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近づくほどに、離れてく

 その後も何事ももなかったかのように週末は高坂と飯を食いに行ったり、遊びに行ったりしている。たまにうちに遊びに来ることもある。いたって健全な、よくある男同士の関係に戻っていた。  不健全なことをした分際で言うのも気が引けるが、つまり、むやみに高坂に触ったり、要らぬちょっかいを掛けたりなどはしていない、ということだ。一応自分なりに、気を使っているつもりだ。  どう考えてもあの時の一連の行為はヒートが原因だった。 『おれ……、先生が好きだからっ』  確かに、高坂はそう言った。偽りのない目で、まっすぐ俺を見つめて。胸の奥で、ぱりんと薄いガラスが砕ける音がした。それは俺の理性が崩れる音だったのか、はたまた近しい患者という何かよくわからないけど心地よい関係が壊れる音だったのか。  あいつの『好き』にひどく動揺したのに、それがヒートによる衝動だったのだと考えると、気が重くなった。  聞いてしまえるなら、いっそよかったのに。それは一体、どういう『好き』かと。あるいは、ヒートではなく素面のときにも、やはり『好き』だと、思ってくれているのかと。  それを聞けないのは、もし答えを聞けばこの関係が終わってしまう気がして、怖いからだ。もうすでにあいつに執着してしまっている俺にとって、冗談でも高坂の口から『やっぱり勘違いだった』と聞いてしまえば、冷静を保ってなどいられない。  三十を目前にしても、俺は笑えるほど子どもだ。情けなさと女々しさにかけて、俺の右に出る者はいない。ダサすぎて屁も出ない。それでも俺は、高坂の前では大人の男でいたいし、高坂を失いたくなかった。  そして前回のヒートから二か月近く経った今、俺達はまた晩飯を共にしている。リビングのローテーブルにズラリと並んだ食べ物。もちろんほとんど高坂の腹に収まっていく。床に腰を下ろした高坂を隣で眺めながら、たわいもない話を酒のつまみにする。相変わらずこいつを目の前にすると気が緩んでしまう俺は、いつもよりも速いペースでビールを空けている。 「大学で鶏が先か卵が先かっていう話をしてたんだよ。そんでおれはずっとどっちを先に食いてェかって話だと思ってたんだけど」 「そんな高尚なことはお前に話すだけ無駄だな」 「まぁ聞けよ。おれは肉が食いてェから迷わず鶏からいくけど、先生はどうする?」 「どうするも何も、それはそういう問題じゃねェだろ」 「焼き鳥か卵焼きかどっちが好きかって聞いてんだおれはっ」 「じゃあそう言えよ」 むしゃむしゃと串ごと食いそうな勢いで高坂が焼き鳥を平らげる。この細い体のどこに入っていくのだろう。あの夜抱いた華奢な腰をうっかり思い出して、慌ててビールを煽る。 「ねえ先生、イカとタコの違い知ってる?」 「イカは足が十本、タコは足が八本だ。正確にはイカは二本の触腕があるから、それを除けば実質足は八本とも言えるが」 「てことは、イカの足を二本食ったらタコになんのかな」 「なんねェよ。お前の足を二本切り落としても、お前はお前のままだろ」 「なっ、コワ! それは医者だから!? 先生は医者だから、人の体をそうやって簡単に弄ぶのか?」 「聞き捨てならねェな。お前の体を弄んだことなど一度もな……」 「ねェよ! そこで止まんなよっ、バカ! 赤くなるな! なんか色々思い出すだろ! バカタン!」 「なってねェ。お前が先に言い出したんだろうが高坂」 高坂が真っ赤になって俺の頬を両手でパチパチ叩くので、俺の頬は痛みで本当に赤くなってきたかもしれない。  あれから俺たちはヒートのことについて一度も話していない。鮮明に焼き付いている記憶をわざわざ思い出すと気まずくなる気がして、話題に挙げるのを避けてきた。 「あれから一度もきてないんだろ? ヒート」 「うん。初めてだから、くるとしても次がいつかなんて全くわかんねーけど」 「こないといいな」 「先生はさ……」 隣に座っている高坂の膝の上で、拳がグッと握られるのを、ぼんやり眺めていた。その関節に残るかさぶたがきれいに取れるまで、こいつは喧嘩をしないでいられるだろうか。 「おれと、もうしたくねーの?」 「それは……っ」 予想だにしなかった言葉に、一瞬思考が止まる。  伏せていた目を上げると、すぐ近くに高坂の顔がある。