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第16話

 紙に、言葉を書き付けていると人の気配がした。顔を向けると庭先に、義直が立っていた。 「上がっても、かまわないか」  頷くと、側に来て紙を覗き込んできた。 「これは――?」 「面白きことを知ったのでな。記しておいた」 「銭を稼いで飯を食う。決まりごとはない」 「今日、知ったことだ」  問う視線に、自慢げに答える。たったそれだけを書いている紙を眺めた義直は、折りたたみ懐に入れた。 「何をする」  ふわりと、口付けられた。 「誤魔化すな」 「忘れそうになったら、俺が見せればいい。自分で持っていては、失ってしまうかもしれないだろう」 「義直ならば、失わぬのか」 「おまえのものだと思えば、失わぬ」  月光のように微笑まれ、頬が熱くなった。 「義直。そなたはいかにして、食いつないでおる」  首を傾げられ、市に出かけたこと。鳶丸に会ったこと、人々が様々なことをして生活をしていると知ったことを、話した。 「出来ることがないのであれば、覚えればよいと紐を編んでいる子ども達のところへつれて行かれた」 「あの男は、本当におせっかいだな」 「面白い男だ」 「気に入ったか。妬けるな」  義直の手が腰にまわる。促されるまま膝の上に乗った。 「我の警護をするようになるかもしれぬと、申しておったぞ」 「警護」 「あれの腕が立つのなら、考えても良い」  義直の温もりに、瞼を伏せる。ことりと肩に頭を乗せて、細く息を吐いた。 「我は、何も出来ぬ」  ぽつりとこぼし、再び息を吐く。何が出来ると問われ、出来ることが何一つ浮かばなかった。起きれば女房が着替えを手伝い、朝餉を用意し、何をするのも全て人の手で行われる。ゆるゆると皆の待つ場に赴き、御簾の中であれこれと話す者たちを眺め、時を過ごす。それが終われば昼餉があり、ぼんやりと庭を眺め、書物や絵を見、庭を歩き、夕餉を終えると眠るか、別院に渡って子を作るための営みをする。そうしてまた朝を迎え、同じ事を繰り返す。そこには旭の意思はなく、ただ決まりごとだけが存在し、それからはみ出るようなことはせず、また思いつきもせず、自らすることや出来ることなど、何もなかった。執政は藤原博雅をはじめとしたものたちがいる。旭は、ただ次代の帝を――後々まで皇族をつなぐための行為を行うことだけが、出来ることといえば出来ることであった。けれど、帝ではない旭が出来ることは、何もない。 「帝とは、何なのであろうな」  子どものように背を軽く叩かれ、あやされる。それが心地よく、旭は身を任せた。 「義直」  ゆっくりと、顔を上げる。 「我は、幼き頃、あちらこちらに出向いておったと聞いたが、それはまことか」 「すくなくとも、俺が知る限りでは、そうであったな」 「そうか」 「旭」  唇が降る。今日ほど歩き回ったのは久しぶりで、心地よい疲れが体を包んでいた。 「旭」  やわらかい声が、心地いい。言い知れぬ安堵感に抱きしめられたまま、旭は意識を手放した。  目覚め、世話をしようとする女房に全て自分ですると告げると、何か気に障ることでもありましたか。申し訳ありません、と床に手を着かれ困惑した。結局何時もどおりに世話をされ、朝餉を取ることになった。旭としては、自分の出来ることを増やそうとしてみただけだったのだが。――何が、いけなかったのだろうか。  粥を口にしながら、首をかしげる。あれほど驚かれ、恐縮され、平伏されるとは思わなかった。それを誰かに告げたいのだが、話せそうな相手がいない。今まではそれほど気にせず流していたが、今はさまざまなことが知りたくてならなかった。誰かに話し、どういうことかと問い合える時間を求めていた。  そこでふと、葵のことを思い出した。彼女ならば、この屋敷の中でそういう話も出来るだろう。平盛が来るのを待つという手もあるが、あいにく今日は約束をしてない。時折は友として顔を見せてくれと告げてはいるが、彼には彼の都合があるだろう。こちらに気を使い、それらをおろそかにするようなことは、されたくなかった。 「葵のもとへ、行く」  朝餉を食べ終え告げると、女房が頭をさげて下がった。しばらくの後に 「お迎えする用意が整いました」  との返事があり、立ち上がった。  この屋敷で葵の元へ赴くのは初めてで、旭は時折あちらこちらに目を向けながら進む。そういえば、部屋の前の庭と門までの道しか知らぬと気付いた。後に屋敷内を見て回るのも、良いかもしれない。 「こちらへ」  導かれた先に腰を落ち着けると、におい立つような笑みを浮かべた葵と目があった。 