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とんでもない患者ととんでもない関係になるまで
「うるせーな」
今朝回診のために病棟を回っていた俺は、もしや誰かの命の危機なのではないかと疑うほどの騒がしさを聞きつけ、急いでその病室に駆けつけた。
患者が複数人の看護師たちによってベッドの上に取り押さえられている。それを見るなり、ため息が出た。
「お前か」
そいつの名は高坂 晴 、二十歳。右足の骨を折る重傷で、昨日運ばれてきた。晴とは名ばかりの、どちらかというと台風のような乱暴で騒々しいガキだ。
交通事故にでもあったのかと思うほどの損傷だったが、そうではない。木から下りられなくなった子猫を助けるために、三階の窓から枝に飛び移り、猫と一緒に落下したらしい。何故猫と同じように木に登らなかったのかについては不明。ちなみに猫は無事だ。
全治四週間。どうせしばらくは歩くこともできないので、入院させるしか選択肢はない。誰もがそう思っている。納得していないのは本人だけだ。
どうやら右足一本折れたぐらいじゃ、こいつの有り余るエネルギーはそぎ落とせないらしい。「うぐっ」とか「あうっ」とかうめき声を上げて、漫画みたいにぽいぽい看護師たちがなぎ倒されていくのを見て、俺は眉間に二度と消せないかもしれないような深いしわを刻む。
「おい高坂、いい加減にしろ。もう一本折ってやろうか」
俺はこいつに敬語を使わない。こんなどうしようもないバカに礼儀正しくするだけ無駄だ。
「ひでーなタン塩。それでも医者かよ! 来週はサッカーの試合があるから、こんなところで寝てる暇ねェんだよ、なんとかしてくれタン塩!」
全く無茶苦茶だ。医者に向かってこの口の聞き方。だいたい俺はそんな名前じゃない。
「ここは焼肉屋じゃねェ。俺はた、ん、げ! 丹下 だ! バカ相手だと自己紹介は一度で済まないんだな」
「バカっていうやつがバカなんだぞ! バカタン!」
「だいたい歩けもしない身体でサッカーなんかできるわけないだろ。そんなにむやみに暴れたら、本気でもう一本も折れるぞ。大人しく寝てさっさと治せ」
「治すのはお前の仕事だろ? 丹下センセー」
「だから、その仕事を仰せつかった俺がじっとしてろっつってんだから、言うこと聞けよ」
隙あらば無断離院しようとする高坂を病院総出で取り押さえる日々が続き、病院の運営に支障をきたし始めた頃、担当医である俺がなぜか見張り役も任されることになった。それまで受け持っていた他の患者は別の医師に振り分けられ、院長には「きみにしか頼めないから、とりあえず退院するまで大人しくさせておいてよ」と無茶振りをされた。
なんで俺が……。
ともかく、やるからには徹底的にだ。与えられた任務は完璧に遂行しなければならない。まずはこいつの脱走を止める方法を考えねば。そうでなければ泊まり込みで見張り続けるはめになる。四肢を縛って自由を奪うのも一つの手だが、それは最終手段だ。できれば人道的な方法で穏便に済ませたい。
まずはこいつを観察し、弱みを握ることから始めよう。
翌日、俺は出勤するなり、高坂の病室をのぞく。
「おっ、丹下せんせーじゃん。はよーっ!」
「よう高坂、お前に聞きてェことがある。お前の弱点は何だ」
「ねーよ。おれ強ェから!」
「強いやつはやたらめったらに怪我はしないもんだ。お前、ここに入院するの初めてじゃないだろ?」
俺がこの病院に赴任してきたのはこの春からだったから全く知らなかったのだが、こいつはこの病院の常連である。大体は喧嘩、時にはスポーツで怪我をして、ここへ来るらしい。入院こそめったにないものの、軽症は日常茶飯事のようだ。
外見からすると、意外だった。身長百七十センチ、決して大柄ではない部類の、ごく一般的な若者だ。顔なんてまだ高校生かと思うほどあどけない。このぱっちりした大きな瞳で凄むのは難しいだろう。とても喧嘩が強そうには見えない。無造作に切られた黒髪とか、装飾品のなさとか、そういうものも余計に幼さを際立たせているようだ。
身長や顔の作りといった、見た目だけを比べるなら、自分の方がよっぽど喧嘩っ早そうな外見をしているだろうと思う。
「先生おれのこと調べたのかよ」
「んなもん、嫌でも目につくだろうが。お前のカルテだけやたら分厚いからな。お前は何でそんなに喧嘩ばっかしてんだよ」
「別に好きでやってんじゃねーよ」
「だとしたら、巻き込まれ過ぎじゃないか? もしかしていじめられてんのか」
「まさか、ないない」
高坂は鼻で笑った。それから大きな伸びをする。あくびまで始め、あからさまにつまらなそうにしたので本題に入る。
「お前をここに留めておくのに、必要なものがあったら言え」
「飯が足んねーよ。せんせー病食食ったことある? あんなちょびっとの量で、しかも三食しかねーし。おれ餓死しちまうよ……」
ぎゅるるる……
まるで腹の中に恐竜でも飼っているかのような盛大な腹の虫を間近で聞いて、それがあながち冗談ではないことがわかった。
どうせ相手は単細胞だ。餌付けをすれば比較的容易に懐柔できるかもしれない。
行きつけの弁当屋に電話し、焼き肉弁当三人前を予約すると、早速俺は高坂と交渉に入る。
「いいか高坂。一日病院から脱走しなければ、ご褒美に焼き肉弁当を食わせてやる。三人前だ! もちろん退院するまで毎晩だ。だから俺が退院していいと言うまで、病院を抜け出すのはやめろ」
「マジで!? 毎晩焼肉とか夢みてーだな! いっそのことおれここに住んでもいいよ!」
「住むのは勘弁してくれ。俺も一刻も早くお前に退院してほしい」
「わかったよ、先生がそんなに言うなら治るまでここにいてやるしかねーな。じゃ、先生もここで一緒に食うってことで」
は? なぜ俺がお前と一緒にいなければいけないのか……。
こいつの脱走さえ阻止できれば日常を取り戻せると思っていたのに。
だが、結局俺は首を縦にふることになる。