その瞳はこちらを見ない。長い下睫毛が、どこか一点を見据える目の周りに影を作っている。  たとえば。  ここでもし、したいと即答していたって、きっと何も変わらなかっただろう。正しい答えは、「したくない」だったからだ。仕方がない。俺は正直なのだ。  いや、正直でもない。俺はズルい。  むくむくと湧き上がるいたずら心を抑えきれない。自分の吐息の温度がはっきりとわかる距離に、唇を寄せた。その耳輪にふぅっと小さく息を吹きかけ、反応を楽しむように低い声で囁いた。 「お前がしたいなら、してやるよ」 高坂の肩が小さく震え、途端に耳がピンク色に染まると、そこから覚えのある香りが漂ってきた。あの時と同じ、俺の背中をぞわりと駆け上がってくる情欲。  くそっ、今かよ……。  抑えられなくなるだろうが。  高坂がこちらに顔を向けると、もうそこにはいつもの無邪気な表情はなかった。 「せんせい、また、その匂いヤバいから……」  俺の中のスイッチが入る。傍に置いてあった高坂のキャップ帽を拾い、つばを後ろにして目深に被せる。高坂の視界を覆うように両手で固定する。  かたんっ……。  慌てた高坂の肘が、空のグラスにぶつかった。 「なんも見えねー!」 「見せねェようにしてんだよ、高坂。今にも俺に食いかかってきそうだったからな。獣を野放しにはできないだろ」  我ながら白々しい。食いかかりそうだったのは高坂じゃない。  俺だ。  高坂の頭をつかまえたまま、話を続ける。 「ゲームをしよう。どれが俺の味か当てられたら、ちゃんと俺をくれてやるよ」  皿の上に転がっていた焼き鳥をひとかけつまんで、「何か当ててみろ」と言いながら高坂の口に押し込む。柔らかそうな唇の内側に肉の塊が消えていく。それを舌なめずりしながら見ている俺の表情は、こいつには見えない。ほとんど噛まずにその細い喉仏が上下する。 「焼き鳥だ」 「正解」  べたべたになった指をその口に突っ込むと、暖かいを通り越して熱い。柔らかい舌がタレを舐めとると、名残惜しそうに指先まで吸引された。背中の産毛が逆立つような興奮を覚える。  次は、食べかけのヨーグルトをスプーンで山盛りにすくって、目の前の口に放り込む。 「デザートも食うか」 「ん、ヨーグルトだ」 「正解」 口の端から垂れるヨーグルトがひどく扇情的で、高坂の舌より先に舐めとってしまう。ヨーグルトの味など全くしない。ただ高坂の甘さが俺の舌を痺れさせていく。次の餌を待っている口の中に、ちろちろと動く赤い舌。  我慢できない。  まるで誘っているようなその穴に舌を入れると、吸い付くような反応が返ってくる。その柔らかさに脳みそまで溶かされて、あとに残るのは欲望だけだ。荒くなる呼吸の合間に、唇が少し離れると、高坂がかすれた声で言う。 「先生」 「正解」 「正解する前にくれたな、せんせー」 「うるせェよ」 両手でしっかりと顔を捕まえて、もう一度口の中を堪能する。唾液の一滴さえも甘く、ビールの何倍も早く酔いがまわる。ぽとりと帽子がカーペットの上に落ちるのを合図に、皮をはぐように高坂のシャツを脱がせた。  ソファに腰かけると招く前に高坂が膝の上に飛びのってきた。唇を貪りながら、互いの手を下着に滑り込ませ指を這わせる。十分に質量を増しているそれは触れるだけで声が出てしまうほど敏感だ。まるで中学生に戻ったみたいに気が急《せ》いで、大人の余裕などかけらもない。そのかっこ悪さを気にする時間が惜しい。下着をずらして外気にさらすと、互いにもう先走りを零していて、ますますどちらが若いのかわからなくなる。先端が触れるだけで、息を飲むほどの熱が駆け上がる。互いの中心を包み、手筒を動かし始めると、待ち望んでいた刺激にどちらともなく喘いだ。  もう止まれない。  二つの先端からはとめどなく透明の液が流れ、欲しいと泣いているようだ。 「んっ……、は……」 高坂の濡れた声に、耳が痺れる。眉間に皴を寄せた高坂が俺の手に腰を擦りつけるように上下に揺れ始める。俺の上でそんなに乱れられたら理性が飛ぶ。たまらない。  もどかしくなった俺は、高坂の手をどけて二つの昂ぶりをいっぺんに掴むと、容赦なく扱いた。ぬちゃぬちゃといやらしい音が、荒い息遣いに伴走する。高坂の両手が背中に回される。シャツの上から立てられた爪が、俺を催促している。