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第17話
今宵は、月の姿が見えない。分厚い雲が細くなった月を覆い隠し、光をさえぎっていた。月の見えない夜に、ちらちらと星が顔を出している。自分がそこにいることを、今やっと気付いてもらえるのではないかと様子を伺っているように。
今宵はまだ、義直の姿はない。そろそろか、と思う旭の思いが募っても、わずかな気配も感じられない。――そういう日も、あるだろう。義直の都合も、あるだろう。
自分に言い聞かせる旭の心は、空と同じになっていた。期待という月を納得できる言葉で覆い隠す。小さくかぶりをふり、息をついて庭を眺めることをやめ、褥に横になった。
今日もいろいろなことがあった。自分のまわりのものは、全て当然のように存在しているものだと思っていた。自分と同じように、そうすることだけが日常で、そう動くことだけが全てだと思っていた。
女房も、市の民らと同じように、働いている。仕事をして、生きる糧を得ている。そういう役割を、行っている。そんなふうに思ったことなど、いや、考えることすら気付かなかったほど、そういうものだと受け止めていた。世の中のことはすべて、そういうものなのだと。それらに意味があるなど、知りもしなかった。
葵が、会話の後に彼女付きの古くからの女房、萩を呼び、彼女が何ゆえ葵の側に仕えることになったのか。他の女房たちはどうなのかを話すよう命じた。萩は快諾し、女房として仕える娘達の境遇や目的などを語った。そしてそこには、しがらみ、があった。
父の、周囲の、娘の思惑がからみあい、誰かとつながり、からまり、ひろがり、そこにある。
それらを聞き終えた旭は、帝というものはどういうものかを、どう見られているものかを、何故あのような扱いを受けているのかを、実感として感じ始めていた。知識としてしかなかった、帝という存在。それがあるからこそ出来るもの。脈々と受け継がれてきたもの。知らぬうちに自分がまとっていた、しがらみ。
帝は、帝であるという事で他の者たちの営みができる。取り巻く者たちのすべきことができる。またその取り巻くもののまわりに別の取り巻くものが生まれ、広がっていく。
話を反芻して、ふいに旭は大きな沼に落ちたような、空の上に放り投げられたような、得体の知れない、大きく抜け出すことの出来ないものの中にひとり残されたような気分になった。
「――っ」
帝の役割とは、自分が今まで目を向けることのなかったこととは、藤原博雅や他の公家達がほしがっているものとはどういうものかと、気付いた。
全身がおこりのように震え、止まらない。自分を抱きしめ身を縮め、固く目を閉じる。
明日は何をするのかが、その瞬間に決まった。
目覚めて直ぐに、旭は文を書いた。朝餉を終えた頃に、迎えが行くという返事が届いた。迎えが来るまでに考えをまとめようと、文机に向かいあれこれと書き付けては墨で消していく。昼餉の時間が終わり、御所にいたときならば庭を眺めひとりの時間を過ごしていた頃合に、迎えは現れた。
質素ながらすわり心地の良い牛車に乗り込み、運ばれる。胸の上に手を沿え、時折緊張に高まる鼓動を抑えながら、旭は瞼を伏せて問いたい事を反芻した。
から、と最後の回転を終えた車輪の音に目を開ける。牛が外され御簾が上がり、差し伸べられた手を取って降りた先は御所の中であった。案内をされるままに、進んでいく。
「お連れ致しました」
案内役が告げた相手は、斉彬上皇であった。鷹揚に頷いた斉彬は目を細め、案内役は一礼をして去っていく。立ったままの旭を、上皇に侍 っていた少年が向かいの席へと促した。
「思ったより、元気そうだ」
遠い世界のことのように斉彬が目を細めたことに、旭は坐しかけた体を止めた。
「盛仁には、会えたのだろう。ああ、義直、か」
わざとらしい訂正に目を伏せ、坐してから目を向ける。
「義直から、聞いております」
「そうか」
子どもが新しい玩具を見つけたように、斉彬は我が子を眺めた。
「時折、ここに参っていたと」
「ああ。お前の姿を、義直は何度も眺めていた」
苛立ちと喜びが沸き起こり、それを抑えようと握り締めた拳が震える。
「何故、言うてくださらなかった」
「必要がないだろう。それに、どう紹介をしろと言うのだ。おまえが立太子をしたせいで御所を追われ、民と交わらねばならぬようになった兄だとでも言えば、良かったか。第一、忘れていたのだろう」
唇を噛む。幼かったのだからと言い訳をすることも可能だろうが、そうはしたくなかった。幼さゆえの無知だと片付けられないものが、旭の中にある。
「何故、義直を逃し、時折、傍に召されておられた」
「愛おしいからよ」