高坂の笑顔がどうにもまぶしいのだ。なんというか、何の邪気もない子どもみたいな笑顔で、自分の頼みが通って当然みたいな顔をしているのに、押しつけがましいとは思えない。そんな風に正面から頼りにされてしまうと、断り辛い。まあどうせ、今の担当はこいつだけだ。もともとそういうスケジュールで病院も動いているんだから、問題はないだろう。なんだか丸め込まれているような気がしてならないが。それ以降、時間がある時は高坂の病室で過ごすようになった。
しかしいくら担当が高坂一人だからといって、俺は病院で遊んでいるわけではない。事務作業や会議など、下っ端の俺には治療や診療以外の仕事も結構ある。そんな時に高坂はナースコールで俺を呼び出すことが多くなってきた。俺は看護師じゃないから、呼ばれた看護師がわざわざ俺に連絡をよこすのだが、たいていは大した用事ではなく、「元気か?」とか、「DSやろうぜ」とか、「一緒に飯食おうぜ」とかどうでもいい事ばかりなのだ。俺はこいつのお守じゃない。
それに、驚いたことにこいつの世話をしたがる看護師は少なくない。だからそいつらに頼めばいいのだ。コールなどないのにいそいそと世話をしに行く女性看護師を見かけたのは、一度や二度じゃない。あんな傍若無人野郎の世話などなぜ好き好んでするのかと疑問に思った俺は、一度親しくしている看護師に聞いてみたことがある。
「立花さん、なんでみんなあんなクソガキの世話なんか焼きたがるんでしょうね? 俺は押し付けられてうんざりしてんですけど」
「一番世話焼いてる丹下先生が言っちゃいますか、それ。毎日弁当食べさせて、結構遅くまでそのクソガキちゃんの病室にいるの、知ってますよ。とてもうんざりしている人のやることには思えませんが」
「そっ、それは、あれだ! 別に何か特別な意味があるんじゃなくて、院長にも退院まで大人しくさせてろって言われてるし、ただ言いなりになってるだけですっ」
思ってもみなかったことを言われ、焦る必要などないのにしどろもどろになってしまった。
「へー、そうですか。ま、いいんですけど。晴くんはかわいいから、みんな癒されたくって用もないのに寄っていくんでしょうね。あんなに擦れてない大学生って今どき珍しいし。っていうか、丹下先生もそう感じてらっしゃるんだと思ってたんですけど、違うんですか」
可愛いだと? 癒されるだと? 疲れるのまちがいだろ。
俺が可愛いと思うのは、若い女性だけだ。高坂は確かに黙っていれば可愛い気もするが、そもそも一秒たりとも黙ってなどいないし、あいつの性質をそんなポジティブな形容詞で表現するのは不適切な気がした。余計な誤解はここで取り去っておきたい。
「確かに放っておけない感じはありますけど、可愛くはないですね。どちらかというと、憎たらしいです」
立花さんはなぜか爆笑し、「かわいさ余ってなんとかって言いますもんね」と頓珍漢なことを言った。
そんなわけで、今日も用もないのに高坂に呼び出された俺は、開口一番、文句を言う。
「高坂、お前はジジイか。下らないことでこんなに頻繁に呼び出す患者はたいてい暇を持て余した年寄りなんだよ。お前が俺を呼び出すなんざ百年早い」
「冷てーこと言うな。インチョーだってなんでも丹下先生に言えって言ってたぞ」
「あのクソジジイ」
「んなことよりよ、おれしょんべん行きてェ」
「尿瓶を使え尿瓶を」
「お前、あれがどれほど屈辱的なのかわかってんのか」
「お前って言うな。カテーテルを入れてやろうか」
「先生……、何でそんなにうれしそうなんだよコエーよ」
「医者だからだ」
「それ他の医者にシツレーだろ。医者が全員、人の体になんか突っ込むのが好きなわけねーじゃん」
「お前は突っ込むのと突っ込まれるのとどっちのほうが好きなんだ」
「どっちもいやだろフツー!」
「未開拓というわけか」
こいつは俺より一回り小さく、服を着ていると華奢に見えるのだが、その身体はしっかりと鍛え上げられている。ちょっとやそっとで吹き飛ぶようなやわな体幹ではない。それでもトイレは遠いし、車いすをめんどくさがるし、片足ではなかなかバランスがとり辛い。松葉杖でも何とかなるまでには、まだ時間がかかるだろう。
肩を貸してやるときに感じる高坂の体温はいつも馬鹿みたいに高い。最初は熱があるのかと思ったが平熱だ。単に熱いだけではなく、何となくポカポカするというか、冬のカイロのような心地のいい熱なのだ。
こいつをトイレに連れて行くのが一苦労なのは、連れていくとどっちの小便が勢いがあるか競争させられたり、バカでかい糞が出たから先生も見てみろと個室に呼び出されたりするからだ。とても二十歳とは思えないような子供じみた遊びに毎度付き合わされて、俺は帰宅するころにはヘトヘトだった。
入院してから一週間ほどすると、病室には毎日のように高坂の友達が見舞いに来た。メンバーはほぼ決まっていたが、それに加えて毎日新しい顔ぶれが増えていく。初日は四、五人だった見舞客も十日も過ぎると倍になってしまったので、流石に何か物申さなければならない。連日病院でパーティーなどやられてはたまらない。
「おいお前ら、ここは病院だ。宴会場じゃねェんだから、用が済んだらさっさと帰れ」
「わかったよ。お前も医者なら、晴を早く治してくれよ」
短く刈りこんだ頭の男が答える。そろいもそろって無礼者ばかりだ。
「問題ない。バカみたいな回復力で予定よりもずいぶん早く退院できそうだ。こっちもせいせいする」
俺はうっとうしさを隠さずに吐き捨てた。
一同は名残惜しそうに挨拶をし、ぞろぞろと退場していく。所狭しと人が押し寄せていた病室が急にがらんとすると、ベットにぽつんと座っている高坂の背中がいつもより小さく見えた。
この部屋に似合わない静寂が続く。
「せんせい」
そんなか細い声で呼ばれたのは初めてで、ぎょっとした。何か声を掛けるべきだろうかと思い、ゆっくりと近づいて隣に腰かけ、隣を見やる。
「なん……!」
何だよその顔!