二つの熱をしっかりと握って更に追い詰める。 「せ、んせっ……、せんせ……」 高坂の甘い呼び声が、俺の耳を犯す。 「お前、それ反則」 「なっ、なに?」 「そんなかわいい声で今先生とか呼ぶなよ。すげー背徳感」 「だって、もう、イきそ……」 尋常じゃないほど熱を帯びた俺たちの身体は、少しの刺激であっという間に熱が弾ける。手に吐き出したものは、濃い。高坂のものだと思うと、不思議と嫌悪感はなかった。むしろ、こんな風に高坂を汚すことができるのは俺だけだという満足感が、俺の黒い部分を満たしていく。  ヒートの熱はすさまじく、高坂がほとんど熱を失っていない二つの昂ぶりに目を落とす。 「先生、今日も挿れんのはナシか」  そう、初めてヒートを起こした時も、俺は僅かな自制心を保って挿入はしなかった。貞操だけは守ってやりたかった。 「ああ。そこは大事な人にとっておけ。お前は男だから一生使う必要もねェかもな」 「先生はおれにとって大事だけど」 「わかってくれよ。俺はお前に自分を大切にしてほしいんだ。お前は自分の身体を大切にしなさすぎる」 「おれもしたいのに?」 「お前……っ」 このときほど自分の自制心が吹けば飛ぶような軽さだと思ったことはない。  マジでやりてェ。ぶち込んで、俺だけのものにしたい。  いいじゃないか別に、本人がしてくれって言ってるんだから、何の問題もないはずだ!   俺の中の悪魔がささやく。ささやきというか、もう、叫びだ。 「ああくそっ、晴、煽るんじゃねェ!」 高坂を裸にしてソファに仰向けに寝かせる。自分も急いで下着ごとズボンを脱ぐ。途中で下着が引っかかったりして、自嘲した。まるで高校生の初体験のように余裕がない。 「晴、足を閉じろ」 太ももに跨り股の付け根に先端をこすりつける。 「あっ……」 思わず声が漏れるほどの快感が駆け上がる。そのまま両足の隙間に自身を差し込んで、汗ばむ肌をくっつける。真下に高坂の欲情した顔。大した締め付けもないのに律動を開始したが最後、もう何も考えられないくらいの快楽に骨まで溶かされた。二人の体液で股の下まで濡れていて、すでに滑りはよかった。まるで挿入しているかのように俺は半狂乱で腰を振る。  二人の腹筋の間に挟まれている高坂の中心には、筋が立っている。腰を沈めるたびに押し返してくるそれは、俺の腹にもよだれのような跡をつける。こんなに欲にまみれ、むき出しになったそれさえも愛しいと思えるのはもう、病気としか言いようがない。  こんなのは狂っている。狂ってしまうほどの肉欲と、恋の境目が、どこだかわからない。交じって、入り乱れて、もう、めちゃくちゃだ。 「晴……」  リビングにこだます肌を打ち付ける音。短く荒い二つの呼吸音。ぴちゃぴちゃといういやらしい粘液の音。湿度は上がる一方だ。 「もっ、でる……」  目の前が真っ白になるような強い快楽の電に打たれると、すべての熱を高坂の腹筋の上にぶちまけた。女みたいに白くてきれいな肌が、俺で汚れる。  それでも足りない。もっと高坂が欲しい。  吐き出しても吐き出しても尽きることのない欲望に翻弄されながら、再び、夜が明けるまで慰めあった。 ***  寝室がだいぶ明るくなってから、目を覚ます。また昼過ぎだ。  あの官能的なヒートの匂いはすっかり消え失せ、隣に自分より一回り小さな背中が横たわっている。いたるところに赤みがかった情事のあとを認め、申し訳ない気持ちになる。  昨日は、本当に危なかった……。  自分の中のアルファの本能とは、こんなに強いものなのかと、思い知らされた。前回よりもさらに強まっていると言っていい。  高坂のヒートの匂いを嗅いだ途端、抑制剤のことなど頭から抜け落ちた。  挿入したい衝動を抑えるのも困難だった。俺は、吹けば飛ぶような塵よりも軽い自分の自制心にすがった。すがってすがって、ギリギリだった。  だが一番恐ろしかったのは、高坂の項を噛んでしまいそうになったことだ。一度や二度ではない。情事のあいだ中、ずっとだ。今まで体験しなことのない、強烈な欲望だった。ほとんど動物的な感覚で、気が付いたらそこに歯をたてていた。すんでのところで止まっては、代わりの様に別のところに所有の印を付けたのだ。  アルファがオメガの項を噛めば、互いの遺伝子情報が書き換えられ、生涯のパートナーとなる。そうなればオメガがヒートをおこしても、その影響はパートナーにしかない。