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第19話
夕餉は、食せた。これも平盛のおかげだろうと、わずかに秋の音が聞こえ始めた庭に目を向けながら息を吐き、父の独白を思い出す。それを聞いてもうろたえず縋った六郎は、自分がどのように見られ扱われているのかを知っていてなお、上皇の傍にいたいと望んでいるのだろうか。彼の前に居た少年は、それに耐えられなかったのか、暇を告げられたのか、それとも――。
「わからぬ」
知らぬほうが良いのか、知ってもかまわぬ事柄なのだろうか。誰かに話し、自分が感じたものがどういうものかを整理し見つけたいのだが、話せると思える唯一の人の姿はない。
平盛は、どこまで知っているのだろうか。
ふと、そんなことが浮かんだ。旭が帝であること、義直に執心していることは知っている。けれど、彼が出家をしているはずの旭の兄であることは知っているのだろうか。義直の母の事は、知っているのだろうか。――――今宵もまた、義直は現れないのだろうか。
待つことを止め、灯皿の火を消し横になる。遠く近く、かすかに届く虫の音が心地よい。思うよりも疲れていたらしく、旭の意識はすぐに眠りへの道を歩み始めた。
「眠ってしまっていたか」
呟きに、ふわりと意識が浮上する。頬に触れる指の感覚に、目を開けたいのに瞼が重くて叶わない。
「旭」
呟かれた名前に含まれた愛おしさに、胸が熱くなった。その熱さが眠気を押しのけ瞼を持ち上げる。
「よ――しなお」
「ああ、起こしてしまったか」
うわごとのように名を呼ぶと、もう一度寝かしつけようとするかのように、優しく腹を叩かれる。それに誘われ再び眠りに落ちそうな意識を懸命に押し留めながら、口を動かした。
「我は、生まれて――良かったのだろうか」
「なんだ。そんな事。良いに決まっているだろう。おまえが居たから、俺は身代わりを立ててまで俗世に留まることを望んだんだ」
「そうか」
口元が緩む。手を伸ばすとつかまれた。
「朝まで、共に」
それ以上はもう、口が重くて動かない。まとわりつく眠りが重くてあらがえない旭の体に沿うように、温もりが触れた。
「ああ、共にいよう」
安堵する香りと体温が与える柔らかな闇に、旭は身を委ね、寝息を零した。
女房達が朝の支度をしている音が聞こえる。もう少しすれば、そろそろ起きる時間だと声が掛けられるだろう。
寝返りを打とうとし、触れるぬくもりに目を向ける。やわらかな笑みが、そこにあった。
「おはよう」
「――っ、おはよう」
とっさのことに言葉が出るまでに時間がかかった。髪をかきあげられ、額にやわらかなものが触れる。心がむずがゆく、ふわふわと心地よい。もう少し身を委ねていたいが、このままでは女房に見つかってしまう。身を起こそうとした旭の背に、義直の腕が回った。
「もう少し」
「なれど」
抱きすくめられ、それ以上の言葉が奪われる。女房たちが立てる衣擦れの音が近づいてくる。御簾ごしに、声が掛けられた。
「お目覚めの時間にございます」
「――今しばらく、このままで」
緊張に少し硬くなってしまった旭の声に気付く様子もなく、女房達の気配がさわさわと遠ざかる。それらが消えてから、ほっと胸をなでおろすと唇を重ねられた。
「旭」
まるい声音に添うように身を寄せる。このまま共に過ごしていられるならと、旭は思わず口にした。
「退位が――出来れば……」
「帝を、辞めたいと――?」
かすかな驚きが含まれていたそれから逃れるように、義直の胸に顔を押し付ける。こぼれた想いをごまかすことはできないと、旭は続けた。
「御所に戻れば、こうして共にいることも難しくなるだろう――義直は木曾家で、橘家が擁 しておる。今、権勢を誇っているのは藤原家。擁しておるのは源家なのだろう。警固は源家が中心となる。我が義直を登用するは、難しいだろう」
「だが、退位をして上皇となっても橘家が台頭してくるとは限るまい。そうなれば退位をしても同じこと。――このまま、ここを裏御所に使えば、どうだ」
顔を上げる。――裏御所。むろん、その言葉は知っている。どのようなものかも知っている。けれど、考えたことも思い出すこともなかった。それがなぜ、義直の口から出てきたのだろう。
疑問が顔に浮かんでいたらしい。甘やかすように髪をなでながら、義直が困ったように微笑んだ。
「旭がこちらに移ってから、考えていた。俺も、一応は即位をするための教養を身につけるよう、学んでいたからな、裏御所のことも、知っている」
裏御所とは、のっぴきならない理由により帝が御所から離れ、一時的に何処かの公家の屋敷に身を寄せて過ごす場所のことをいう。たいていは再び御所に戻るのだが、まれにそのまま裏御所ですごし、他の公達と同じように御所に出向く帝も居たらしい。
義直はここを裏御所にし、旭にここで暮すよう提案したのだった。
その言葉の中にあった、提案とは別のものに旭は下唇を噛み顔を伏せる。――俺も、一応は即位をするための教養を身につけるよう、学んでいたからな。
旭がいなければ、義直は御所で過ごしていたのだ。旭と同じように、さまざまなものに全ての世話をされて過ごしていたのに、突然追いやられてしまった。それからの生活はどのようなものだったのか、知りたいようで、知りたくないようで、旭は判然としない思いをもてあまし、言葉に出来ないそれを伝えたくて義直の腰に腕をまわし身を寄せた。
「上皇や藤原博雅に何かあり、旭が政をせねばならぬようになったとしても、問題はないだろう。むしろ、所在を隠したままでこちらにいるほうが、世のことを――民のことを知ることができる。ああ、なれど」
悩ましげに息を吐く義直が、強く旭を抱きしめた。
「そうなれば、子を成すために夜陰にまぎれて御所の姫宮の元へ参るおまえを見送らねばならぬ」
「義直」
「上皇は女を抱かぬ――子は成せぬ。子は、旭が作らねばならぬ。致し方のないこととは、理解している。だが」
苦しげな背を慰めるよう、旭は手のひらで撫でた。秘密をそっと、口にする。
「我は、義直以外とは、身を重ねぬ」
「しかし、それでは」
「ここに、ひとり付き添っている姫が居る。藤原博雅の孫娘であり、我の従姉でもある葵というものだ」
知っていると、無言で義直が頷く。
「それに、通う男がいる。その男との間に子を成し、我の子とすれば良いと伝えてある。葵も、想う相手との子のほうが良いだろう。藤原博雅も、知らねば不満はあるまい」
「通っている男の素情は」
首を振った。
「知る必要もない。葵が引き合わせたいと、相手の男が会いたいと思うのであれば、会う。官位が欲しいのならば与えると、そのことも伝えてある」
「そう、か」
義直の意識が旭から離れた。
「姑息と思うか。正面から対せぬゆえ、誰にも知られぬままの意趣返しと」
「―――いや、ああ。いや、そうか」
考えを巡らせている義直を見つめる。やがて起き上った義直は、旭を抱き起こした。
「遠出をしよう」
「え」
「馬を連れてくる。その間に、出立の準備をしておけ」
楽しそうな義直は、そのままの足取りでさっと姿を消した。何事を思ったのかと首をかしげながらも、旭は女房を呼び支度を整えさせた。
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