高坂は、今にも泣きそうだった。大きな瞳がじわじわと潤み、きゅっと閉じられた唇がもごもごしている。まるで溢れる悲しみをぐっと耐えているような顔で。今一度でも瞬きをしたら、大きな雫がほろりと零れて、柔らかい頬を濡らすだろう。
胸のあたりがきゅっと掴まれるような気がした。そんな風に二十歳の男が恥じらいもなく泣くなんて思ってもいなかったので、これは完全に不意打ちだった。しかも、こんな、つまらない理由で。
突然高坂が抱きついてきた。
「一人は好きじゃない……」
震える声を胸に受け止め、俺は顔をしかめる。
なんだこのとてつもない罪悪感は……!
まるで俺が泣かしたみたいじゃないか。俺は医師として当然のことをしたまでだ。昨今の感染症への配慮などもある。
いつもの能天気がこんなに脆く崩れ去ってしまうと、心が落ち着かない。なんとしても助けたいと思ってしまうのが、人間のサガだ。
ぐずぐずと鼻をすすりながら、子どものように泣きじゃくる高坂を自分の胸に押し付ける。頭皮が熱い。汗でしっとりと湿っていて、泣くのもエネルギーがいるんだなと思った。こいつの涙と鼻水で、アイロンがかかった白いシャツがぐちゃぐちゃに汚れる。
「悪かった……」
つい謝ってしまったが、俺は悪くない。なのに勝手に口から零れる言葉。
両腕に力を込めると、いつも以上に高い高坂の体温に、自分の身体の奥の柔らかいところを包み込まれるような気がした。なんとも離し難い。
「高坂、俺はお前をいじめたいわけじゃない。病院には病院のルールがある。それを守ってくれさえすれば、別に人を呼んでも構わない」
「わが っで る。でも、ゆうがだには、び んなが えらねェといげ ねェだろ? ぞじだら おで 、ひど りだからよ……」
はっ、もしかして……。
俺は気づかなくていいことに気付いてしまい、途方にくれる。
高坂は、毎晩、一人で泣いていたのかもしれない。
誰もいない、病室で。
確かに俺がこいつの夜食に付き合うことはあったが、毎晩ではない。俺が帰った後もこうしてめそめそ泣いていたのかと思うと、いたたまれなくなった。次の瞬間、つい口走ってしまった言葉に、俺は自分自身の耳を疑う。
「あいつらが帰った後は、お前が寝るまで俺がここにいてやる。今まで通り、出勤したらまずここへ来てやる。それでお前は寂しくないだろ」
「ほんど が ? おば えいいせんせーだな」
くそーっ!! 俺は早く帰って休みたいのに!