ぞわ、と総毛立つような気配が斉彬から発せられる。その目はこの場にいる誰も見ておらず、この空間、時間さえも越えた場所を映していた。
「柊ほど、愛おしいと思ったものは、おらぬ」
言いながら侍 っている少年のうなじに触れ、抱き寄せ、唇を寄せる。身じろぎをしながらも従う少年は、上皇の膝の上に納まった。
「博雅は柊を奪ったが、余は何も出来なんだ――旭、おまえさえ生まれなければ、柊は国母として余の傍に居れたのだ。先の上皇と密接であった藤原博雅の娘との間に、男が生まれなければ――――柊は、義直は御所で、過ごせていたのだ」
繰られるものに耳を傾け、旭は弄ばれ始めた少年を見つめる。はじらう素振りを見せながら、あらがうように身をよじりながらも着物をはだけていく彼の肌の上を滑る父の手は、誰に触れているつもりなのだろう。
「博雅の手で柊は御所を追われた。次帝をおびやかさぬように、権力争いのために、祀り上げられぬようにと。全ては、博雅の実権にほころびが入らぬようによ。国母となったおまえの母は、気が触れて身罷 った。おまえを産んだがゆえに、余に恨まれ詰られ、姫しか授かれなかった他の者たちからの呪詛を受け、椿のように咲いたまま狂うて地に落ちた。それでも気が晴れぬ余は、男としての道がおまえの下肢に出来たなら好きに扱おうと考えた。おまえさえ居らねば良いと、思うさまに行き場のない気持ちをその体にぶつけ、味わわせてやろうとな。だが――義直が言うのだ。柊と同じ顔で、おまえが愛らしいと。幼き頃の笑みを抱きしめた香りが、忘れられぬと。汚すことは赦さぬと、柊と同じ顔で言うのだ」
かろうじて布が引っかかっているというだけの、あられもない姿で細い悲鳴を発しながら、少年が上皇に縋る。目じりに朱が入り、荒く肩で息をする彼に、上皇の意識は欠片も向けられていない。それなのに少年は声を上げ、乱れている。
「ぁ、あぁ、ふ、ぁ、ああっ」
懇願するように身を震わせる少年に応えるように、上皇の指が動く。甘えた声に時折被さる唇は、独白を続けていた。
「退位をし、静かに過ごすつもりであったが、余が上皇として政にかかわらなければ何も知らぬおまえは、全て博雅の言いなりとなる。博雅の都合の良いように育てられたおまえを置けば、あの男は好きにしてしまう。柊を余から取り上げた者の思うとおりにさせるのは、知らぬふりで放っておくことは、出来ぬ。だが、あの男は力をもちすぎた。下手に手を出せば、均衡がくずれ御所の混乱が始まることは明白。憎き男をどうすることもできず、おまえを乱すことも出来ず、代わりに、こうして青い果実を味わい狂わせ、気を紛らわせておった」
「はっ、ぁ、ああ――はぁ、ぁあ」
かぼそい声で、少年が啼く。ゆらめく腰の動きが、上下に変わった。
「ふ、ぅ」
「あっ、ぁあ――は、ぁああっ、あ、んぁあ」
繋がり揺さぶられながら、少年は何を思っているのだろう。父は、何を感じ、何を――誰を見ているのだろうか。
「そんな折――義直が、おまえの姿を見て言ったのだ。哀れだと……ッ、はぁ――聞けば、森繁にもそのようなことを漏らしておると――ッ、ふ……ならば、それを旭の耳に入れ、ふ、動くかどうかを見てみようと――思うた」
「ぁ、ぁあっ、じょ、じょぉこうさまっ、ぁっ、ああ」
縋りながら少年が呼ぶのに応えるため、斉彬の唇は口吸いのために言葉を止めた。
どちらも相手を見ていないままに絡み、快楽を得ようとする姿と、姫とまぐわっていた頃の自分を重ね、旭は体温がゆっくりと足元から抜けていくような感覚に陥った。どちらも自分しか見ていない情交は、なんと滑稽で哀れなのかと――種馬だと自分を称した父は、旭という帝を創り終えてもなお、そのような情交しかできぬままなのか。
義直との、心を相手に向かわせるつながりを知った旭に、彼らの姿は物悲しく虚しいものとしか映らず、淫らであるはずの行為は哀れとしか見えなかった。
「っ、ふ――思う以上に、おまえは義直に興味を持ち……ッ、惹かれた――――ッ、義直も……ッ、何を思うたかは知らぬが――はぁ、おまえに執心し、求めた」
「はぁッ、ぁっ、ぁあっ、いいっ、ぁ、ああっ」
少年の声が切なさを極め、揺さぶる斉彬の動きが早くなる。それにつれて冷えていく旭の心は、冬空のように澄んでいく。
「柊と同じ顔で、義直が頼むのだ――ッ、旭と在りたいと…………欲しいのだと――――ッ、あれは、まだ年端もいかぬ頃におまえを手の内に捕らえ、ずっと我が物にしたいと言っておったままに――今でも同じ事を思っておるのだと……ッ」
「はっ、ぁ、ぁあああああ」
ひときわ大きな悲鳴を上げ仰け反る少年が身を震わせた後、くたりと体を弛緩させる。支えられなかった体はそのまま倒れ、それにあわせて身を離した上皇は少年を気遣う様子もなく床に転がした。
「旭」
