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第21話

 きん、と澄み切り張り詰めた空気の中で、日差しだけが柔らかい。気温は冬のままであるのに気配は春を匂わせて、庭先には早春を告げる黄梅が可憐な姿を見せている。 御所より戻った旭は、ほうと息を吐いて庭を見つめた。もう少しすれば、源平盛が民の様子を告げに来るだろう。その後には、木曾義直が。  裏御所に住まうことに決めた旭に、藤原博雅は諸手を上げて賛成をした。彼の思惑は葵に次代の帝を生ませることなのだから、不満が出ようはずもない。けれど、他の入内した姫らの縁者である公家にも配慮が必要で、旭は時折あちらに泊まることにしている。むろん、指一本触れることはないが――。  そのまま花が枯れてしまうのも哀れなので、葵が通い来る想い人との間に子を成せば、皆を帰すつもりで居る。その旨を内々に姫方々、女房たちにも告げており、やがて彼女らのことを想う公達らが文を送り出すことだろう。今、権勢を誇っているのは藤原博雅だ。他の者たちが表立って非難をすることもない。朔には申し訳ないが、葵のみに旭が執心していると思われぬ為の役を担ってもらうことにした。彼女は快諾し、想う人もおらぬ身であるし、誰に指図されるでもなく好きに御所で過ごせるならと笑った。帝の子を成すためにと言われ続け、それがずいぶんと負担だったのだと。そう言って笑う朔は、童のようであった。  人の気配に顔を上げる。平盛が手に何かをぶら下げて、庭先に現れた。濡れ縁にいざり出た旭の横に座り、笑む。最初はぎこちなかった友としての振る舞いも、最近はこなれてきたようで、遠慮が見えなくなってきた平盛は、こうして庭先に好きに出入りし民の暮らしぶりや流行もの、近隣の情報を旭に伝えにくる。 「今日は、土産を持って参ってござる」  持ち上げて見せたのは、魚の干物であった。すぐに女房を呼び炙ってくるよう伝えると、愉快そうに平盛が旭の顔を覗きこむ。 「なんだ」 「庶民の味にも、ずいぶんと慣れてきたようにござるな」  旭もまた、覗き返した。 「こうして、平盛がせっせと味わわせようと持ってくるからよ。おかげで御所での食事が、ずいぶんとつまらぬものに感じるわ」  はっはと笑った口が皮肉そうにゆがむ。 「獣は、惚れた相手にせっせと食い物を運ぶと、存じておりましたか」  目を見開いた旭に咳払いをして、平盛が背筋を伸ばし座りなおす。 「女々しいとは思いまするが、惚れたものは取り消せぬ。友では在るが、その――あまり不用意に近づかれますると俺とて、何をするかわかり申さぬ」  言われ、肩が触れるくらい傍に、自分が身を寄せていたことに気付く。 「先に顔を近づけたは、平盛ではないか」  咎め、見合い、同時に噴出す。ゆるやかな時間に、春待ちの(うぐいす)が鳴いた。 「御所で、我がずいぶんと民の事情に明るいとうわさになっておる。こうして細やかに伝えに参るものがおることを公家らは察しておるらしく、我よりも精通せんがため、民の暮らしぶりに気を配っておる」 「博雅様は、ずいぶんとそのことで機嫌が悪うございまするな。自分の思惑通りに動かせていた朝廷が、帝を中心としたものになる、と」 「本来は、そうあるべきであったのだ。先々代の折にゆがんだものを戻すのみ。ゆっくりと、時間をかけてな。民も公家も武士も、惑わぬほどの速さで」  まぶしそうに、平盛が目を細める。 「なんだ」 「強うおなりになられたな、と」 「強くなったのではない。もともとの我を思い出した。それだけよ」  幼きころの自分の話を寝物語に義直に聞くたびに、そう思う。 「妬けまするなあ」  空に向かって、平盛が声を放った。言外に匂った艶に、気付かれたらしい。 「すまぬな」 「謝られると、情けのうなりまする」  楽しげなふたりの声に、炙られた魚の香ばしい匂いが混じる。酒と肴を置いて去ろうとする女房に、平盛が声をかけた。 「葵宮様の御様子は、いかがか」  数日前から食事が喉を通らず、何もなく突然にえづくようになったと聞いていた。今朝は医者が来るのだとも。旭が葵に執心をしているという話は、平盛も知っている。 「ふふ」  女房が口元を袖で隠し、春のざわめきに包まれた顔をした。意味が解らず怪訝に眉をひそめる平盛から目を離し、旭に向かって女房が頭を下げる。 「おめでたで、ございます」 「まことか」  膝を少し曲げて同意を示した女房の、後でお渡りになられますかとの問いに、夕餉の前に行こうと伝える。去る背中を見送り終えて、平盛が息を吐いた。 「なにやら、複雑な気分にござる」 「何がだ」 「喜ばしいこととは思うておりまするが、旭殿に寵愛を受けた姫に子が成ったというのは、どうにも複雑にござる」  平盛には、葵に通っているのが別の男だとは告げていない。