自分の気持ちとは裏腹に、次から次へとこいつの思いに答えてしまう。何故だ……。
どのくらいそうして抱きしめていただろう。差し込む光が弱くなり、薄明りの中でようやく胸の中の泣き虫が大人しくなった。そっと覗き込むと、泣きはらした目と視線がぶつかる。頬も鼻も赤く染めた鼻たれ小僧に、不覚にもきゅんとしてしまった。
そうか、看護師たちはこのギャップにやられたんだな。喧嘩っ早くて向こう見ずな若さに隠れた、泣き虫で寂しがりやな一面に。
気付いたら、親指で濡れた頬を拭っていた。しっとりとした皮膚が、ひんやりと冷たかった。
ティッシュを小さな鼻にあてがうと、何の遠慮もなく思いきり鼻水を飛ばす。勢い余ってティッシュごと吹き飛んでいきそうで、少し笑った。
「もう弁当の時間だな。持ってくるからちょっと待ってろ」
まるで動物園の飼育員の様な心持ちで、高坂に約束の焼き肉を献上する。弁当だけじゃ足りないかもしれないと思い、暇を見つけては夜食にコンビニデザートまで用意するようになったのはいつのころだったか。そんなつもりはないのに、つい甲斐甲斐しく世話を焼いてしまう。自分が解せない。
「いただきまーす!」
こいつは食事の前後だけは行儀がいい。食べ方に品はないが。
「せんせーは食わねーの? 晩飯」
「俺は帰ってから食う、気にするな」
「ん」
目の前に肉が差し出される。ぽかんとしていると、
「先生口あけろ。うめェぞ」
言われるがままに口を開ける。俺はその後もされるがままに肉を食わされ、それでやっと、食欲はなかったが、腹は減っていたのだと気づいた。こいつといると、どうも調子が狂う。自分の知らない自分の一面を暴かれるような気がするからだ。
「すまん、高坂、お前の飯なのに」
「いいよ、先生が用意してくれたんだろ。おれも結構食ったし、先生と一緒に食べたほうがうめーし」
なんだそのかわいい発言は。やめろ、そんなにニコニコするのは。
俺はなんと返事をしたらいいのかわからない。
それから毎晩、約束通り高坂が眠りにつくまで俺は傍で見守ることになった。最初はベッドの横に座っているだけだったのに、いつの間にか添い寝が習慣になっていた。いつどうやってそれが始まったのかはもう思い出せないが、こいつには俺が抗えない何かが備わっているようだった。
それはたとえば、寝る前に抱きしめた時の体温だとか、うなじから漂う形容しがたい柔らかい匂いだとか。とにかく、引き寄せられるのだ。これが立花さんの言っていた、癒しかもしれない。
だが、彼女たちが高坂と体温が分かるほど長く触れあったり、体臭のわかる距離にいるとは、ちょっと考えられない。もしそうだとしたら、それは少し不愉快だ。
俺は患者に何をしているんだと罪悪感が襲ってくることもままある。しかし、別に誰かを困らせているわけでもないし、よこしまな気持ちは一切ないのだからまあいいか、と考えるのを放棄してしまう。
高坂は人間とは思えないほどの早さで回復している。当初は四週間必要だと思われていた入院も、三週間ほどで済みそうだ。もうとっくに誰の介助も必要なく日常生活を送れているのに、俺はこいつの退院を早める決断を渋っていた。たった数日の間に俺の日常生活のほとんどを支配していたこいつは、気が付いたら俺の心も占領していた。けれどそれが具体的にどういう感情なのかまでは、自分でもよくわからないままだ。
「なあせんせー、退院したら全快祝いやろうぜ」
「退院しても、全快まではしばらくかかる。引き続きリハビリは必要だし、定期的に通院もしてもらう」
「そっか、じゃあ退院してもまた先生に会えんじゃん」
「お前、何で俺に会いてェんだよ」
「だっておれら友達じゃん」
「俺はお前の友達になった覚えはねェよ。だがまあ焼き肉ぐらいは連れて行ってやる」
こうして焼き肉の約束を取り付けると、高坂はあっけなく退院していった。
***
高坂が退院した途端にもとの生活が戻ってきた。あんなに取り戻したかった平穏な生活が帰ってきたにもかかわらず、虚無感が押し寄せる。果たしてこれが本当に自分が欲しかった人生だったのだろうかと、ぽっかりと空いた心の穴をのぞき込むような数日を過ごしていた。
たった数日。なのに、何年にも感じた。無性に高坂に会いたかった。焼き肉の約束をしたときは何故そんなことを口走ってしまったのかと後悔していたのに、その日が近づくにつれ不思議と楽しみになっていた。
ものすごい勢いで次から次へと皿を空けていく高坂を眺めながら飲むビールは最高にうまい。成人男性とは思えない子どもっぽさで、口のまわりを汚しながら、うまいうまいとほおばる姿が小気味よい。食わせれば食わせるほど、自分の腹も満たされる気がした。
そのうち週末の逢瀬が習慣になり、自然と土曜の夜は空けておくようになった。たいていの場合は晩飯を共にして解散だが、昼間に映画に行ったり、遊園地に行ったりすることもあった。休日返上でなぜ俺はこんなガキの相手をしているんだと思わないでもなかったが、ともに過ごす時間は充実していた。
あれだ、庇護欲だ。
巣から落ちたヒナを見つけたら、怪我の処置をして一人前になるまで世話をしてやるのが道理だ。それと同じだ。俺はかわいいものに目がないからな。
言い訳みたいにときどき浮かぶ疑問に、そうやって折り合いをつけていた。
高坂が相変わらず喧嘩ばかりしていることも、俺の心配を煽る種だった。
あるとき、うちに晩飯を食いに来た高坂の口の端が切れて、血が固まっていた。玄関先で顔を合わせて早々にその怪我を見つけ、自分の把握しきれないところで無茶をするこいつに、無性に腹が立った。
「おいお前、どうしたその傷」
「大したことねーよ。なめときゃ治るから」
「お前は医者か? 知識もないくせに粋がってんじゃねぇよ。とりあえず上がれ」
高坂は右手の指の節も切っていた。赤黒い血がこびりついていて、まだかさぶたになりきれていないそれは、殴った際に相手の歯に当たって切れたものだろう。放っておいたら感染症になるかもしれない。俺は何も言わずに傷口を洗い、患部を消毒する。節ばった指は意外と長く、男らしい。それでもその手は俺のものより少し小さく、暖かい。
「お前の中にも、ちゃんと赤い血が流れてるんだ。人間だからな。だから、怪我もするし、病気もする。お前、もっと自分を大切にしろよ」
痛ましい手にガーゼを乗せながら、俺は本音を言った。
なぜこいつはこんなに傷だらけなのか。