ゆらり、と斉彬が立ち上がる。足元で浅く荒い息をしている少年など忘れたかのように、まっすぐに旭だけを見て一歩、また一歩と踏み出す。思わず腰を浮かせた旭は、正面から睨みつけて問うた。
「何ゆえ、我に義直の素性を明かされた」
目の前で止まった足は、くず折れるように膝をつく。
「憎いのよ――狂えば良いと、思うた。柊と同じ顔が、おまえを求めておると言う。おまえが愛おしいと言う。おまえもまた、あれが欲しいのだろう――――柊と同じ顔をした、柊の血を受けた者を」
泣き笑いのような父の姿に、冷えた旭の心が痛んだ。
「種馬から脱したいと言っておきながら、変わりのない生活を続けているようにしか、見えませぬ」
ひゅ、と斉彬の喉が鳴った。
「わからぬのだ――何をして良いのか、わからぬのだ…………世情など、知らねば良かった。何も知らねば、博雅を追いやろうと出来たものを――憎きあの男を、父と共に余を種馬としか扱わない男を、いかようにも出来たものを」
だん、と床に這い蹲るようにして上皇が床を叩く。
「世が乱れたとしても、気にせずにいられたものを――――」
だん、だん、と打つ拳が赤くなり熱を持ち始める。それでも斉彬は――旭を傀儡とし、権力を握り思うさまに振舞っていると思っていた男は、口惜しそうに床に拳を打ちつけ続ける。
「上皇様」
か細い声に、旭は斉彬から目を離した。半裸の少年が這いながら上皇の傍による。行為の後に自分のことを見向きもしなかった上皇の背に被さるように、抱きしめた。
「六郎がおりまする。上皇様には、この六郎がおりまする」
顔を覗きこみ、必死に訴える少年の声が耳に入らないのか、斉彬はうずくまったまま喉の奥から絞るような音を発している。
「上皇様、上皇様」
それでも訴え続ける少年の滑稽なほどの必死さに、それが毛ほども届かぬらしい斉彬のかたくなさに、同じ場所にいて触れているというのに別の世にいるほどのふたりの心の距離に、旭はじりじりと後退した。
「柊、柊だけが……柊だけが欲しかったというのに」
「上皇様、六郎がおりまする。ずっと、お傍におりまする」
「ッ-――」
「あっ」
突然に、斉彬は少年を引き寄せた。そのまま覆いかぶさり乱暴に足を開き、繋がる。
「ひ、ぃいっ」
「く――ッ、はぁ、あっ、くうう」
「ぁはっ、はぁ、あっ、じょ、ぉこぉさまっ、ぁ」
乱れ始めたふたりに怖気を感じ、旭は逃げるように背を向けて自分を待つ車に駆け込む。
「早く出せ、早く」
必死の様子に何事かと問うのも憚られ、わけもわからず牛車は普段よりもずっと早い歩みで旭を御所から遠ざけた。揺れる車箱よりも激しく、旭の胸は揺さぶられている。あの六郎と言う少年の声と、斉彬の声が脳内に響いていた。思われていないにもかかわらず、必死に斉彬に縋った彼は何を思っていたのか。何故、縋っているのか。彼は何処から連れてこられたのか。そして、彼の前に見た少年は、何処に行ってしまったのか。――おまえさえ居らねば良いと、思うさまに行き場のない気持ちをその体にぶつけ、味わわせてやろうとな。
ぞっ、と背骨が凍ったような気がして身を震わせ、抱きしめる。その狂気の先にあるものが浮かび、旭はその考えを否定するように激しくかぶりを振った。――憎き男をどうすることもできず、おまえを乱すことも出来ず、代わりに、こうして青い果実を味わい狂わせ、気を紛らわせておった。
六郎は、自分の身代わりなのだろうか。その前に見た少年は、乱された後にどうなってしまったのだろう。耳の奥に、上皇の嘆きと六郎の喘ぎが木霊する。聞きたくなくて耳をふさいでも脳の奥で響くそれは、旭を責めた。生まれなければ良かったのにと、おまえさえ居なければと恨む声はやがて見知らぬ女の声となり、旭を恨む。自分が生まれなければ唯一の男児として立太子し、いずれは帝となっていた義直。自分が生まれなければ愛しい姫と共に在れた父。自分が生まれなければ、尼になれと御所を追い出されなかった義直の母、柊。そして、自分を産んでしまったがため、国母となってしまったがために恨みに呪われ狂い死にをしたという、母。全ては自分が生まれてしまったが故のことと、旭の内側で響く声が苛む。
「っ――は」
詰まりそうな息を吐こうとしても上手くいかず、旭は両肩を抱きしめるように強く握り締め、屋敷に着くと転がるように自室の几帳の裏に身を潜めた。
「っ――――」
体が氷になってしまったかのように冷たく、歯の根が合わなくなるほどの寒さを感じる。旭を恨む声は消えるどころか床下から湧き出てあふれ、なぶるように周囲を囲んだ。
「義直」
呼ぶが、現れる気配はない。
「義直」
かすれる声で幾度も呼んだ名の主は、今宵も姿を現さず、怯え疲れて眠る旭を包んだのは、月光のみであった。
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