つまり、死ぬまで互いだけを求めることになる。  次は、きっとその線を越えてしまうだろう。おそらく、欲に溺れて、互いに知らない間に。踏みとどまれる確証は、ゼロに等しい。そうなれば、高坂は一生、俺にとらわれたままだ。  潮時かもしれない。  深いため息をついてから、目の前の愛しい体にそっと触れた。  白い背中の筋肉に左手の人差し指を這わせると肩を震わせて高坂が振り返る。 「んん! くすぐったいっ。今なんて書いた?」 「もう一回書いてやるから、あっち向け」  指をゆっくり、今度はくすぐらないようにしっかりと指の腹を押し付けて文字を書く。 「あ! バカって書いたな! ひでえ」 「悪かったな、ひどい大人で」 「はいはい。じゃ、おれの番。先生、手貸して」 背中を向けたままの高坂の脇の下から左手を入れると、手首をぐっと引っ張られる。頑張れば肩越しに俺の手で何をしているのか見えそうだが、目を瞑った。 手のひらに少し高い温度の指が触れる。意識を集中させ、書かれる文字を読み解く。 「おい何で肉って書いた? 昨日散々食っただろ?」 「すげーな先生、一発で分かったのかよ。手のひらに人って書いて食うと、元気出るっていうだろ? けど肉って書いた方が、元気出るじゃん」 「それは元気を出すまじないじゃねェと思うが」 触れるか触れないかのタッチがくすぐったく、変な気持ちになりそうだったので、左手をそっと引っ込める。代わりに背中に今までためらっていた疑問を投げかける。 「ところで高坂、ヒートを起こす生活は不自由だと思わねェか?」 「いんや、先生がいるし大丈夫っしょ」 「俺がいつでも相手してやれるとは限らねェ。抑制剤が効くかは分からねェから、まずは診察してもらえ。少なくともヒートが来た場合に備えて抑制剤は常備しておくべきだ。保険証さえあればすぐに処方してくれる」 「わかった」  後ろからその肩をぎゅっと抱きしめる。高坂の素直さが、鋭利な刃物の様に俺の心に触れる。痛みもないのに赤い血が流れる気がした。 ***  二回目のヒートがあってから、しばらく丹下先生に会っていない。毎週の恒例だった宴もすっかりご無沙汰だ。最初は仕事が忙しいのかと思ったけど、三回目に断られたとき、なんか変だと思った。  それまでは平日でも毎日連絡をよこしてきていた。正直うるさいくらいだった。あいつ、仕事がめちゃくちゃ忙しいくせに、意外とマメなのだ。今日の昼飯はそばだっただの、このコンビニスイーツが激アツだの、いちいち写真付きで送ってくる。なんつーか、あのクールな外見からは予想がつかないが、女子高生みたいなノリに、おれはときどき引いていた。  電話もよくかかってきた。おれは気づかないことの方が多くて、あまり出ない。それでもタイミングよく出たときには、あの透き通るようないい声で、「お前の声が聞きたかっただけだ」とか、ちょっと歯の浮くようなことをサラッと言うのだ。無口なヤツだから、その後話が続かないのに。  なのに、あの日を境に俺のスマホは長いこと沈黙している。  考えてみても、頭が沸騰するばっかりで全然心当たりがない。これはもう本人に聞くしかねェだろうと思い、電話した。めんどくさがりのおれから電話をかけるのは、これが初めてだ。  そして、これが最後だった。 「先生、久しぶり! 最近全然会ってくんねェからなんかあったかと思って」 「久しぶりだな、高坂。元気にしてたか。最近ちょっと忙しくてな」 「今度の週末空いてる? おれ先生に会い……」 「すまない、高坂」 低く冷たい声がおれの言葉を遮った。 「もうお前に会えない。彼女ができた」 「え」  目の前が真っ白になる。  今までなんでその可能性を考えなかったのか自分でもよくわからない。男なんだから、彼女の一人や二人いてもおかしくない。いや、彼女は一人の方がもめなくていいかもな。  しかもこいつはやたらモテる。それは、入院した当初から知っていた。あいつが回診に入ると、女の看護師がそわそわしだすのだ。近くの鏡で顔を確認したり、リップ塗りだしたりするから、俺は立花さんっていう看護師に、聞いたとことがある。 「ねえ、なんでそんなにソワソワしてんの?」 「教えてあげてもいいけどオフレコで頼むよ」 「わーったよ、言わねェ」 「あのね、今から丹下先生が回診に来るから、女子はみんな虎視眈々としてるわけ。