いつもそうだ。怪我をする理由も知らないのに、それがひどく不当で理不尽なことのように感じる。それは、こいつが泣き虫だからだ。今だって、目に涙を浮かべて、しみる消毒液に耐えている。そこまでして戦わないといけない理由など、あるはずがない。
それにこいつは人気者だ。決して憎まれっ子ではない。入院中はそれこそ連日パーティー会場みたいにたくさんの見舞客が来ていたし、病院中の看護師達のハートもかっさらっていったのだ。一体どこで誰と喧嘩をする必要があるのか。
「でも、友達も大切だからさ」
ぽつりと、高坂はそう言った。
「お前の友達は、お前に血を流してほしいとは思っていないはずだ。俺だって、お前が苦しんでいるのを見るのは辛い」
「おれ、一人じゃ生きていけねーからさ。あいつらがひどいことされたら、おれは黙ってらんないわけ」
「やられたらやり返すっていうのは、漫画やテレビの中だけで通じるんだよ。憎しみから生まれるのは憎しみだけだ。人から恨みを買うような生き方してたら、いつか取り返しがつかなくなる」
俺はいつかの病院で「一人は好きじゃない」と言って泣いていた、こいつの頼りない背中を思い出す。こいつはひどく寂しがり屋だ。毎日あんなに沢山の友達に囲まれていながら、それを失うことを何より恐れている。周りの人間が離れていかないように、暴力で守ろうとしている。
そんな痛々しい姿になったって、人は離れていく時は離れていくのだと言葉でわからせることは無理だろう。俺だってそんなことは、こいつより少しだけ長く生きているからこそ知っているのだ。誰かから教えてもらったんじゃない。
見ているこっちの胸が痛くなるような危うさで、高坂はそこに立っていた。
退院から数か月が経った診察日。リハビリも想像以上の早さでこなしていき、史上最速で回復する高坂は本当に人間離れした体を持っているらしい。うそみたいにきれいに治ったレントゲン写真を見て、もう来なくてもいいと言う言葉を飲み込んで、次は六か月後だ、と伝えた。
不覚にも、名残惜しいと思ってしまった。
毎週末会っているのに、仕事とはいえ病院で会えるのがうれしかった。こいつがいると、殺伐とした職場の空気が一気に和む。こいつは無礼だが、全くと言っていいほど邪気がない。まるで子犬のように愛嬌を振りまく高坂は、行く先々でファンを増やしていく。気が付いたときには病院でこいつの名を知らない者はいないほど有名人になっていた。
そして今日は高坂の全快祝いと称して行きつけの焼き肉屋に集合している。こぢんまりとしたボックス席。久しぶりに酔いがまわっていい気分だ。高坂も風船のように腹を膨らませて一段落したようだ。
「おい高坂、スプーンって十回言ってみろ」
「いいぞ! スプーンスプーン……」
「スパゲッティを食べるのは?」
「おれだ!」
「そうきたか」
常に期待の斜めを上をいくな、お前は。当然フォークとは言ってくれないわけだ。
「高坂、次の問題だ。今度はシャンデリア。十回言え」
「おう! シャンデリア、シャンデリア……」
「毒リンゴを食べたのは?」
「おれだ!」
「またお前かよ! お前の食い意地にはあきれる」
「じゃあ次はおれの番な! 先生、かっこいいって十回言って」
「かっこいい、かっこいい……」
「くっはははは! だろだろ? 知ってるけどな、おれカッコいいって」
「お前……、やりやがったな」
「先生、もっかい言ってよ。今度はおれの目見てカッコいいって言って」
「思ってねえんだから言うわけないだろ。ほら食え」
俺は悔し紛れに、俺の皿に残っていたカルビを大笑いしているその口に突っ込んだ。
「そもそもお前はかっこいいじゃなくて、かわいいだろ? 立花さんもそう言ってた」
「かわいいとかうれしくねー」
「次は俺の番だ。高坂、好きだって十回言ってみろ」
「好きだ、好きだ、好きだ……」
「俺もだ、高坂」
「えっ」
目を見開いたまま、時間が止まったように固まる高坂。ちょっとからかってやろうと思っていただけなのに、何だその反応は。みるみるうちに耳まで赤く染め上げて、膝を抱えて下を向いてしまった。
「おい、ちょっと待て高坂。今のは……」
何か弁解しなくてはと思い、立ち上がって高坂の隣に移動したとたん、なんとも言えないいい香りが漂ってきた。ほとんど同時に、高坂が顔を上げる。
「先生、やべえよ……。その匂い、焼き肉なんかより全然いいんだけど」
「それはお前のほう……」
高坂が俺の首筋に両手を回し、縋るように抱きしめてきた。耳元で「はあぁ……」と吐かれた息が、皮膚を濡らす。体中にビリビリと電撃が走る。こいつから放たれる強烈な匂いが肺を満たし、身体の内側からどんどん力が抜けていく。脳が痺れるような興奮を覚えて、身体の奥が疼く。
「せんせい、おれあちィ……」
いつも以上に熱を持った高坂の体を離さなければ、放心しそうなほど強力な何かに意識が持っていかれそうだった。一つの可能性が脳裏をかすめる。
「高坂、お前オメガだよな。ヒート起こしてんじゃねェか?」
カルテに書かれていた高坂のデータを思い起こす。
この世には男女の性に加えて、アルファ、ベータ、オメガという三つのバース性が存在する。この三つの性は、今やほとんどの人間にとって血液型くらいの意味しかない。まさに時代に淘汰されつつある、消えゆく特性だ。九十九パーセント以上の人間はベータだからだ。ベータには、男女の性以外の身体的特性はない。
だがアルファとオメガは違う。
オメガには男女問わずアルファと子どもを作るための生殖器官が備わり、アルファを惹きつけ妊娠しやすくするためのヒートと呼ばれる発情期がある。その周期も長さも人によってさまざまだが、望まないヒートや妊娠を避けるため、現代ではアルファとベータには五年ごとのワクチン接種が義務付けられている。小学校在学中のバース性検査で事前に発覚し、第二次成長期が始まる前にワクチン接種が開始される。予期せぬヒートが起こって困ることなど、今どきほとんどない。
アルファとオメガのカップルなんてのも、そもそも病院に通ってヒートを誘発する薬をもらわなければ妊娠不可能なこともあって、最近はほとんどない。
加えてアルファは一万人に一人。オメガはもっと少ない。医者になってからは医療データとして患者のバース性を確認はするが、それでもオメガを診たのは今までに数人ほどだ。
だから、医者の俺でもヒートを目の当たりにするなんてことは初めてだ。
高坂の今の症状がヒートだという確信に近いのは、俺がアルファだからだ。こいつから発せられる抗いがたい匂いのせいで、体が熱い。離れなければまずいと思うのに、到底逃れられそうにない。
だがなぜ?
