」
顔だけでなく体中が火照る。無礼な、と振りほどくことなど容易 いくらい、旭を包む義直の腕はふわりとしているのに、それを失うことが酷くもったいなく思え、唇をかんで庭に目を投じた。
「何故、手入れをせぬ」
「ん?」
「庭だ」
「野原みたいだろう」
頷きかけ、止まる。野原など、見たことがあっただろうか。
「手入れが出来ぬほど、貧窮しておるのか」
「俺が、無位無官なのは知っているか」
頷く。
「友が、俺の境遇を見かねて時折世話をする女を寄越してくれている。食べる物も、着る物も用意をしてくれる。その上、庭の事まで頼むのは、図々しすぎて憚 られる」
「その友は、庭の手入れをせよとは、言わぬのか」
そこで少し困った顔をして、義直は旭を立たせた。
「そろそろ帰らねば、ならんだろう」
失われたぬくもりに後ろ髪を惹かれながら、頷く。どのくらい眠っていたのかはわからないが、あまり長く居ると自分が不在であることに気付かれ、騒ぎとなるだろう。
「また、俺を調べに来るか。帝の、いや――帝の機嫌を取りたい者の指図で」
ふ、と何かが引っ掛かったような気がしたが、自分が何に疑念を持ったのかわからないまま、首を縦に動かす。
「なら、その時を待とう。もし俺が居なければ、好きに上がって過ごしてくれ。待てぬほどの時間になれば、帰ればいい。何もない屋敷だから、どこを探られても構わぬ。――待っている」
最後の言葉に絡め取られそうで、旭は逃げるように彼の前から去り、牛車に乗り込むと早く戻れと牛飼をせかした。戻る間、外を見る余裕もなく、すわり心地の悪さを思う隙もなく、旭は義直のことだけを浮かべていた。
両手を胸に添え、柔らかく包む声を、笑みを、腕を、浮かべていた。
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