「帝と、ふたりだけで話がしたい」  葵の言葉に、控えていた者たちが全て去る。それらを確認してから、葵が口を開いた。 「くだんの方が、参られたのですね」 「わかるか」 「お顔が、生き生きとしておいでです」 「そなたも、であろう」  瞼を伏せ、ゆるゆると葵が首を振る。 「何故だ」  葵の姿は、そのことに沈んでいるようには見えない。むしろ、その逆のように思えた。 「違う方が、通うておいでです」  はにかむ姿に、少女のような気配と女が見える。それは彼女にとって素晴らしいことだったのだろうと、旭の顔もほころんだ。 「そうか」 「はい」  しばらく見つめあい、笑みあう。 「それは――」 「何か、お話がございましたのでしょう」  言葉をさえぎられた。違う方とは誰なのか。気にはなるが、いずれ言えるときがくれば葵は告げてくれるだろうと思った。 「出来ることを増やそうと思うたのだが」  昨日のことをかいつまんでから今朝の出来事を話すと、葵は口元を押さえてころころと笑った。 「何が、おかしい」 「旭の話の中に、答えがありましたので」 「我の話の中に、だと」 「お気づきになられませぬか」  はて、と首をかしげて自分の話したことを頭の中で繰り返す。そこで、気付いた。旭が気付いたことに気付いた葵が、再び笑う。 「女房も、銭を稼いで飯を食う、ということか」 「はい」  さもおかしげな声音に、頷く。そのようなことにすら気付かぬ自分に恥じ入る気持ちは湧き立たず、ただ知ることが出来た喜びだけがあった。 「では、この屋敷にいるままでは、我は何も出来ぬままであるという事か」 「旭という帝の姿があるからこそ、あのものたちは働くことができるのです」  そうか、と息を吐く。 「これもまた、しがらみ、か」  首を傾げられ、今度は平盛との会話を伝えた。 「しがらみ」 「そう、しがらみだ。それがあるゆえ、人はつながり、縛られておるらしい」  口の中で租借するように繰り返し、にこりとする葵は宝物を見つけたように見えた。 「良きも悪きもすべて、しがらみ、という(えにし)のしわざでございましょうか」 「どうやら、そうらしい。まこと、面白きものよ。自分が無知であることすら気付かなかった時間の、なんと勿体無きことか」  ゆっくりと、葵の首が縦に動く。 「気付けて、良うございましたか」 「まだ、わからぬ」  今度は横に、首を傾けられた。 「上皇に、世情を知らねば良かったか、知ってよかったかと問われたことがある。問われてすぐ(のち)は、知らねば良かったと思うたこともあったが、それでは今までの、知らぬままでいたほうが良かったのかといわれれば、それはそれで、頷きかねる」 「難しゅうございますね」 「そうだな――難しい。なれど、知ってしまったからには、戻れぬだろう」 「お強うございますね」 「致し方なく、やもしれぬぞ」  葵の目が、床に落ちた。 「私も、強うあらねばなりませぬ」  そっと腹に手を添えた葵の姿に目を開いた。 「ややこか」  ゆるく、かぶりをふられた。 「宿さねばならぬと思いつつ、しがらみ、というものに捕らえられ、あのお方と不義を行うて良いものかと」 「好いて、おるのか」  うっすらと、頬に赤みが差した。 「なれど、私が孕めば帝の子となりまする。あの方のお子としては、育てられませぬ」 「相手は、なんと申しておる」 「何も」  そうか、と呟き目を伏せる。そこでふと、気が付いた。 「文を交わしていた相手とは違うと言ったが、何時から通われている」  緊張に葵の肩が震え、目が床に落ちた。 「帝と妃ではなく、従姉弟として向き合うというたではないか。何時からだとしても、咎める気はない」  わずかな緊張を残しながらも、葵の目が持ち上がった。 「お加減がまだ、優れぬ折に」 「そうか」  では、旭が愛おしい相手に文を書けと言ったときにはすでに、身分を隠したままの彼女に懸想(けそう)をする男がいたという事か。 「その者は、愛してくれておるのか」  恥ずかしそうに袖で顔を隠した葵から、肯定の気配があふれている。そうかと再び呟いて、旭は腰を上げた。 「相手の子と公言できぬ苦しみなどは我には想像もつかぬが、あの時言うた言葉は本心だ」  男児を必ず孕み、我を退位させてくれ。――我ながら、酷い事を言うたものだ。葵を道具のように思っているようではないか。  自嘲する旭に艶然として、それを伺い安心致しましたと、葵が告げた。

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