こいつのワクチン接種は確認済だから、ヒートを自然誘発するなど不可能なはずだ。
「高坂、今すぐ救急車を呼ぶから少し待ってろ」
「せんせ……」
蚊の鳴くような声に呼ばれ、何とか高坂を引き離す。
「ダメだっ、先生。行くな」
「高坂、俺はアルファだ。お前のヒートに当てられてると、俺もお前に何をするかわからねェ。だからっ」
「先生! おれ、先生じゃないとダメだからっ。おれ……、先生が好きだからっ」
高坂が胸ぐらを掴んで、俺をぐいと引き寄せる。
くそっ、そんな目で見るな!
そんなセリフを今吐くな!
奥歯を噛みしめる。俺の理性がグラグラと音を立てている。懇願する高坂の瞳が涙で濡れている。その奥に確かに宿る情欲の光から、目が離せない。早くほしいと、その表情が、香りが誘っている。
ぱちんと、糸が切れた。
片手を高坂のシャツに潜り込ませ、もう片方の手で後頭部をつかまえて、無防備な唇を奪う。思った以上に柔らかく、そして甘い。さっきまでほおばっていた焼き肉の味などほとんどしない。
「……んっ」
その甘ったるい吐息に鼓膜が溶けそうだ。薄い唇をなぞると簡単に隙間ができ、入れた舌先は何の抵抗もなく受け入れられた。
くぐもった甘い声と粘膜が交わる音が口内で響く。かき消されていく店の喧騒。じわじわと高坂を壁際に追い詰めていく。
「せんせい、もっと」
かわいいと思ったことがないと言えばうそになるが、今の高坂はかわいいなんてもんじゃない。それはもう、暴力的なまでの色香を放っていて、今すぐにめちゃくちゃにしたい衝動に駆られる。経験したことのない強い欲望の渦に飲まれていく。自分でも信じられない。
俺は舌打ちした。
まずは、ここを出なければ。
「高坂、うちに来い」
***
店を出ると、高坂を抱えてタクシーに乗り込んだ。
触れるとそれだけで息が上がってしまうのはお互い様だが、高坂のほうは足腰も立たないほど重症だったので、俺が何とかするしかなかった。
指紋認証でドアを開け、二人して玄関になだれ込む。その拍子に腕が当たり、立てかけていた傘がパタンと床に叩きつけられる。
俺の下敷きになった高坂をひっくり返して仰向けにすると、再び覆いかぶさって夢中で唇を重ねる。舌が、唾液が、絡み合うほど熱を帯びる。
「はぁ……」
重ねる唇の隙間から、高坂の淡い吐息が漏れる。そんな色っぽい声が出せるなんて思いもしなかった俺は、浅ましいほどの欲に駆られた。唾液を集めて舌に絡めると、溺れまいと必死で受け止める高坂の咥内から、二人分の液体が溢れる。
「飲めよ」
高坂の細い喉仏に指を置くと、小さく上下した。一秒も高坂から唇を離していられない俺は、すぐさま舌をねじ込んで、執拗に舌で征服する。まるでそのすべてを知っておかなければいけないとでも言うように、咥内を余すところなく蹂躙する。
腰と腰が擦れると圧倒的な快感が襲い、背中が粟立つ。
「一回シャワーしとくか? このままベッドに行くか」
組み敷いておいて、今更俺は何故こんな無駄な質問をしているのか。シャワーなどする余裕はない。バスルームに行ったところで、することは同じだ。
「なんでもいいから、早く……」
震える声で急かす高坂に、俺の中の何かが爆発する。玄関に充満する高坂の匂い。気が狂いそうだ。
その場でお互いのシャツをはぎ取りながら、まだ靴も脱いでいないことに気付く。自分の靴を乱暴に脱ぎ捨てると、高坂の足首を捕まえてその指にかろうじて引っかかっていたビーサンを落とす。
くるぶしを舐めながら足の指の間に指を絡ませると、高坂が身をよじった。
「ひひひっ、それくすぐってェ……」
「そんな顔で言われても、説得力に欠けるな」
「でもホントだか、ら……あっ、んん!」
足の親指を咥えこんだ途端に、笑い声が喘ぎ声に変わる。指の一本一本を口の中で転がす度に背中を弓なりにそらせる。もう片方のサンダルも脱がせて指で弄びながら、強めに吸ったりなめたりすると、口淫をしているような錯覚を起こす。淫らな水音。その合間に、唇を噛みしめている高坂の甘い声が、鼻から抜ける。愛撫の間、俺は視線を高坂から逸らさない。
逸らさないのではなく、逸らせないのだ。
普段は性欲なんて欠片も感じさせないような純真無垢な顔をしているくせに、今のこいつは触れるたびに熱い吐息を吐き、眉根を寄せて、息を上げている。どこを触っても感じている。
そんな表情はずるい。
そんな風に乱れられたら、こっちが持たない。
煽られて、こんなに余裕がなくなったことなど今までなかった俺は、苛立つ。乱暴に扱いたいような気分になる。
両足を解放してやると、両手を高坂の顔の横につき、見下ろした。
潤んだ瞳。紅潮した頬。普段とのギャップが大きすぎて、脳がついていかない。
「せんせ……」
