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第8話

 帰りの牛車は、散々なすわり心地だった。ただでさえ心地の悪い場所に、ひりつくように痛む尻で座っているのは、過酷であった。だが、旭の胸には痛みを覆いつくしても余りあるものが抱えられている。 (繋がっているのが、わかるか)  義直の声が耳に残っている。痛みが、夢ではないと告げている。誰かと繋がったものは、皆このような心地になるのだろうか。それとも、自分がおかしいのだろうか。傷みが、嬉しいなどと。  元の衣装に着替え、自室に入る。しばらくして衣擦れの音がし、葵宮の院は旭を迎え入れる用意が整っていると女房が告げに来た。そういえば、そのような事を言ったなと思い出し、いつもよりも遅い歩みで院へ向かう。途中、渡殿で立ち止まり目を向けた庭は宵闇と日没とを織り交ぜ、月がそろりそろりと太陽が眠りにつくのを待っている。その様子になんとはなしに親しみのようなものを覚え、旭は唇にほんのりと笑みを乗せた。  葵宮の院は、豪奢な几帳の裏にある閨の気配を隠そうともしていなかった。祖父はよほどに、自分と葵との間に子を――男児を授かりたいらしい。いつもなら気だるく一瞥するだけなのだが、今日はなぜだか笑いが込み上げてきた。 「よきことが、ございましたか」  鈴が鳴るような声に顔を向けると、清楚な笑みがそこにあった。 「初めて、そのような帝を拝見いたしました」 「そのようなとは、どのような、だ」 「おもしろきことを知った、童のような顔をなさっておいでです」  葵の目配せで女房達が辞していく。ふたりきりになったところで、葵は文箱を旭の前に置いた。 「帝が読みたがるであろうと、預かりました。朝方までは差し出さぬようにといわれたのですが、そのようなお顔をなされますとどのような内容かは存じませぬが、早うお見せしとうなりまする」  弟を思う姉のような口ぶりの葵に戸惑いながら、文箱に手を伸ばし中身を取り出す。そこには、義直に関するうわさが羅列されていた。ざっと目を通していくが、目新しいものはなさそうだった。そしてどれも彼の実像を捉えていないようで、彼の実像は自分だけが知っているような優越を感じて、旭は楽しげに文字を目で追っていく。 「よきことが、書かれておいでですか」 「いや」 「では何故、そのように楽しげなのですか」 「楽しげか」 「はい。とても」  ふふ、と口元を袖で押さえて笑う姫の姿に、今まで自分はどの姫も同じとしか見ていなかったのは、過ちであったのではないかと思えた。旭は今まで、このように何も含まず笑う相手を見たことがない。――義直を除いては。 「気にかかるものが居る。そのことについての、文だ」 「まぁ」  無邪気に興味を示されて、葵には事を開けても良いのではないかと思えた。 「女人に、このようなことを聞くのは(はばか)られるだろうが、従姉殿ということで、容赦をしてもらえるか」 「帝がそのように恐縮せねばならぬことなど、この世にはありますまいに」  旭は手紙を葵に差し出しながら、目を逸らして言った。 「我は、文を交わし誰かとよき仲になろうと思うたことも、したこともない。ここに住まうものたちは皆、贈答品であるかのように送られてきたものたちだ」  手紙を広げ、目を落としながら葵が頷く。 「だから、その、そういうことが理解出来ぬ」  首をかしげた葵の髪が、さらりと流れた。 「誰かを恋しく想い、文を出し、歌のやりとりをして忍び寄るという、我と同年ほどの公達が熱病のようにかかる、その、それがだ」  鼻から細く長く息を吐き出した葵が空に目を向ける。それにつられて見上げると、半月よりも少しふくらんだ月が、太陽の消えた空の明かりを保とうとしていた。 「ここに居る姫宮はみな、いいえ――おそらくこの後に入る方たちも、父君様や母君様により帝の室となるべく育てられ、送られる方たちでしょう。けれど、そのようなことを明るみにしながら育てる方は、よほどの権力者でないかぎりはおられないとか。なれば、その姫宮たちも文をもらったことが一度ならず、あるかと存じます」 「そう、なのか」 「余計なことを口に致しましたこと、お許しくださいませ」  手をつかれ、惑う。 「聞こうとしたのは、我だ。何を謝罪することがある。何でも申せ。全て赦す」  ゆっくりと顔を上げた葵の顔には、先ほどまではなかった影があった。 「入内する前。私には文をやり取りする相手がございました」  思わぬ告白に、旭の喉が緊張の為に鳴った。 「幾度か文をやり取りし、いよいよという時に入内の話が持ち上がり、その方は一目なりと、と忍んで参られました」  淡々と、葵は独白する。 「そのお方のお姿を拝見したとき、私はもうこのまま想う方と、何処かへ身を隠しつつ落ち延びるしかなくなるのだと覚悟を致しました。けれど、その方は私の入内を寿(ことほ)ぎ、いつかの世で共に成りましょうと歌われ、ただ白々とした月を眺め合うただけで、帰っていかれました」  ふうと息を吐き、文を畳んで葵は言葉を続ける。 「入内を、恨みました。帝を、恨みました。――――お会いするまでは」  折りたたまれた文をまっすぐ旭に差し出す顔は、あきらめの先を知った強さと寂しさを宿している。 「帝はどの姫も求めておられぬとの話、身をもって理解しているつもりです。その貴方様が執心されているという方。私も、興味がございます」  文を受け取った旭は、ただ呆然と葵を眺めていた。葵の言葉が待っている夜気を、見つめていた。 「その、相手の名は何と」  泣き出しそうに微笑み、葵は静かに胸に手を添えて頭を振った。 「口にすると、お会いしたくなります」 「会わせてやる」 「私を、後宮より追い出すと申されるのですか。そうなった身が、どのような憂き目に会うかは、存じておられますか」  首を振る。 「わからぬ。――我は、何も知らぬ」  拒絶ではない自責の声に、そっと葵の掌が触れた。 「今宵は、ただ語り合いをいたしましょう。年の近い、親族として――――恐れ多いことですけれど」 「いや――ありがたい。わからぬことが急にあふれて、どうして良いのか途方にくれかけていた」  では、と葵が口火を切り、眠りがふたりを誘うまで互いのことを語り合い、肌を重ねることなく寄り添い眠り、健やかな朝を迎えた。

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