ここは戦場!」 「コシ、担々……」 おれはなんでいきなりラーメンの話になったんだろうと思いながらも、何となくそれを聞いたら馬鹿にされる気がして、話を進めた。 「みんなタン塩が現れると目の色が変わるな」 「そうなの。この仕事も結構きつくて出会いもないし、結婚もしたいし、三十路の私なんかはもうなりふり構わず、職場だろうが酒場だろうが全力投球よ!」 ドヤ顔で返されて、いっそすがすがしい。でも、あいつの何がいいんだろう。 「あいつ、いつもムスッとして、口も悪いのに?」 「そこがいいんだよ! におい立つ大人の魅力だよっつっても、私と同世代だけど。あんなにイケメンなのに無表情で、意外と気配りができるところとか、ちょっと鈍感なところとか」 目をハートマークにして力説されて、自分で聞いたことなのにちょっとうっとうしくなってしまったおれに、相手は言葉を続けた。 「っていうか、晴くんだって丹下先生が好きなんでしょ?」 「そうだな、弁当くれるし、あいつはいい奴だよ」 「そうじゃなくて、いつも丹下先生独り占めしてさ、ラブラブじゃん」 「えっ!? なっ、なんだそれ! そういんじゃねーよバカっ」 「わーっ、なにその超初々しい反応! 可愛すぎてムカつく! 丹下先生も似たような反応してたけど、こりゃ先生がメロメロになるはずだね、ほんと腹立たしい、家でやれよクソ」  ちょっと待て、それはどういう意味だと聞き返す前に、立花さんは先生に呼び出されて出て行ってしまった。  そう、それで今は先生と電話中。  彼女できておめでとうって言わないと。そう思うのに、言葉が出てこない。代わりに、全然違う言葉が口をつく。 「彼女も連れてきたらいいだろ、飯屋でも映画館でも」  彼女になんか全然会いたいとは思わない。でも、それでも先生と会えなくなるのは嫌だった。 「週末は彼女と過ごす。平日は忙しくて時間とれねェんだ。悪いな」 「……んでだよ」 「今、何て?」 「ざけんな、なんでだよっ!」 腹の底から声が出た。頭がぐらぐらと煮えたぎっていて、何も考えられなかった。 「お前、おれのこと毎週呼び出しといて、散々電話かけてきといて、彼女できたら急に邪魔者扱いかよ。そんで連絡もせずにいきなり消えるつもりだったわけか。お前にとっておれはその程度のやつってことだったんだな! お前なんか殴る価値もねえよクソタン!」  通話ボタンを切って、スマホを布団に投げつけた。  じわじわと視界が歪んでいって、おれは床に突っ伏した。  苦い、いやな気持ちが腹の奥からじわじわとこみ上げてくる。吐き出したい何かがあるのに、喉につかえていて苦しい。  くそっ……。ばかにしやがって……。  真っ暗な視界の中で、自分の呼吸音を聞いていると、思い出すものがある。  まただ……。また、この感覚。  二度と聞きたくない言葉が、あの声が、すぐ耳元で繰り返される。忘れたいのに、忘れられない。もう顔も思い出せない人なのに。 「もう、会えないのよ。ごめんね」 そう言って、あの人に置いていかれた。じいちゃんのうちに。  黙って置いていかれないだけましだと言い聞かせた。だって、そうじゃなければ帰りを待ってしまうから。五年でも十年でも、あのボロ家に留まって、二度と戻らない人をただ待っているのはきっと苦しい。でも、もう会えないと、あんなにきっぱりとした相手の拒絶を受け止めるには、おれの心はあまりにも幼く、小さかった。  あれから十六年たった今も、おれの心はあの時のまま、ひとつも大きくなっていない。喧嘩が強くて、丈夫な身体の中にある心は、四歳のまま、小さく幼く、残酷だ。誰にも守ってもらえない、弱くて未熟な、親に捨てられた四歳のおれ。  おれは泣く。嗚咽を零して。  悲しくて泣いているのか、寂しくて泣いているのか、それともあの頃のおれのために泣いているのか、さっぱりわからなかった。 ***  俺の家で高坂がヒートを起こしてから、ある可能性に思い当たった。  高坂のヒートは俺が原因ではないかと。一回目も二回目も、俺の目の前で始まった。その時すぐ隣にいたのはアルファの俺だ。俺が不用意に距離を詰めたことがトリガーになっている気がしてならない。それは、俺たちが運命の番だと感じる理由の一つでもある。  抑制剤を使ってヒートの誘発が防げるかどうかも、俺が調べた限りでは効く保証がなかった。