高坂が焦れるように首筋に手を回してきたのは、間違いなくキスの催促だ。全く余裕のない俺は、空腹の肉食獣が餌を漁るみたいに必死でその口に噛みついた。
その官能的な匂いは、耳の辺りから漂っている。導かれるようにそこに舌を這わせながら、反対側の耳輪も指でなぞる。形のいい耳をすっぽりと口に含んで舌で弄ぶと、悩ましい声が玄関に響く。
布越しに擦りあわされている互いのものはこれ以上ないくらいに主張しており、だらしなく垂れる体液でシミをつくっている。擦れるたびに上ってくる快感が背中を駆け上がり、欲望が際限なく膨らんでいく。
「んっ、せん、せっ……」
もうその声だけでイけそうだった。細い首筋、浮き出た首の血管、深い鎖骨のくぼみ、意外と厚い胸板。その形を確かめるように、体中に手を這わせ、胸の飾りに触れたとき、高坂は小さく震えた。汗を掻いているのに高坂の体はどこもかしこも甘くて柔らかい。脳まで溶けそうなほど、濃厚だ。
我慢の限界を知らせるように、ズボンに伸ばされる高坂の手。素早くつかんで口づけする。
「せんせっ、も、もう、さわんねーと……!」
「自分で擦るのか、せっかく俺がいるのに」
「じゃあ、はやくっ……」
これは、やばい。
たまらない。
腰を俺にこすりつけながら涙目でねだる高坂など、入院中には全く想像もつかなかった。初々しさと艶っぽさが混在している。
興奮で脳が煮えたぎる。
高坂の半身を起こし、後ろから抱きしめる。玄関ドアが視界に入り、そういえば向こう側は外廊下だったと思い当たる。床に捨ててあった高坂のシャツを掴むと、袖口を小さく丸めて口に押し込む。
「ちょっとこれを咥えてろ。お前の声を他の誰にも聞かせたくない」
本当はもっと啼かせたい。でも、他人を楽しませる趣味は俺にはない。それに、シャツを咥えて呻く高坂の姿も悪くない。俺はいますぐ高坂に触れたいのだからどうしようもない。もう一秒たりとも待てない。
その背中にピタリとよりそうと、ズボンを押し上げる自分のものが高坂の腰にあたる。そんなわずかな刺激にさえ、ぞくりとする。肩越しに高坂のズボンを確かめながら、右手を忍び込ませ、触ってほしいと懇願していたそこをそっと取り出す。
「っぐ……」
高坂の左腕が俺の腕に絡みついてくる。少し小ぶりなそれは俺の手にすっぽりと収まり、トロトロと愛液を滴らせる。そこにしっかりと浮き出た血管は、限界まで硬くなっていることを示しているのにいやらしさがない。色も淡く、皮膚も滑らかで、明らかにほとんど触れられたことがないからだ。初々しくて、いじらしい。
高坂がくぐもった声で何かを訴えかけてくる。振り返った目に涙が浮かぶ。その目じりを舐めとって、上下に動かし始めると更に啼き始めた。
さるぐつわをされたままでも、その声が、仕草が、俺の下半身に痛いほどの熱を注ぎ込む。どうにもならなくて、使ったこともない左手で自身を擦る。両刀使いとはこのことかと考える暇もないほど絶頂が近かった俺は、高坂と一緒にあっという間に吐精した。
体液でぐちゃぐちゃの玄関マット。全く収まらない熱。それどころか、体の奥の方がうずいてたまらない。今すぐ高坂を奥まで突いて自分のすべてを放ちたい。
瞬時に熱が戻ってくる。出しても出しても全く収まる気配のない熱に翻弄されながら、俺たちは朝まで慰めあった。
***
翌日が日曜日で良かった。目覚めた時にはとっくに昼を過ぎていた。
あの後ベッドに移動したが、所かまわず精を吐き出したせいで、そこら中独特の匂いがする。こんなに悲惨な現場に、全く似つかわしくない高坂の寝顔。穏やかな寝息を立てながら鼻提灯を膨らませている。
あー、やっちまった……。
俺は大きくため息をついて、額に手をやる。
医師が元患者に手を出すとか、ダメだよな。しかも七つも年下だし、法律違反ではないけどモラル的にちょっとアウトだよなあ。
なにより受け止め難い事実は、俺の鉄壁のストレートの壁を、高坂はいとも容易く飛び越えてきたということだ。
いや、でも昨日のあれはちょっと凄かった。事故としか言えない。あんなふうにいい匂いをぷんぷんさせて迫られたら、お釈迦様でも逃げられまい。
そのくらい、高坂の色気はすさまじかった。
そして、あんなに気持ちいい情事も初めてだった。正直、死ぬほどよかった。挿入はしていないにしても、今までの体験の中でもぶっちぎりのよさだった。
ひとたび高坂に触れてしまったせいで、もう俺は以前の平穏な性生活に戻れそうにはない。女性との経験もそれなりにあるし、自分が下手だと思ったことはないが、高坂と体験してしまった今、俺は認めざるを得ない。俺の今までの女性とのセックスなぞ、子供だましだったと。
昨日のことなどなかったように、長い睫がその柔らかそうな頬に影を落としている。胸に何かが込み上げてくるのに、それがなんだかわからなくて、俺は目をそらした。