旭も、誰が葵に通っているのかを知らずまた、葵も明かさず相手の男も旭に自分のことを知らせるつもりがないらしい。けれど、旭はそのようなことには頓着をしていなかった。想うものが結ばれ、子を成す。その子は旭の子として教育され、次代の帝となる。立太子をすれば旭は退位し、誰に憚ることなく義直を傍に(はべ)らせ、ともに過ごすことができる。  義直を庇護してきた橘森繁は、そこでやっと安堵するだろう。義直に興味を持った旭が自分の娘である朔と子を成すように仕向け権力を手にするつもりでいたが、思惑通りに行かぬことに業を煮やし白拍子の小松のことまで持ち出し、関心を引こうとして失敗した。葵ばかりを可愛がっているという風聞に、もう手はないと落ち込んでいると、義直から聞いている。義直を庇護してきた男なのだから、少しは慰めてやりたい気もするが、わずかでも種明かしをすれば崩れてしまう繊細で危うい計画は、旭と葵、義直と葵の想い人、そして葵に使えている萩より他に、知られるわけにはいかなかった。 「つまらぬ世を、それと知られずに面白う出来るやもしれぬ」  父の言葉を、呟いてみる。あれは、あの言葉の示している“世”というものは、世の中ではなく上皇の心の届く範囲の、ずっと狭い世界であった。ほんのわずかな意趣返し。誰に対してでもない、何も出来ない自分への腹いせのような父の行為に旭は惑い、悩んだがゆえにこうして大きな計画を心中に抱いている。上皇からすれば、思惑とは別のところで望むように事が動いていると言えなくもないのではないか。――上皇は、これらが成った折に全てを知れば、なんとするのだろう。  込み上げてきたものを唇に乗せた旭をどう見たのか、旭の口にした言葉をどう解釈したのか、平盛が炙った魚を齧りながら頷く。 「静かに世を変革し、民のことも鑑みる朝廷となれば、面白くもなろう」 「平盛は、良い男だな」 「そう思うなら、某の想いに応えてくださりませ」 「それとはまた、別の話よ」  ずいぶんと真っ直ぐな男だと、思う。てらうこともなく、常に自分の背丈で物を見、感じ、そのままに発する彼と過ごす時間は心地よい。けれど、義直と共に居るときのような甘い息苦しさと悦びが胸に湧くことは、なかった。  それからたわいのない民の暮らしの話などを聞き、いずれまた市に出かけて鳶丸らとも会わなければなどと話をし、平盛が去る。その直後に、義直が姿を現した。 「ずいぶんと楽しげで、妬けるな」 「見ていたのか」  答える代わりに、唇が触れてきた。 「鳶丸も、会いたがっていたぞ。いや、心配をしていたというべきか」  時折、義直に連れられて市に出かけて会うたびに、すっかり旭を落ちぶれた公家の御曹司だと思い込んでしまっている鳶丸は、不自由なことだらけだろうと気をもんでくれている。始めは敵意を向けていた白拍子の小松も、今は同情的であった。 「時折、騙しておることが心苦しくなるな」 「事が成れば、ここの警護に雇ってやればいい。いずれ武士になり帝の警護をするようになるやもしれぬと、言っておったのだろう」 「そうだな」  くすりと、息が漏れる。そしてふと思い出したように、義直を見た。 「葵が懐妊をしたらしい。まだ生まれるまではどちらかわからぬが、無事に日々を過ごし、健やかに産月を迎えられるよう、祈らねばならぬ」 「ほう、それはめでたいな」 「夕餉の前に葵のところへ行くが、義直も来れば良い。折にふれ義直の話をするたび、会ってみたいと申しておる」  一瞬、義直の顔に戸惑いのような、陰りのようなものが見えた。けれどそれはすぐに風に乗り消え去って 「俺も、会いたいと思っていた」  朗らかなものに変わった。  ふたりで話をしていると、女房がお渡りになってもよろしゅうございますと告げに来た。義直も同道することに少しためらいを見せたが、すぐに葵に伺いが出され、快諾された。 「義直を見て、葵はどのような顔をするであろうな。心変わりをせねばよいが」  それを耳にした案内役の女房が、笑いのさざめきを起こす。それに乗ったまま葵の元へ行くと、出迎えた萩が旭に頭を下げ、ついで義直を見て息を呑んだ。 「どうした、萩」 「あ、いいえ。――――何も、ございませぬ」  取り繕いきれない笑みのぎこちなさに首をかしげながらも、旭は葵に声をかける。 「でかしたな」 「これで、(おのこ)であれば念願成就となりまする」 「御仏のみぞ知る、だ。健やかに過ごし、よき子を迎えることだけに集中をすれば良い」  目じりに朱を差し小さく頷く葵のいじらしい姿に、旭の胸に温かなものが広がる。ちら、と義直を盗み見た葵に、義直がおどけたように唇に人差し指を当てたのを旭は気付かず、ただ喜びの時を過ごした。  思惑が交錯し、つまらぬ世を、それと知られずに面白うする為の、ことの全てを知るものは――――ただひとり。

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