事例が少なすぎて、今の医学では確立された対処法はなさそうだ。俺の方も検査をしてもらったが、ヒートに当てられる可能性を示すようなデータは得られなかった。もちろん、俺が当てられた時の対処法も見つかっていない。  つまり、会えばきっとまたヒートは起こり、俺たちは情事を重ねる。  そして、そうなると俺は今度こそ挿入するだろうし、項も噛むだろう。最中にはあいつを自分のものにすることしか考えられなくなる。そんな風に自分が動物じみたやり方で、相手の自由を奪ってしまうことが怖かった。堪えられない、と思う。  俺は自由なあいつが好きだ。あいつの自由を奪うものは、たとえそれが俺自身であっても許せない。  俺に会いさえしなければ、高坂はヒートから自由になれるだろう。  答えは出ている。あいつを自由にしてやるためには、俺が身を引くしかない。  しかしもう会わないということをあいつに説明するのは難しい気がする。もともと電話やメッセージの類を面倒くさがるあいつのことだ。とりあえず会って話すのが筋だと言われるだろう。  けれど、俺は会うことをためらっていた。会えば俺の決心は揺らぐ。俺の理性はそんなに強靭ではないということは、高坂と出会ってから嫌と言うほど思い知らされている。説得できる自信もない。もしまた以前のように会いたいと言われたら突っぱねる自信もない。それくらい、あいつには強力な魅力がある。大の大人が情けない言い訳しかたてられないのだが、それはもうほとんど万有引力のように、そこへ俺が引き寄せられていくのはごく当たり前のことのように思えるのだ。  連絡をやめて以来、高坂からメッセージが何通か来た。今までだったら排便中だろうがオペ中だろうが構わず即返信していたが、今は努めてそっけない態度で返している。身を切るような思いだった。  三回目の食事の誘いを断ると、電話が鳴った。初めて効く高坂専用の着信音に、飛び出た心臓を口に押し込んだ。あいつは引き下がる気はないらしい。はっきりと伝えて終わりにする必要がある。自分のためにも。俺は自分に言い聞かせる。男だろ、しっかりしろよと。 「先生、久しぶり! 最近全然会ってくんねェからなんかあったかと思って」  たった一声で鼓膜を温かくする。まるで手を伸ばせば届くような気にさせる。丸い笑顔が脳裏に浮かぶ。今すぐ抱きしめられたらいいのに。いや、もともとそんな関係ではないのだが、思うだけなら自由だ。 「久しぶりだな、高坂。元気にしてたか。最近ちょっと忙しくてな」 「今度の週末空いてる? おれ先生に会い……」 最後まで聞いていられない。  バカ野郎。聞いたら揺らぐだろ、俺の決意が。 「すまない、高坂。もうお前に会えない。彼女ができた」 「え」 電話の向こうで息を飲む音が聞こえた。自分がついた嘘なのに、血の気がさっと引いていく。  もう、戻れない。  そう思うと、途端に胸の中に苦いものが込み上げてくる。それを飲み下すように、俺はごくりと唾をのんだ。それでも二日酔いのときみたいに、喉の奥からむわりと嫌な空気が上がってくる。 「彼女も連れてきたらいいだろ、飯屋でも映画館でも」  泣きべそをかきそうな声。胸が締め付けられる。俺はこの声に弱い。  なんで、お前がそんなに悲しそうなんだ。  俺になんて構ってないで、好きに生きてほしいと思っているのに。 「週末は彼女と過ごす。平日は忙しくて時間がとれねェんだ。悪いな」 耳の奥に、かすかにあいつの息遣いが聞こえる。ふう、はぁ、と次第にはっきり大きくなっていくそれを黙って聞いていると、そこに交じって微かな声がした。 「今、何て?」 聞き返してから、しまったと思った。 「ざけんな、なんでだよっ!」 初めて聞く、高坂の強い非難の声だった。それはどう考えても憤りの言葉なのに、なぜだかひどく傷ついたような痛々しい響きを含んでいる。 「お前、おれのこと毎週呼び出しといて、散々電話かけてきといて、彼女できたら急に邪魔者扱いかよ。そんで連絡もせずにいきなり消えるつもりだったわけか。お前にとっておれはその程度のやつってことだったんだな! お前なんか殴る価値もねえよクソタン!」 「待て高坂! 俺は……!」  言い訳する時間も与えられずに、通話を切られた。  くそっ……!  そんなわけないだろ、俺にとってお前がどれほど価値のある存在だったか……。  でも。  でも、これでいい。