「はよ、せんせー」
「起きたか高坂。気分はどうだ」
「もう先生の匂いしないな」
「俺もお前の匂いがしない。どうやらヒートは終わったようだな」
「うん。でもなんでヒート来たんだろ。ワクチン接種してんのに。昨日は先生の匂いがマジやばかった」
「理由は今すぐにはわからねェな。またヒートがくる可能性はあるし、病院行って、抑制剤を処方してももらうべきだろう。俺も一応検査を受けるつもりだ」
抑制剤は、ヒートが起こって十分以内に摂取すると症状を収めることができる。ただ、それはワクチン未接種のオメガと、ヒート誘発剤を使ってヒートを起こしたオメガに限られる。高坂のような状態は前例がない。
「でも次も先生が助けてくれんだろ?」
「次回もすぐ駆けつけられるとは限らねェだろうが。これは事故だ。事故は防ぎようがねぇ」
「事故? せんせーは後悔してるってこと?」
見上げる大きな瞳に、不安の色が滲む。俺はそれを見ないようにした。
「後悔したって今更なかったことにはできねェだろ。経験してわかったが、あんな強烈なの避けようがねェ。お前の身のためにも、二度と起こらないようにするべきだ」
途端にしゅんとする高坂。犬だったら尻尾も耳もぺたりと垂れさがっているところだ。
そんな顔をするな! 俺は大人として当然のことをしようとしているだけなのに。いや、昨日あんなことをしておいて今更だが。
俺は、はあーっと大げさな溜息をついて、決心を口にする。
「分かったよ。次回のヒートも俺が責任もって付き合ってやるから、なんかあったらすぐ連絡しろよ。二度と起こらなければそれでよし。もし起こればトリガーが何かわかるかもしれねェ。ワクチン接種済でヒートが起こるってことは、抑制剤が効く保証もないし、トリガーを避けるのが最善の策かもな。それが分かれば、だが。でも抑制剤は持っておくに越したことはない」
急に高坂の顔がパッと明るくなる。暗い部屋に電気をつけたように。
「ホントかせんせー! ありがと!」
ぎゅうぎゅうと力任せに抱きしめられて、肋骨が痛い。カピカピの肌が擦れて気持ち悪い。昨日の情事の跡が色濃く残るこの部屋も早く片づけたい。なのにこの温もりを剥がしてしまうのは、どうしても惜しいと感じ、自分の鎖骨辺りにくっついた形のいい頭を見つめる。どうしたものかと思っていると、一つの可能性が頭をかすめた。まだ寝起きで大して頭の働かない俺は、思いつくままに口にしていた。
「運命の番って知ってるか」
「なんだそれ」
「医学的に証明されてねェから、迷信だと思っていたんだが。ひょっとしたら俺とお前は運命の番かもしれない。アルファとオメガにはごくたまに強力に惹かれ合う組み合わせがあって、それを昔は運命の番と呼んだ。そういう話が好きだろ、人間は」
「ふーん。医者のくせに医学より迷信を信じるってこと?」
「いや、信じるとは言っていない。だが昨日のお前のヒートは抗いがたいもんだったから、それが運命の番のせいだと思えば納得がいく部分もある」
「先生……」
胸の中から抜け出した高坂が、まっすぐ俺を見つめる。強い意志が宿っているような、黒目の奥の光。
目だ。
こいつの目が、おれはけっこう好きだ。
見とれていると、ひゅっと風を切って高坂の拳が目の前に飛んできた。反射的に左の手のひらで受けると、じりりと痺れるような鈍痛が手首へ走る。遊びでも手加減を知らないこいつの拳は重い。拳を俺の左手に預けたまま、高坂は迷いのない、澄んだ声で続ける。
「おれは運命とかそんなことどうだっていい。おれの人生はおれが決める。先生もやりたいように、自由に生きろよ」
俺は少し気圧される。
「そうだな、お前らしい」
自由か。
自由に生きるって、なんだろう。俺は不自由はしていない。不満もそんなにない。だが、自由かと聞かれると、よくわからない。
それに、気づいてしまった。
俺は運命という考え方が、そんなにきらいじゃないということを。別に、運命に縛られていたって、それはそんなに悪いことだと思えないのだ。
少なくとも、俺はこいつとの関係を、運命だったとしたら悪くないと思い始めていた。
そうじゃなければ説明がつかないのだ。こんなに心を揺さぶられたことが、今まで一度たりともあっただろうか。
だが。
俺は心の中でため息をつく。
高坂は、運命なんか信じない。むしろそんな考えは、こいつの足かせになるだろう。こいつはそんなものに左右されず、自由に生きたいのだ。だとすれば、俺の存在は、こいつの邪魔になるんじゃないか。自由に生きたいお前と、お前を自分の腕の中に閉じ込めておきたい俺が一緒にいれば、少なくともどちらかが自由じゃなくなるんじゃないだろうか。
つづく
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