嫌ってくれればもう戻りようもない。  こんな風にしかお前を助けてやれない俺で、すまない。  いつの間にか暗くなった部屋。高坂の特等席だった二人掛けのソファ。いつからか右側が俺の席になった。あいつがここに来なくなってずいぶん経つのに、俺はいまだに右側に座る。あいつと出会う前の様に真ん中に座ってしまったら、楽しかった日々も全部過去になってしまう気がして、小さな習慣を手放せない。  俺は切ったスマホの待ち受けをぼんやり眺めながら、ソファの右側に腰を下ろしたまま、もう二度と立ち上がれない気がしていた。 ***  おれは何か月ぶりだかよく覚えてないけど、とにかく久しぶりに丹下先生の病院に来た。前に骨折した右足の経過観察のためだ。受付に行って名前を確認する。 「えっ? 丹下先生じゃないんですか? なんで」 「担当の医師が変わりましたので」 「丹下先生は今日いないんスか?」 「いらっしゃるとは思いますけどね」  そっけない受付のねーちゃんに言われて、おれは悔しくてぎちぎち奥歯を噛みしめた。くそっ、タン塩、逃げやがったな。  おれは今日、あいつに会って、一発殴ってやろうと思っていた。落とし前をつけるために。  電話一本でもう会わないと言われても、全然納得いかない。しかもかけたのはおれの方だし。おれが電話しなきゃ、何も言わずにドロンするつもりだったはずだ。そりゃもう、友達として、というか二回もそういうことをした相手として、腹立って当然だ。そう思うと、やっぱり一発殴ったぐらいじゃ足りない気がしてきた。あのきれいな鼻ぐらいはへし折らせてもらわないとな。  おれはパキポキと指の関節を鳴らした。  何度かあいつん家に乗り込んでいこうとした。地図がサッパリ読めないおれが、数回しか行ったことのない場所なんて覚えているはずもなく、結局グルグル回るばかりで辿り着けなかった。  だから今日はチャンスだ。見つけたら、とっ捕まえてフルボッコだ。  おれを診てくれた代わりの医者は、レントゲン写真を前に首をひねり、「きれいな骨だねェ。ホントに骨折したの? なんで今日病院来たの?」なんて頓珍漢なことを言っていたのでムカついた。おれ呼ばれて来ただけだし。  診察室から出ると、通路の一番端の部屋に見覚えのある後ろ姿が横切る。おれははっと息を飲む。  いた……!  懐かしい白衣。すらりとした後ろ姿は、ほかのどの人間よりも眩しい。ちらりと見えた横顔にまとうだるそうな色さえ、精悍さを引き立たせている。  何となく別人のように見える。目を凝らして、しばしその白い影を目で追った。デスクの周りを忙しなく動き、ときおり誰かと話しているようだが、内容までは聞こえない。  見つけ次第捕まえるつもりだったのに、心臓をぎゅっと握りつぶされたような痛みに、おれは顔をしかめた。毒気がどんどん抜かれていく。今がチャンスなのに、ここで追わなきゃいけないのに、おれの足は言うことをきかない。  浅い息を繰り返していた。  なんとかしねーと。  おれは声を振り絞る。 「タン塩!」 少し遠かった。声が上ずってしまい、届かなかった。同時にタン塩の姿が柱の向こうへ消える。あいつの嫌味なほど長い足で繰り出す一歩は大きく、おれが走ってもこの距離じゃ追いつけないかもしれない。 「ま、待てよ!」  慌てて後を追うが、細い廊下に迷い込む。きょろきょろと見渡すおれの目に、黒っぽいものが飛び込んできた。  あっ、マフラー。  タン塩が愛用している薄手のマフラーが忘れ物のように床に落ちている。きっとデスクに置いていたものが落ちて、誰かに蹴られたのだろう。深い紺色のそれは、背の高いあいつによく似合っていた。拾いあげた時には完全に本人を見失ってしまった。おれはあたりを見回すが、もう遅い。  エレベーターがいくつか動いている。あれに乗ってしまったのかもしれない。  そのとき、すぐ後ろから呼び止められて、おれはぎくりとする。 「ちょっと君! ここは業務用通路だから、一般の人は入っちゃだめだよ。って、あっ! 晴君じゃないか。だめだめ、ここは体の悪い人が来るところ。帰って帰って!」 「げ! インチョー、おれは今日診察を受けにきたんだよ」 「嘘つけぃ! 君は入院中から元気そのものだっただろ。君がいるとロクなことがないんだから」 「インチョー、タン塩に会わせてくれよ」 「タン塩? 焼肉屋に行けば会えるんじゃないの? 行っといで。君には病院よりも焼肉屋が似合ってるよ。じゃあね」 首根っこを掴まれてポイっと外へ放り出される。丹下先生です、と弁明する間もなかった。  さあ、どうすっかなー。タン塩が今ここにいることはわかった。でも仕事中のあいつに会ったところで話せるとは限らない。ここで暴力沙汰になるのもまずい気がするし、だからっておれは一度振り上げたこぶしを引っ込めるような男じゃない。病院へは迷わず来れるから、ここで待ち伏せして帰りの時間帯に捕まえてやる。それまでまだ数時間あるから、一旦帰って腹ごしらえだ。腹が減っては喧嘩に負けるって言うしな。  病院前から黄色いバスに乗る。一分も待たずにバスが来て、ガラガラの車内に足を踏み入れる。あったかそうな日差しの差し込む窓際に陣取った。膝の上にちょこんと乗せたタン塩のマフラー。黒っぽい子猫がうずくまっているみたいだ。どっかの国では猫も食うらしい。おれは猫より牛の方が食いてェけど。  タン塩とまた焼き肉屋行きてェな。  心もとなくなって、寒くもないのにマフラーを首に巻き付けた。少し長さのあるそれは、おれの鼻まですっぽりと包み込む。あいつの匂いがふわっと鼻を掠めた。シャンプーなのか、柔軟剤なのかはわからないが、それに交じって微かに、でも確かに、あいつの優しい匂いがした。ごつごつした手。眉間のしわ。頼りない温度の肌。甘い唾液。あいつの体の一つ一つをあんなに近くで見て、触れた。全部今でもはっきり思い出せるのに、夢の中みたいに遠い。  胸の奥が切ない。  こんなところに痛みを感じるなんて、あいつに会うまで知らなかった。骨が折れるより、歯が折れるより、耐えがたい痛みだ。  おれはこの痛みをどうすればいいのか知らないから。もしかして、ずっと痛いままなのかもしれないし、この痛みはもっとひどくなるのかもしれない。和らげる方法も、治す方法も知らない。わからないことほど怖いものはない。  震えるほどの不安が襲ってきて、自分の呼吸音が耳に響く。息を吸っても吸っても、全然酸素が足りない。更に大きく、速く空気を吸うことを繰り返した。体中から冷たい汗がにじんできて、身体の中心は熱いのに、手足は氷を握っているようだ。  身体をかがめて丸くなる。目を瞑って、両手で縋るようにマフラーの柔らかさを確かめた。わずかなあいつの名残りをかき集めるように、浅い呼吸を繰り返し、肺をあいつでいっぱいにした。  動悸が始まる。  手が震える。  まずいな、またか! 今はタン塩もいないってのにっ……。  バスが最寄りの停留所に着く。  何とか立ち上がり、ふらふらと家を目指す。普段なら一分とかからない歩きなれた道も、今は果てしない。震える手ではなかなか鍵が開かない。やっとの思いで玄関のドアを開けて倒れこむ。  這うようにベッドへ辿り着くと、重い体を持ち上げてなんとか横になる。この調子じゃ夕方あいつを捕まえに行くどころか、晩飯の調達もままならない。とりあえず鎮静剤を手に入れねェと。おれはまだ抑制剤を持っていないが、もうきてしまったものに抑制剤は効かないだろう。  スマホに手を伸ばす。履歴の一番上にある名前に電話だ。 ―――プルルル、プルルル――― 「おう、どうした晴、珍しいなお前が電話をよこすなんてよ」 「タクか。おれちょっと調子悪くてよ、今からうち来てくんねェか」 「大丈夫かよおい。分かった今すぐ行く」  助かった。とりあえずタクが来てくれれば、鎮静剤と晩飯の調達をお願いできる。他のことは体が回復してから考えよう。  ベッドの上で半身を起こす。手を伸ばしてティッシュ箱を引き寄せる。右手を下着に滑りこませて湿った自身を取り出すと、何も考えずに擦る。ぴりりと刺激が走って、白いものが弾ける。ティッシュで拭いて、また擦る。何度繰り返しても、排せつ行為の域を出ないそれに、おれは何も感じない。むしろ吐き出せば吐き出すほど、苦しくなった。目に映るものがぼやけて、あったかいつぶがぽたぽた膝の上に落ちる。それでも手が止められなくて、今一番考えたくない奴の顔が頭に浮かぶ。  あいつはどんな風にさわってたんだっけ?  思い出しながら触ってみても、あの時の気持ちよさには程遠くて、空しいだけだった。 つづく

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